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S-3「さまざまにさまよう」


「そういえばさ」

 沙也加はキャミソールを着ると、すぐにジーンズを身に付けた。大きい臀部を気にしての仕草であったが、今更という気がしないでもない。岬は服を着込むでもなく裸のまま横たわり、沙也加をぼうっと見ていた。やっぱり見物してやがったな。睨みつけ、沙也加は言葉を続けた。

「サークルの朝日くん。彼、大丈夫なのかな」

「……睦言の直後に別の男の話をするって、なかなかの彼女だな」

「なかなかの彼女ですよ?」

 そう言って頬にキスをする。沙也加が岬と付き合い始めて、ひと月が経過しようとしていた。季節はすっかり夏の気配だ。声を気にして閉め切った部屋での行為は、非常に汗ばむ。

 岬の事を「いっくん」と名前で呼んだそのひと言が、呼び水となって、沙也加の心はずるずると引き込まれてしまった。ダムが決壊するように──長年閉ざされていた重い扉が軋みを上げて開き、光と温かい風が流れ込むように──

 週に3日は彼の家に入り浸り、残りは沙也加の部屋だ。今日は彼のアパートにいる。

「で。その朝日くんがどうしたって?」

「ちょっと気になるんだよね。──あ。違う。そういう意味じゃなくって!」

 自分の言葉を違う意味で捉えられる恐れに気が付いて、沙也加はフォローを入れたが杞憂だった。分かってると言いたげに岬が手を振った。

 朝日燈真はおかしい。同級生の男子をそう決めつけるのもどうかとは思うのだが、彼は何かがおかしい。存在自体が不穏で不鮮明だった。


 ……岬が熱烈な告白をしたあの日、二人の周囲を何人かの野次馬が囲んでいたが、その中にサークルのメンバーもいたらしい。事象は伝達され、拡散していく。噂話の感染速度は、もはやパンデミックだ。翌日の放課後、部室に顔を出した沙也加は熱烈な歓迎を受けた。質疑応答や取材の雰囲気もあるにはあったが、概ね祝福された。先輩の林、菊池、平嶋に知子。同級生の阿部と梶田、──朝日燈真。

 朝日とは一度も目が合わなかった。彼は誰かに話しかけられた時にはほぼ、目線を合わせない。いつも相手の首を見ている。それは知っていたが、その日の朝日はさらに様子がおかしかった。周囲がどんな会話をしていようが、部屋の端に座ったまま黙り、じっと何かを見ていた。空気中を漂う埃か細菌を、あるいは妖精でも見ているように。


 DDAという機械がある。

 その存在だけは沙也加も知っていた。以前に興味があって、調べた事があったのだ。夢の中でも勉強をしていたかった高校生の頃、衝撃感知機能を備えたDDAを装着さえしていれば、寝ていてもわずかな刺激で速やかな覚醒ができるのではないか、と考えたからだった。施錠はしっかりとして眠りにつく毎日だったが、いつまた闖入者が訪れるかもしれないという恐怖は、まったく薄れなかった。自衛の意味もあって沙也加はDDAの情報を集めたのだが、その時は金額を知って却下した。さておき。沙也加は記憶を遡る。

 DDA──それは使用者の望む夢を自由に見られる、というとんでもない代物だ。それを使用した際に、視界に文字や図形を浮かべる事があるらしい。現実と差異のない景色に浮かびあがる操作画面。RPGのゲームでよく見かける、パラメータパネルみたいな物なのだ、と沙也加は認識していた。

 そのDDAを使っているかのような目線で、朝日はずっと中空を見つめている。誰の会話にも反応を見せず、ただひたすらじっとしている。まばたきさえしていなかった。それは岬が声をかけるまで続いた。我を取り戻したか、目が覚めたか、朝日は岬を見上げた。彼は岬一郎の目を見ていた。未だ夢を見る眼差しで……。


「朝日くん──なあ」

 ようやく服を着る気になったらしく、岬は足元をごそごそと探している。背中越しに会話が続く。

「あいつは──まずいよ」

 もしかすると、沙也加より良くない状態になっているかもしれない。岬はそう答えた。

「入学してくる前は知らないけれど、知り合った頃より確実に──あの少年の精神はまずい」


 会った時の、

 視線の揺れ。瞳孔の微妙な収縮。焦点のズレ。まばたきの回数。頬や顎の筋肉の微かな痙攣。鼻腔は膨らみ、呼吸が不規則。唾液を嚥下する頻度。唇の渇き。顔色の白さ。

 首筋の張り具合。背筋の不自然な伸び。肩甲骨の微動。肩の力の入り方。肩関節の固着。上肢の硬直。胸郭の動きが浅く、狭くなっている。腹筋の緊張。肋間筋のわずかな震えも見える。

 手のひらの異常発汗。指先の震え。こぶしを握りしめる強さ。血液が通っていない肌の白さ。大腿四頭筋の緊張。膝関節がうまく動かせていない。足元の不規則な動き。爪先を地面で擦る癖。体の重心の不安定さ。微かな貧乏ゆすり。

「影の濃ささえ薄くなった気がするよ」


 岬が矢継ぎ早に発した言葉の数々に、沙也加は感心するより、呆れるより──

「……どれだけ観察してるんですか」

「探偵なら当然さ」

「誰が探偵ですか誰が」

 恐れさえ感じる。自分も同じ視点で見られていたのだと思うと──。

 ただ、その観察眼があったからこそ、岬は沙也加の壊れた心に気付いてくれたのだ。それは沙也加にとって幸運、としか言えなかった。

 では。朝日の壊れた心は──?

 きっと岬がなんとかしようとするのだろう。自分にもそうしてくれたみたいに。心の壁を壊すように、付けた仮面を剥ぎ取るように──距離をつめ、手を差し伸ばして、掬い──救う。

 何が、朝日の身にあったかは知らない。沙也加には知るつもりも、知る権利も、知る必要もなかった。ただ、近くにいてあげよう。自分が岬にされたように。助けを求めた時にそばに誰もいない、その恐怖は沙也加にしか分からない。誰にも秘めたSOSをただ黙って、近くで寄り添って聞いてくれる。その嬉しさは沙也加だけが知っている。朝日はあたしだ。岬に救われていない世界線の自分だ。

 カーテンを開けると、広がる夜は静けさと安寧を漂わせていた。灯りがともった窓の奥では、誰かの暮らしが営まれている。電気を消した暗い部屋では、誰かの夢が生まれているだろう。

 こんなにたくさんの人がいる中で、沙也加は岬と出会った。朝日と出会った。明日はもう少し、話しかけてみよう。きっと目も合わせてくれないだろうが、そこは自分が移動する事でカバーする。異常な距離の詰め方は体感済みだ。振り返ると、岬は何も言わずに──だが確実に、沙也加の決意を感じとって──笑っていた。八重歯がこぼれて見えていた。


     *


「好きです──岬先輩」

 朝日が告白をした。沙也加は自分が座る椅子と、二人が並んだ長机の距離が、一気に広がっていくのを感じた。巻き尺を戻す時じみたスムーズで、かつ高速な移動のせいで、声はもう、二人には届きそうもない。思わず沙也加は手を伸ばす。


     *


「……なんて夢だ」

 悪夢に類される事は間違いない。額や胸元、手のひらまでじっとりと汗が浮かんでいた。不快感は胸の奥がもっとも強い。吐きそうだった。泣きそうだった。沙也加は頭を振ると、強くマットレスに拳を打ちつけた。

「それはあたしの、だ」


「お前の、だよ」

 そう言って、夢の内容を聞き終えた岬はあっさりと、沙也加の台詞を肯定した。

「まず、前提が違う。朝日は男だ。俺も男だ。世間にはそういった愛情が存在している事に意義を唱えるつもりはないけど、俺はいたってノーマルだよ。ちゃんと女の子が好きさ」

 だから沙也加と付き合っている。

 だからその夢が現実になるはずがない。

 だから沙也加が独占欲に駆られる必要もない。

「なにより──夢は不確か不可思議で不条理な物さ。そうは思わないかい?」

「……そりゃあそうだけどさ」

 初めてできた彼氏。大切で大切で──大切な人だ。それを奪われるなんて、沙也加にとって体の器官を失うも同然だった。夢に見たくないし、夢でも見たくない。

 昼の食堂。カフェテラス席。プラスチック製の丸テーブルに、同じく白い猫足の椅子。午前の講義が終わっていない頃だったし、昼食には少し早い時間だった。沙也加は岬と向かい合って座り、ブランチをしていた。顔色の悪さを指摘されて、昨晩の夢の内容を話したところだった。

「……あたしやっぱり、嫌いなのかな……」

「朝日くんの事?」

 沙也加の呟きを拾って、岬が断言した。

「そりゃあ嫌いなんだろうさ」

「なんで!」

「人は同族を嫌悪するものさ」

 そう言われてしまえば、沙也加には返す言葉はない。「うるさい」と、感情的な暴言を口にするしかなかった。ストローをくわえて、ミルク分がやや多めのコーヒーを吸い込む。

「で。その朝日くんはどう?」

「あー。どうだろう。見かけてないからわかんない」

 同じ国文学科の沙也加と朝日は、基礎講義で当然顔を合わせるはずなのだが、今日は休んだようだった。探したがどこにも朝日の姿はなかった。

「いっくんの方が先に会うんじゃない?」

 岬はこの後、日本語学の講義を受ける。朝日も同様だ。こんな事なら選択しておけば良かった、と沙也加は後悔する。他人の心理には興味がなかった、当時の自分が恨めしい。

「沙也加は教職取らないもんな」

 日本語学は教職課程では必須の講義だ。1年生で取るべきものだが、なぜか岬は今年も受講している。

「そだね。……あたしは、人に何かを教えるような人間じゃないから」

 だからこそ人に教えられる事があると、俺は思うけどね。岬が呟くように言ったが、沙也加は聞こえなかったふりをした。

 午前の授業が終わったらしい。急に周囲が騒がしくなった。色々な食事が放つ様々な匂いが、食堂から溢れてテラスまで漂ってくる。あまり他人に聞かせたい話ではないと、二人は朝日についての問答を打ち切った。ただでさえ衆人環視の中で、ドラマみたいな告白シーンをぶち上げた沙也加と岬は、一部、有名でもある。

 二人はありふれた大学生カップルらしい会話を始めた。通学路で見る猫の話。校門前の軽食屋の新メニュー。昨晩のドラマの話題。名物教授の新作小ネタ。読んだ本の感想。サークルに代々受け継がれる試験対策ノート。天気予報……。


「じゃあまあ。少年の様子は見ておくよ」

 そう言って、パンの包みをくしゃっと潰して岬は立ち上がった。そのままゴミ箱に向かう彼の背中に、沙也加は声をかけずにはいられなかった。

「いっくん、お願いね」

「お願いされた」

 階段を降りていく岬の背中が消えた。それを確認して沙也加は校門に目をやったが、講義の始まりを告げるチャイムが鳴っても、朝日の姿を見かける事はなかった。


次は「S-4」。

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