S-5 「沙也加のささやかな願い」
病院に残ったのは3人だけだった。沙也加と岬と林。林が煙草を吸いに外へ出たので、病室に残されたのは3人だけだった。沙也加と岬と──
朝日燈真はベッドで眠っていた。その腕には点滴。側に控えるのは心電図と酸素のモニターだ。気道や呼吸に異常は見られなかったようだが、「彼はDDAを常用していて」と教えると、医者はそうですかーと言って目を細めた。
「なんか疲れた」
何も終わっていない。なのに沙也加の体からは、すっかり気力が失われてしまっていた。
「そうだな。林さんには助けられてばかりの一日だった」
「いっくんお疲れ様」
「何もしてないさ」
嘯き、岬は病室から外を眺めた。個室をあてがわれたのは幸いだった。聞かれたくない話をする時に、カーテンの仕切りじゃ心許ない。
「朝日くん、DDAの常習者だった。たぶん中毒レベル。幻覚や幻聴もあったかもしれない」
「マジか」
薬に狂わされた患者は知っているけれど、機械にやられた人間はどうすりゃいいのかな。珍しく弱気な台詞を吐いた岬の背中を、沙也加は強く叩いた。
「あたしに詰めてきた、あの強引で推しが強い岬一郎はどこ行った?」
「……そだな。悪い」
思い出したように岬は唇を歪めた。
朝日の様子がおかしくなったのは、それからすぐの事だった。何度もうなされては体をびくんびくんと大きく跳ねさせ、苦しげな声をあげる。
ナースコール、と沙也加が考えたのと。
大丈夫かと顔色を岬が覗き込んだのと。
目を見開いて朝日が起きたのが。
ほぼ同時の出来事だった。うぉっと声を出して岬は反射的にのけ反ろうとしたが、止めるように朝日がその腕を掴んだ。迫る顔。
「好きです、岬先輩!」
「元気みたいだな、少年」
朝日のその告白の言葉を聞いた瞬間、沙也加の頭に過去の夢の記憶が飛来した。今回は離されるわけにはいかない。肩から体を動かし、ベッドに駆け寄る。朝日は病み上がりとは思えないほどの力で、岬の腕を掴んでいた。伸び放題の爪が食い込み、岬の肌から血が滲む。
*
刹那、世界の動きがスローモーションに変わる。夢のようだった。沙也加は自分の腕がゆっくりと動くのを見て、思考を加速させる。
このまま朝日に、優しい言葉をかける事はたやすい。大丈夫? 何かあったら遠慮なく言ってね。そう寄り添うのは簡単だ。
けれど。岬に告白をした朝日。夢とまったく同じだ。あれはあたしが見た夢だったのか。朝日の見る夢だったのだろうか。判断は沙也加にはつかなかったが、朝日が危うい事だけは分かっていた。
意識が危うい。
夢と現実の境が危うい。
優しい言葉は肯定を意味する。これは正しい。これは間違いじゃない。今いる世界が夢と現実のどちらであろうと──朝日にとって都合がいい世界。それを肯定する事はできない。あたしができること。以前に岬と交わした会話を沙也加は思い出す。「だからこそ──人に教えてあげられることもあるんじゃないかな」。
あたしが朝日くんに教えてあげられること。
あたしだからこそ。
できること。
光が舞う思考の世界の片隅で、岬が目線を寄越した。しばし見つめ合う。通じる感覚。誰かと心が繋がる喜び。お互いがお互いを信じて、一つの大きな流れを作ろうとしている。
──信じる? このあたしが? 覚えた自分の感覚に沙也加は驚愕する。血が繋がった家族でさえ信じられなくなった自分が、たった3ヵ月しか知らない他人を信じている。不思議なものだ。
共通認識が言語化されて意思となり、お互いの感覚をリンクさせる。岬が次に何をしようとしているのかが分かった。
*
「ごめんな朝日くん。気持ちは嬉しいけど、お断りするよ」
*
次に岬はこう言う。
*
「男同士なんてごめんだね」
*
沙也加が次に何をするか、岬も理解していると信じたい。
*
弾かれたように手を振り下ろし、岬を掴んでいた朝日の手を叩き落とした。
「いっくんから手を離せ変態ホモ野郎!」
*
夢の中にいるみたいだった。何もかもがゆっくり流れていき、その中で沙也加の心だけが自由だった。
ベッドの上に降りていく朝日の腕。沙也加の手が当たった部分だけが、浮かび上がるように赤く染まっていく。そして布団の上に軟着陸。何があったか把握しようとするまばたきをしながら、朝日がこちらを向く。目があった。
初めて朝日が、沙也加を見た。
*
溢れかえる洪水のような思考の渦に身を任せ、沙也加の思考はさらに加速する。溢れかえる感情の波がとめどなく、形を伴って沙也加の口から出ていく。
「あんた、なんなの? どういう神経してんの? 頭おかしいの? ──そりゃあ前からか。頭おかしいんだったら頭おかしいで、おとなしく寝てりゃいいんだよ。なんなのさっきの! ……はあっ? 覚えてもないの? 記憶力バカなの。元からバカなの。部屋の生ゴミと一緒に頭まで腐ったの? いっくんの腕、引っ掻いたじゃん。ボコボコじゃん! 血が出るほど掴むってなに? 加減って言葉まで覚えてないの? そんで乱暴に引っ張るって、あんた動物? 動物だったら人間サマに迷惑かけんなよ。勝手にのたれ死んどけよ。学校にも来ないしさ。サークルにもさ、毎日来てた人間が急に来なくなってさ。で、なんであたしが聞かれないといけないのさ!同じクラスってだけじゃん。聞かれても知らねっての。みんな優しいからさ、心配して家まで言ってさ。そしたら急にぶっ倒れて。迷惑かけまくるならさ、もうそのまま死んどけよ。いっくんはさ、超! 優しいからめっちゃ心配してたんだよ。さっきだってあんたがあーだのうーだの喚くからさ、心配して様子見てたんじゃん。そしたらなに? 腕掴んできて、怪我させてさ、あげくになによ。好きです岬先輩って? いっくんは男! 岬一郎。岬一郎って言うの。長男だから一郎。なに? 長男だから一郎って。大正の生まれか。それとも明治か。えっとその前は──まあいいや。長男って言葉わかる? 長い男って書くの。男。男。いっくんはあたしと付き合ってる正常でまともな、男なの。あんたみたいな性癖歪んだ変態にコクられるって、めっちゃかわいそう。あとで慰めてあげないと、ね」
「言い過ぎだぞ沙也加」
「えー言い足りなーい」
「本気かお前」
そう岬が言ったが、沙也加はもちろん本気じゃない。全てを出し切った。沙也加の全てを、朝日にぶつけた。そのせいで脳がオーバーヒートしたようで、知能指数が大幅に低下している気がしていた。
*
*
あの後、闖入してきた林に連れ出されてしまったので、沙也加は直接は聞けなかったのだが。
「朝日くん、謝ったぞ」
岬は一晩、病室にいたそうだ。翌朝、沙也加は男同士の会話の断片を聞いた。朝日は岬に怪我をさせた事と、好きになった事を謝ってきたらしい。前者は当然として、後者には疑問しかない。沙也加がそう言うと、岬はニヤリと笑った。
「少年らしい、だろ」
「あの子はほんとによく分からない」
「半分は沙也加のせいだけどな」
確かに、朝日を全否定したのは沙也加だった。過剰なほどに、朝日を取り巻く現状を──叩かれた腕の痛み。人を傷つけたという事。同性を好きになる事の障害。夢は夢でしかなく、現実は思い通りにならない。そう──叩きつけたつもりだったが果たして。
結果、岬に頭を下げた、という事は朝日は現実を受け止めた、という事だ。
「朝日くん、お前にも謝ってたぞ」
「なんで」
「怖かったからじゃないか」
だから言い過ぎだぞって言ったんだ。そう笑う岬。その尻を沙也加はつねりあげてやった。
「でも、怖がらせるほどで正解だったさ」
それには沙也加も同感だった。
結局、自分にとっての「岬一郎」には、沙也加はなれなかった。
沙也加がなれたのは──
朝日にとっての敵。そう言い切ってしまうのは語弊があるとも思ったが、他に適切な言い方を沙也加は思いつけなかった。
「象徴──じゃないかな」
岬が言った。
つらい現実の世界。自分にとって都合の悪い世界。厳しい風当たりばかりの世界。不確かで不安定で不明瞭な「現実」という物に、明確な形を与えたのだ。
渡会沙也加は朝日にとって「この世界の象徴」になった。彼が向き合うべき存在に。
「……ヒーローになりたかったんだけどね。それはいっくんに任せた」
「任された」
ヒーローはとにかく眠いので眠りますおやすみなさい、と言い残して岬がベッドでいびきをかき始めたので、沙也加はそっと自室を出た。
見舞いに行こうかとも考えたが、結局沙也加はやめにした。現実──の象徴──が花を持って入院先に現れるなんて。
「とんだ悪夢だ」
外はすっかり陽が昇りきっていて、ほのかな暖かさを大地に与えていたが、吹き荒ぶ風はその恩恵に預かっていないようで。そろそろコートを出さないと、と沙也加は肩をすくめた。秋が終わろうとしている。
次は「M-5」。




