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S-4「知る直後 強いる覚悟」


 誰にも止められない──止める気は誰にもなかった。無駄だったからだ──林の関西弁お喋り機能が完全に停止した。沈黙。その異常事態に引きずられるように、皆も口を閉ざした。静寂。岬でさえ、いつもの飄々とした雰囲気を無くし、眉間に手を当てて俯いている。尋ねられて、沙也加が答えを返した途端の出来事だった。

「今日も朝日くん、学校に来ていない」

 それは用意していた問答だった。朝日が学校に来ていない事は1時間目から、同じ講義を受ける沙也加は知っていた。当然、岬にも伝えてある。


「他のみんなの反応が見たい」

 彼はこうも言った。「朝日くんにとって児童文学研究サークルはある種、居場所だった。自分が居ていい場所」

 確かに沙也加が思い返してみても、誰と会話を楽しむでもなく、イベントに積極的に参加するわけでもなく──話しかけられた時には狼狽し、挙動不審になり、言葉を無くしてはいたけれど──朝日燈真は毎日、放課後には部室に来ていた。

「少年にとって部室は特別な場所だ。その、天国にも思える、夢のような空間を構成するもの──つまり俺達、他の8人だ。今後の少年にとって良いものなのか、害するものなのか見極めたい」

「あたしも勘定に入ってるの?」

 当然。岬はそう答えた。そんな彼氏だからこそ、好きなったし、出来レースに協力もしたわけだが、果たして──

 本日の朝日の動向を尋ねてきた岬は──

 額を覆った指の隙間から、彼の目が絶え間なく動き続けているのが見受けられた。こっわ。沙也加は内心で呟いた。


「……やっぱ何かあったんちゃうん?」

 口火を開いたのは、岬の読み通りやはり林であった。「って言うか、絶対何かあったんやろ。おかしいって。今日で10日やろ?」

 誰かが言った。「まさか倒れてる、とか」

 誰かが言った。「朝日くん、一人暮らしだ」

 誰かが言った。「マジか。それやばくない?」

 誰かが言った。「あ。俺、電話してみる」

 沙也加が答えた。

「もう、しました。一週間ぐらいかけてますけど、出ません。っていうか電源を切られてます」

 誰かが落ち込む。「そっか」

 誰かが心配する。「無事かな朝日くん」

 誰かが思いつく。「そうだ。誰か実家の電話番号とか知らない?」

 沙也加は答えた。

「学生課に聞いたけど、個人情報は教えてくれませんでした。先生にも連絡してくれるように頼みましたが、どこまでやってくれるかまでは」

 誰かが思い出す。「俺、朝日の住んでるアパート知ってる」

 誰かも思い出す。「確か1階の1番奥って言ってた。いつも日が当たらないって」

 誰かが提案した。「俺ちょいと行ってくるわ」  誰かが言った。「あ。俺も」「私も」「僕も」「何か差し入れ持っていく!」「風邪とかならそれでもいいけど」「そうですね。まず確認してみましょう」「窓、窓」「俺、鍵閉めます」「……」「……」「……」「──岬?」

 林が声を出した。名前を呼ばれても、頭を抱えたまま岬は微動だにしなかった。

「そんな心配するこっちゃないって。きっと大丈夫やから」

 そうですね。と岬はやおら立ち上がる。

「この最ッ高の場所に、早く少年を連れ戻してやらないと」

 ……どうやら合格だったらしい。沙也加は内心で安堵の息を吐いた。

 皆は身支度を整えると、次々と部室後にしていく。少人数の集団らしいフットワークの軽さだが、この人達なら200人いたって、同じ行動をとっているように沙也加には思えた。


「あれ。沙也加ちゃんは行かないの?」

 部室の入り口から林が、顔だけを覗かせる。体は急いでますよ、というアピールらしい。

「えーあたしもですか? 面倒くさいなー」

 いいじゃないですか、放っておいても。風邪引いて寝込んでるんですよ。たかが風邪くらいでこんな集団で、ぞろぞろ行くなんて。それに同じサークルってだけで別に朝日くんとはそこまで仲良くはないし。って言うか、まだ目を見て話してくれないんですよあいつ──。そこまでひと息に言ってしまってから、沙也加は自分を見つめる視線が、林の他にもう一つある事に気が付いた。優しい眼差し。

「……やっぱお前は面白いな」

 岬がニヤリと笑った。

 くそっ。見透かされている。心の中で沙也加は舌打ちした。


     *

     *


 朝日の部屋は誰かが言った通りアパートの奥で、2階へ続く階段の陰になっているせいで、どことなく密林で眠る失われた遺跡を思わされた。扉横の土の部分には、いい塩梅で雑草が生い茂っている。

「朝日くーん。林やでー」

 到着するなり躊躇なく扉を叩く林。呼び鈴をやたらめったらに押す。

「朝日ー生きてるかー」

「朝日くーん」

 構造からしてワンルームの住居だ。裏の窓側に回った人間の声が聞こえたが、そちらも反応は無いようだ。

「部長、替わって」

 それだけ言って、返事も待たずに岬がドアを叩く。「いるんだろ、開けてくれよ少年!」

 その時だった。部屋の中から、微かに音がするのが聞こえた。思わず沙也加は林と目を合わせる。林の細い目の端が潤んでいるように見えたのは沙也加自身も安堵をしたせいだろう。

「朝日くん!」

 岬は屈むとドアの郵便受けに指を突っ込んだ。そこから中を覗き込む。何かが見えたのだろう。荒げた声を出した。

「なんで電源切ってんだよォ! 心配したじゃないかァ!」

 ……おっとぉ。沙也加は驚きを隠せなかった。そんな大声も出せたんだ、と恋人の知らなかった一面を、ただただ呆然として見ていた。

 玄関の騒ぎを聞きつけて、裏に回っていた連中が戻ってくる。岬と入れ替わった林を中心に、皆が様子を窺い続けた。沙也加もただじっと待つ。

 部屋から聞こえる物音はしだいに大きく確実な物へと変化していき、ドアのそばまで来た気配さえ感じ取れた。

 カチャリという金属音。内鍵が回った音だ。

 林に躊躇の気配は無い。ノブを引く。

 開くドアにもたれかかっていたのか、朝日の上半身が現れ、倒れてきた。咄嗟に林が抱きかかえた。

 朝日。朝日燈真。

 細くて長めの──岬が「少年」と呼ぶ由来である、ロボットアニメの主人公のような──黒髪は少し伸びていた。髭は薄めだが顎に溢れているし、着ているパジャマはくたびれ切っていた。頬はこけ、目は窪み、体臭がこもったすえた臭いが鼻をつくが、朝日がちゃんと息をしている喜びに比べたら些細な事だった。

「大丈夫かいな、朝日くん?」

 林はすでに涙声だった。こういう性格だからこそ、部長として愛されているのだろう。

「もうちょいはよ来たったら良かった。ごめんなぁ。こんなガリガリになってもうて。俺、部長失格やわ。ごめんな」

 謝罪の言葉を聞いていたのかいないのか、朝日はあらぬ方向へと手を伸ばすと、掠れながらもしっかりとした声で一人一人の名前を読んだ。

 もちろん沙也加の名前もあった。覚えてたんだ、と沙也加は冷めた感情で思ったが、それが照れ隠しなのだと自覚していた。

 けれど──。


 沙也加の視界が怒りで赤くなった。毛細血管が破裂したかと思った。岬が肩を押さえてくれなかったら、飛びかかっていたところだった。

「消えて」

 皆の顔を見て、朝日がそう言ったからだった。サークルメンバーの全員に動揺が走る。心配して駆けつけた人間を真っ向から拒絶する、朝日の一言。振り返ると、岬と目が合った。最悪だ。眼差しがそう語っていた。差し出した手を払いのけるような朝日の態度に、人生経験も豊富とはいえない大学生の面々は、どのような感情を抱くだろうか。決まっている。心配していたのに──。せっかく来てやったのに──。お前が拒否するなら──。そっちがその気なら──。

 朝日は居場所を自ら否定した──。

 沙也加はこれ以上見ていられなくて、目を逸らした。誰の表情も見えないように、俯く。肩に触れられているままの岬の体温だけに集中をする。


「そんなん言うなて」

 たっぷりと憐憫を含ませた林の声。関西弁が持つ柔らかい響きが、皆に伝播していく。「何があったかは知らんけど、まだ入学して半年しか経ってないやん。もっと自分大事にせんとあかんのんちゃう?」

 空気が悪くなったのを理解して言ったなら大したものだが、おそらく林にその意識はない。彼は善人なのだ。その素直な性格で、人の心の悪しき気配を断ちさっていく。それは沙也加には思いもしない方法だった。素晴らしい人間性。それは岬も同感だったようだ。「へー」と感嘆の声をあげた。

 不意に朝日の上体が崩れた。

 安堵したのが緊張が解けたのか、全身を支える力を失って、朝日は気を失ったようだった。彼の体が地面についてしまわないように抱えたまま、林が「岬ぃなんとかしてくれ」と情けない声を出した。

呼ばれた岬はまず朝日の肩を叩いて、何度か大きな声で名前を呼んだ。反応がないのを確認してから、大きなため息のような呼吸をし、振り返る。

「──平嶋くん。救急車呼んで。──菊池くんはそこのコンビニに確かAEDがあったから借りてきて。──阿部くんと梶田くんは悪いけど、学校まで走って。保健室の先生がいたら連れてきて。もう一人は学生課に行って、事情を話して至急実家の番号を入手して。──知子さんと沙也加は部屋の中で、朝日の着替えと入院に備えて生活用具を探して。俺は道路まで出て、誘導と適時指示を出す」

「俺はどうすりゃいいんや?」

「林さんは動くな。動かすな。簡単だろ?」

 それだけ言い残すと、岬は連れ立って去っていった。残された沙也加は先輩の知子と視線を合わせ、お互いに頷き合った。林と朝日の体を跨ぐように部屋へと侵入すると、

「じゃあ私は着替え探すね。沙也加ちゃんは入院用の道具を探して」

「はい」

 沙也加は部屋を見渡した。惨状は筆舌に尽くしがたいほどだった。食べ終わった弁当容器。空になったペットボトル。丸めたティッシュ。そういった物があらゆる箇所を埋めており、どこかで何かが腐っている臭いがしていた。脱ぎ捨てられた服は見るからに湿っていて、それも悪臭の原因だろう。排水口自体から立ち上っているのかもしれない。

 洗面器とタオルとスリッパ。頭の中で必要であろう物を考える。歯ブラシは洗面所にあるだろう。そう思いついた時だ。沙也加の意識が視界の隅を注視した。銀色をした人間の頭部ほどの大きさ──沙也加はそれをバイクのヘルメットだと思っていた。よく考えれば朝日燈真とバイクは恐ろしく似つかわしくない。──乱暴に脱ぎ捨てたのだろう。シンクの側に転がっていたDDA。

 ……なぜ気付かなかったのだろう。過去に朝日の虚な視線を見て、連想した事があったではないか。

「確か……」

 沙也加は記憶の底へとダイブする。DDAについて調べていた時に見た、週刊誌の警告記事。そこにはDDAが人間の脳に与える影響と、その中毒性について書かれていた。某脳科学者や某医者といった有識者へのインタビューも添えられていた。

 

『過度なDDAへの依存は、ユーザーの現実認識能力を著しく低下させます。現実世界の人々を『夢の中の存在』と誤認し、彼らの感情や意志を無視する傾向が強まる。これは現実世界で健全な人間関係を築く上で、致命的な欠陥となります』


 ……なぜ気付かない! 沙也加は自分の側頭を拳で叩いた。ヒントはいっぱいあったじゃないか。朝日の挙動。言動。

 誰の目も見ない。あれは夢との視界のズレだ。自分の網膜を使って映像を結ぶ感覚を見失っている。

 部室ではずっと何もない中空を見ていた。コンソールが出てこない事を不思議に感じてリトライしていたのかもしれない。

 うめき声ばかりで言葉がすぐ出てこない癖。声帯を使っての発生方法を忘れていたのだ。


 沙也加は何度もこめかみを叩いた。くそっくそっくそっ。自分の愚かさに嫌気が差す。自分が渡会沙也加にとっての岬一郎になれなかった事が、悔しくて悔しくてたまらない。古いテレビみたいにこのまま刺激を与え続ければ、うまく鮮明な回答へ辿り着けるかもしれない。

「──大丈夫? 沙也加ちゃん」

 知子が覗き込むように自分の顔を見ている事にも気が付いていなかった。あたしはポンコツだ。

「すごい臭いだよね。私も少し気持ち悪くなっちゃって、頭が痛くなってきた」

「ありがとうございます」

 大丈夫だと伝えて、沙也加は捜索作業を再開した。玄関からの光が差し込んで、DDAの銀色のフォルムを美しく輝かせていた。


次は「X-2」。

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