P-2 「Pieces of a dream -Pretty MOMO-」
自分の死の可能性を、「まさか!」と笑った別所先生はもういない。残されたこの人を──ラブリィレイを守ってあげないと。モモは決意を新たにしたが、果たして──。
無色の扉は傾き続け、もはや水平だった。開け放たれた空間から、人影が落ちてくる。磨かれた靴がアスファルトを叩く音。アイロンの効いたズボン。燕尾服。頭にはシルクハットを被った年寄りの顔。──バグだ。
彼は驚いたように、興味深そうに周囲を見渡し、モモ達2人の姿を見つけると、感嘆の声をあげた。
「これはこれは。プリティモモが待つ夢に招かれるとは、思いもしませんでしたよ」
まさかにも、恨まれているとは思いもしない、傲岸不遜な態度。その皺まみれの顔を、モモは睨みつけた。
「──おや、そちらの方は新人さんですか?」
「ええ。初めまして。ラブリィレイと申します」
うやうやしくレイは頭を下げた。角度からして、モモにしか見えなかったが、後ろ手にしたレイの指が、超絶技巧のピアノ演奏を思わせる動きで跳ね回っていた。
バグは気づくよしもなく、指をパチンと鳴らした。途端に彼の周囲に、上空まで、無数の人影が発生した。アスファルトに影が落ち、交差点が黒く染まっていく。風が変わり、生臭い匂いが鼻を突いた。黒人形だ。いつもの3倍──いや、10倍は多い。モモの表情に何かを感じ取ったらしく、バグはにやあと下卑た笑みを浮かべた。
「せっかくのお招きなのに、申し訳ありませんが──さようなら」
その言葉で一斉に、黒人形が落下する。瞬く間に交差点の集団と合流すると、モモ達を取り囲んだ。一騎当千か。手のひらに嫌な汗が滲んだ。この数、どうする。モモはステッキを強く握り直した。肩の上でジュジュがシャーッと威嚇する。
「あらあら」
レイが笑った。モモにはその声が、どこか楽しげに聞こえた。
「そんなつれない事言わずに、もう少し楽しんでいってください。せっかく──」
もてなす用意をしたのですから。
そうレイが呟くと、再度、大量の扉が現れた。──黒人形の足元に。──水平に。──口を開けるように開いたままで。
足場を失い、次々と落ちていく黒人形。
「それじゃあモモ」
レイが言った。「処理はお願いしますね」
今度はモモの眼前に、赤い扉が出現した。中には黒人形がみっちりと詰め込まれている。どういった原理で、どういった処理をレイが施したかは推測すらできなかったが。「わかった」と答えて、モモはステッキを振るった。黒人形には顔のパーツが無い。断末魔も恐怖に見開かれた目も──無い。モモはその扉ごと爆砕し、消滅させた。
「そんな、馬鹿な」
目の前で行われた事態を飲み込めなかったか、老人が声を漏らした。
「そんな馬鹿なぁあああああ」
叫んで、バグは再び黒人形を召喚したが、今度は出現する端から扉が飲み込んでいく。中には自ら獣のように襲いかかるドアもいた。何度も何度も何度も。無駄を重ねる姿をモモは哀れとすら思った。
「そんな事を……夢の中でできる人間が」
「それが、いるんだニャ」
レイは新たな扉をくぐり、バグの背後へと回り込んでいた。驚愕の悲鳴をあげ、バグは姿を消す。
それも無駄だった。
新たにモモの眼前に出現した扉が、ペッとバグを吐き出した。尻餅をつき、モモを見上げる老人。先日とは逆の構図だったが、モモは油断をしなかった。振り下ろした一撃をすんでのところでかわされた瞬間、蹴り上げた。放物線を描いてバグが落下する地点には、すでにレイが待機していた。
彼女が指を動かし、再びプログラムを走らせる。
バグの四肢を切断する勢いで巨大な扉が飛来すると、老人を地面に縫いつけた。轟音が響く。
「ごきげんよう」
「お、お前はいったい……」
「人妻です」
レイはキッパリと宣言した。
その背中を見て、守ってやらないと──だなんて、とんだお節介だったな。モモは内心でそう呟いた。
*
*
バグの口には小さなドアが突き刺さっていた。猿ぐつわの代わりにまで扉を使用しているのだから、徹底している。ふと、尋ねてみると、「新規オブジェクトをモデリングするのが面倒だったから」と簡潔な答えが返ってきた。
「じゃあモモ、処分お願いします」
それは私にはできない芸当だから、でもどういう原理なのかしら、今度うちの研究室で調べてもらってね、と、中身の呟きが完全に漏れてしまっていた。
『ちょっと待って、レイ』
天から声が響いた。この声は萌々香ニャ、とジュジュが反応した。
『先にバグを解析しないと』
「……ああ、そうでした」
思い出したかのようにレイが言い、地面に貼り付けられたままのバグに手を伸ばす。レイは酷く疲れているように見えたし、実際そうなのだろう。脳の処理速度が落ちてしまったのは仕方がない、とモモは思った。
専門的な知識はモモには分からなかったが、夢の状況に応じたコードをリアルタイムで書き、プログラムを走らせ──世界をその瞬間、瞬間で完全に支配する。コンピューターを使って組み上げるべきデータの構成を、独力で、しかも手動で完了させた。それは開発者にしか到底なしえない凄技と言えた。賞賛に値するし、それがもたらした結果は圧倒的とさえ言えた。
「私、あまり役に立たなかったな」
『それは違う!』
萌々香が叫んだ。『夏芽、あなたの仕事はここから!』
──レイを止めなさい!──
言われた途端、モモの体は勝手に動いていた。
分析するには情報が足りず、現状把握までは遠かったが、モモは言われるままにレイの体を羽交い締めにした。萌々香が、間違った事を言うはずがない──いつだってそばにいてくれて、迷った時には手を引いてくれた──。
レイの体は想像以上に小さく、弱々しかった。
モモの鼓動が跳ねた。嫌な予感がする。
『玲さん』
「……なぁに、遠藤ちゃん?」
『アタシはこのDDAには詳しくはないし、プログラムもわかんないですけど──この気が狂ったようなログを見て思った事は──」
この夢、正常なんですか?
──え。
『ここまで改竄してしまったこの夢、まともにログアウトできるんですか?』
萌々香は何を言っている? 彼女は何に気付いてしまったのだろうか。未だ追いついていないモモはただひたすらに、レイの動きを制し続けるしかなかった。
「……あなたと初めて会話した時、私驚いたの。あの人──別所以外でまともに言葉が交わせるとは思っていなかった。私、異常者だから」
レイの声は、完全に玲の物になっていた。
「分かってもらえる、って素敵ね」
玲が言ったそれは完全に自白だった。
『でも玲さん──』
萌々香はさらに言葉を続けた。
『あなたはアタシと、──夏芽に出会ってしまった。アタシより数倍頭がいい──夢の中でモモとジュジュになれる──伊達夏芽に』
「……そうね。夏芽ちゃんの存在が、1番大きかったのは事実よ」
何を言って、何が言いたいのだろう。モモが呆然としている様子を見たようで、神の視点の萌々香が諭す。
『あれ。夏芽まだ気付いてない?』
「何が? 何を言ってるのモモちゃん!」
やった。夏芽に勝った、と萌々香が嬉しそうな声の響きで言った。
『玲さんは帰るつもりがないの』
「それは分かってる!」
『アタシを『観測者』にすることで、バグの正体を伝えて、それで終わりにしようとしてた』
「それも分かってる!」
『でも玲さんは、遠藤萌々香と伊達夏芽に出会ってしまった。だから賭けたの』
「何に!」
『アタシ達の善意によってのみ到達できる、自分が生還できる可能性。それに──観測者──遠藤萌々香と、──夢の渡り手──伊達夏芽が気付く可能性に』
萌々香の言葉を引き継ぐように、レイが言った。「2人の『モモ』に──私は賭けたの」
そうか! ようやく理解した。モモは頭の霧が晴れていくのを実感した。肩で丸くなっているジュジュの頭を撫でてやると、「お安いご用ニャ」
黒猫は渋い声でそう言った。
『アタシは今からモニターを消します。バグの解析結果を聞きません。別所先生を殺した犯人を見つけたいんですよね? アタシもです。なので夢から覚めたら、直接教えてください。玲さん』
「私はジュジュを放流します。そしてレイを連れて、私の夢へと戻り、そこから玲さんはログアウトします。その間に私は犯人の夢へ渡り、そこでログアウトすれば、犯人の意識は永遠に夢をさまよい続けるはずです。ですよね玲さん?」
「……いいの?」
レイが背中越しに尋ねてきた。見た目は私より若い姿だ。モモは少しだけお姉さんぶる。
「いいんです」
──私はこの後、人を殺す。
正確には違うのだが、モモが原因で、一人の人間の意識が夢の中に取り残される。それはもはや「死」と同じだ。
『アタシは因果応報だと思うけど』
そう言って萌々香は言葉を付け足した。『大丈夫、夏芽?』
平気かと問われたら返事に困ってしまうが、モモの中に別所を殺された恨みの炎は、確実に今も灯っている。奪われたから奪い返す。その権利は別所玲にしか無いとは思うが──
「私も許せない」
「……あらあら」
抱きかかえたままのレイが、顔だけ振り返って言った。その言葉に、思わずモモは赤面してしまう。「夏芽ちゃん、あの人の事が好きだったのね」
急に脳の回転数を上げないでください!
「でもごめんね。あの人──」
小声で玲が教えてくれた。「私の事が大好きなの」
……かなわないな。そう観念したモモは、手を離してレイを解放した。自由の身になった彼女は一度だけ首を回すと、おもむろに手をかざし、バグの額に当てた。
レイが解析を始める……。
次は「U-3」。




