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M-3 「未知との遭遇」



「『夏芽』。ハンカチ返して」


 と言って彼女の手から奪い取る。アタシは目元に押し当ててみたが、果たして泣くフリになったかどうか。動揺を隠しながら、アタシの脳はかつてないほど、フル回転だ。

 DDAという機械をアタシは詳しく知らない。夏芽が教えてくれて、初めて知ったくらいだ。時間がなく、詳しく調べる事はできなかったが、今はそれを悔いるタイミングじゃない。

 DDAの存在はまずくない。まずいのは──機械が記録した内容の方だ。夏芽がモモである、ということ。それを警察に知られるのは、まだ早い。


「夏芽が言ったDDAというのは、夢を見るための機械です」


 夢を自在に見る。それは記憶の記録。「DDAは夢を記録する事ができます」──どこに? 脳内に? 外部ストレージに? クラウドに? どれかは分からないが、そのどれであっても共通するもの。「DDAは本体に使用者の夢を記憶させ、再現するための機械です」──嘘でも適当でもいい。大事なのはこの場を乗り切る事と、話の整合性。「昨晩、別所先生はDDAを使用しました」──再現に必要なのは空間と時間と構成される要素の同一性。「使用開始時間と終了時間が保存されているはずです」


「別所先生はそれをなぜ使用したのですか」と聞かれたら、「夏芽の研究に使うためです」と答えよう。「伊達さんは方言専攻とお聞きしましたが」と問われたら、「夢の中で使用する言葉における方言の使用率、を調べているのです」と応じよう。

 そのように、架空の質疑応答を頭の中で重ねていく。一瞬にも等しいわずかの間にアタシの脳は、どうやってDDAから目を反らすか、それだけを考え続けた。どんな質問や展開になっても、大丈夫なように。


脳を酷使しすぎたようだ。


「──あ、鼻血」


 唐突な学生課長の声に、アタシは自分の鼻に手をやった。ぬるりとした温かい粘液の感触。先ほど奪ったハンカチを当てると、みるみる間に赤く染まった。


「……まあこんなわけで」


 突然の出血も利用させてもらおう。「アタシも夏芽も突然の不幸に、だいぶ参っているのです」


「……そうみたいですね」


 上杉は手帳を閉じた。「その、DDAという機械を使えば、時間の確認は取れる、ということで間違いありませんか?」


 夏芽は無言だったので、アタシがうなずいた。


「今日はお時間を取っていただきありがとうございました。ご協力感謝します」

「アタシも聞きたい事があるんですけど」

「答えられる範囲なら」

「別所先生の死因は何だったのですか?」

「解剖の結果がまだなので、お答えできません」

 嘘だろう。十中八九、病死として処理されるはずだ。少なくとも、この上杉刑事はそう知っている。

 夏芽の証言と防犯カメラ映像から、昨晩夏芽が退室した後に別所が死亡した──警察はそう判断しているに違いない。遺書もなく、翌日の約束をしていた証言も取れた。自殺の線は消える。

 上杉は「解剖」とだけ言った。司法解剖に回していないということは、犯罪性が極めて低いという捜査判断だ。──これで事件性の線も潰えた。


「またお話を聞かせてもらうかもしれません」


 去り際に上杉からそう言われたので、アタシはいつでもどうぞと答えた。夏芽が会釈をする。

 こうして、夏芽の聴取は終わった。


 刑事に事情聴取される事がわかった時点で、夏芽と打ち合わせたのはただ1点だけ。複雑な口裏合わせは絶対にボロが出る。なので、アタシはこう言ったのだ。

『ナッチ』と呼んだ時は自由に話していいから。『夏芽』と呼んだ時には黙って、アタシに話をさせて───と。そうしておけば、警察に渡す情報の選択が可能になる。……ちょっとしくじったけど。まあいいや。予測よりも追及されなかったので、助かった。事故に大きく舵が切られていたので、上杉も気に留めなかったのだろう。アタシも夏芽を習って、大きく息を吐いた。

 次のフラグ回収は3日後だ。司法解剖に回らなかった以上、明日には行政解剖が行われ、遺体はその日のうちに遺族の元へ戻されるだろう。

 別所の通夜は明後日、葬儀兼告別式はその翌日に執り行われる──。



     *

     *

 

 アタシに泣く選択肢はない。こういう場で静々と涙をこぼすプログラムは、あいにく組み込まれていない。気性が父親に似たのだろう。精々、悲しげな面を浮かべるぐらいだ。

 けれど、夏芽は違う。別所博の葬儀の間、彼女はずっと泣いていた。眼鏡を外し、通夜に参加しなかった分、先生方の見知った顔を見るたびに涙があふれてきて仕方がない様子だった。握った手から伝わってくるほど、肩を震わせて泣く夏芽。アタシにはその背中を、さすってやる事くらいしか出来なかった。

 見ていられなくて、アタシは正面に目を向けた。別所博の遺影に使われた写真には見覚えがあった。ゼミでおこなった実地研究という名の、旅行の際の物だった。不器用な笑顔。同じ写真を夏芽も持っている。4人、間に挟んでいたが、彼女にとっては一緒に映った貴重な宝物だろう。


「──行くよ」


 焼香の順が回ってきたのだ。アタシは夏芽を支えるように先導すると、抹香を摘んで香炉にくべた。安らかに眠ってください。アタシが心の中で思った事はそれくらいの物だったが、隣で拝む夏芽の心中やいかに。想像するしか出来ないが、間違いなく、別所に対する感謝と、激しい後悔。遺憾。それらが渦巻いた感情が胸を埋め尽くし、溢れ出した物が嗚咽となって彼女の口からこぼれている。

 彼女が懺悔し終えるまで、そっと見守ってやりたかったが、そうもいかない。アタシを夏芽の手を引いて後続に祭壇を譲った。


「この度はお悔やみ申し上げます」


 アタシの言葉に合わせて、夏芽も頭を下げた。顔を上げると、綺麗な瞳と目が合った。

 短い髪の女性だった。喪主である別所玲。先生の奥さん。どこかヴェネチアの仮面を思わせる顔をしていた。青さを通り越して真っ白な肌。表情筋が死んでしまったかのように無表情。口だけが動く。


「痛み入ります。あの人の、生徒さんですか?」

「はい。2人とも、別所先生の研究室に所属していました」


 ここだ! アタシは自分に喝を入れた。と同時に握った手に力を入れ、夏芽に合図を送る。


「アタシは遠藤萌々香。で、こっちが──伊達夏芽です」

「……だて、なつめ」


 閃光。

 それが別所玲の瞳に宿った。仮面にみるみる朱が差す。予想した通りだった。夏芽の名前を聞けば、夫人は何かしらの反応を示すだろう、と思っていたのだ。先日に夏芽と交わした会話──。


「夏芽は先生に最後に会った人間だからね」

「警察が私の事を教えてるってこと?」

「個人情報だし、名前を教えるとは思えないけれど」


 じゃあ、どうやって私の名前を? とは夏芽は聞かなかった。アタシより頭がいい夏芽は、すでにもう少し先まで見えているはずだ。

 そして実際──。

 別所玲は、伊達夏芽の名前に反応していた。

 しかし実際──。

 別所玲が口にした言葉は、意外な物だった。


「もしかして、伊達さんがジュジュ?」


 アタシは一瞬だけ考えて、答えた。


「……アタシはモモじゃないです」

「あらあら」


 別所玲の瞳に驚きの色が浮かんだのも、一瞬だけだった。すぐに彼女は言葉を続ける。


「それがあり得るとは気付きませんでした。2時間後にまた来てもらえるかしら?」

「わかりました」


 そう答えて、アタシは頭を下げる。夏芽も同様にし、連れ立って席に戻った。椅子に座ってなお、アタシが手を放そうとしなかったので、夏芽は不思議そうにこちらを見ていた。察したように、小声でアタシに耳打ちしてきた。


「……あの人、凄い人だったね」


 同感だった。アタシは驚愕よりも、恐怖を覚えたけれど。

 別所玲と交わしたわずかな会話は、とてつもない情報量だった。彼女が『モモ』や『ジュジュ』の存在を知っている可能性は考えていたが、まさか、それを現実の人物と結びつけているとは。初対面でいきなり核心を突かれ、一瞬は狼狽えた。

 だが、なんとか一矢報いたつもりが、あっさりと、鮮やかに、リターンを決められてしまう。アタシの返答で彼女は、夏芽が『モモ』であり、『ジュジュ』でもあると即時に理解し、そして驚くべきことに彼女は、まるで何度もデバッグしてきたかのように、DDAでは複数の人格を操作できないことまで熟知していた。そして暗に──自分がその、DDAの開発者であると告げたのだ。


 そこまで考えてから、先ほど夏芽が言った台詞──「凄い人だったね」───が、別所玲の性格やスペックを指すものではなく、DDAの開発者に対する尊敬の念からのもの、であったことに気が付いた。アタシの思考はいつも一歩追いつけていない。なにくそっ。夏芽にも別所玲にもいつか追いつき、追い越してやる! 落胆と悔恨、それと新しく芽生えた反抗心を心を秘め、アタシはキッと正面を見据えた。

 人が次々と焼香に向かう。別所を慕う数だけいるのだ。列はまだ、途切れそうにない。


     *

     *


 別所夫人の迫力に押されるあまり、その時は考えが及ばなかった。彼女が言った「2時間後」、つまり葬儀の後のことだと気づいた時、アタシの心臓はドクリと跳ねた。

 葬儀の後、ロビーで待機して時間を費やし、アタシと夏芽は控え室に向かった。ノックして入室すると、別所玲が1人で立っていた。「じゃあ──乗ってくれる?」


 やっぱりか! アタシ達は別所玲の運転する車に乗せられ、斎場にやってきた。火葬炉の前で焼香を行い、別所博が眠る棺を荼毘にふした。


「ありがとう。見送るのが私一人だとあの人も寂しいと思って」


 夫人はしれっと言った。


「そう言えば、名乗っていなかったわね。はじめまして。別所博の妻の、玲です。──玲ちゃん、って呼んでください」


 呼びづらいな、こんな怖い人。


「れ、玲ちゃんさん」


 呼ぶんかい。

 夏芽が珍しく懐いている。波長が合うのか、脳の処理速度が近いせいか、あっという間に2人の会話が弾んでいる。アタシとは前者、玲とは後者の理由で。それが少し悔しい。そして──嬉しかった。

 伊達夏芽は今までに出会った事がないほど、頭の良い子だった。ただ、引っ込み思案で、緊張しがちで、特に男性の前では──先日の事情聴取がまさにそうだった──まったくその高性能を発揮できない。別所先生への恋心が荒療治になりやしないかと思っていたが、それも今では叶わない。アタシ以外に話せる相手が現れた事は、夏芽にとって素晴らしい事だった。本当に、本当に嬉しい。

 でも、負けた気がする。悔しい悔しい!


「じゃあ私は夏芽でお願いします」

「よろしく夏芽ちゃん」

「アタシは苗字で」

「そのつもりよ、遠藤ちゃん」


 夏芽が言う「モモちゃん」はアタシだと分かるが、玲が呼ぶ「モモ」はアタシ──遠藤萌々香か、夏芽が夢の中でなる姿の事か、とっさには判別しづらい。それがアタシの理解力に合わせた配慮だと思うと、この場から消えてしまいたくなる。

 それにしても、だ。改めて別所玲を見て思う。この人の人間感の無さはどうだ。整った顔立ち、知の光に満ちた瞳。喪服から見える脚は、30デニールほどの透け感があるくせに、どこか金属めいた艶やかさがあった。まるで、人間ではないみたいだ。主人に先立たれたというのに、このやけにあっさりとした態度はなんだ? 悲しみを隠しているのか? それとも、ただの無関心か? アタシの頭の中では、彼女に対する疑惑が渦巻いていた。

 アタシの邪推を察したように、玲が言った。


「私は最短で、犯人を突き止めるつもりです」

次は「M-4」。

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