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C-1 「違う世界のお話 -全年齢版-」


これは、悪夢だ。


無機質な時間を切り売りする──そんな気分をいつも覚える。腐った肉をついばむ蠅になった気分だ。

今日出会ったばかりの男の、醜い顔から首筋、肉が詰まった腹までゆっくりと視線を滑らせる。作り物の笑みを浮かべ、男を喜ばせるための仕草を繰り返す。経験から、男が何をすれば悦ぶか、千香はすべて知っていた。


「……ねえねえ」

我慢できなくなったらしく、男が声をあげた。千香の年齢に合わせてか、くだけた口調だったがまるで似合っていない。

「もっと特別なこと、してもいいかな?」

心拍数ほどの一定のテンポで、千香は内心で素早く計算する。今日はこの男が最後の客だった。

「追加料金が発生しますが、よろしいですか?」

千香の返事を聞くなり、男はやおら立ち上がった。千香が演じる役割は、そこで終わりだった。男は目の前の彼女ではなく、自分自身の欲望と対峙しているようだった。決して安くはない代金を払いながら、男は千香をただの「道具」として扱っていた。

「あなたのモノを1滴たりともこぼしたくないの」

千香は演技を続け、髪を後ろでまとめて掴み、わざとらしい仕草で男を喜ばせた。

訪れる嫌悪の瞬間。何が楽しいのか理解できない。


「クララちゃんはさー」

それは千香の源氏名だ。働き始める際に希望の名前を聞かれ、当時見ていたテレビから付けた。名作を現代風にリメイクしたショートアニメに登場する、自らの足で立ち上がった少女。そんな彼女に、同情も同一視も覚えないから、8年経ってなお愛着はない。

すべてが済んで一緒に部屋を出る時、男が尋ねてきた。

「どうしてこの仕事やってるの?」

「えっとー、アタシ、ネイルの店をやりたくてお金を貯めているんです」

無礼な問いには、どこかで誰かが言った理由を答えることにしている。真実を告げても理解されないことが最初から明白であるなら、それらしい話であしらうのが賢明だ。案の定、男は「へえ、そっか」と適当な相槌をした。

「頑張ってね」

「はい。あ、そうだ。これ」

そう言って名刺を渡したのは、男が追加分をちゃんと払ってくれたからだった。内心、安堵していた。追加料金の支払いを渋る客もいる中、誠実な客は有難かった。

集金バッグに、他のお金と混ざらないように分けてお金をしまうと、千香は部屋を出た。

「今日はありがとうございました」

足早に去りながら携帯をかける。相手は会社。完了した報告と、迎えを依頼する連絡だ。車が到着するわずかな間に、今日稼いだ臨時収入を自分の財布に入れ直した。

悪夢の時間はもうおしまい。

今日初めて千香は笑みを浮かべた。


二階堂千香にとって、英二との日常がすべてだった。

むしろ英二と過ごす時間こそが現実と言えた。見知らぬ男に呼ばれ、金を稼ぐ。好きでもない行為や相手を好きだと謳い、殺した感情で生きる。

すべて、すべてがこの時間のためだ。


星さえ寝静まるような真夜中に、千香は帰宅した。玄関の灯りをつけると、闇が霧散すると共に心が緩むのを感じた。鍵をかけ、靴を脱ぐ。履き潰したオレンジのスニーカー。千香は部屋から外の世界に出る時には必ずこの靴を履く。というよりもこの1足しか持っていなかった。高校生の時から──家を出てからずっと愛用している。

「クララ」らしい靴は、らしい衣装と共に店に置いてある。

Tシャツとジーンズを脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。

風呂場に入ってまず手で洗う。その手を使って体を丁寧に洗う。泡を流すともう一度体を洗う。それを3度繰り返す。いつもの日課だった。本当はタワシでこするぐらいしないと、肌にこびり付いたモノ──他人の視線や、作り物の笑顔や、嘘の言葉や、嫌悪感──が落ちない気分だったが、自分の肌の価値を守るため、千香はスポンジすら使わない。回数を増やす事で、なんとか自分を納得させていた。


風呂から上がると、千香は台所に向かった。髪さえタオルで拭いただけだった。冷蔵庫を開け、水のペットボトルを手に取って、近くに置いてあるケースを開けた。中には色とりどりの様々な錠剤やカプセルが入っている。揃えたサプリメントはビタミンやミネラル、カルシウムやEPAだけでなく腸内細菌や食物繊維まで網羅していた。それらを次々と口に入れ噛み砕くと、手にした水で流し込む。

空腹で夢から覚めるなんて興醒めだ。10代の頃はコンビニで買い込んだ安くて量がある物を、まるで冬眠前の熊のように腹一杯溜め込んでも平気だったが、25歳の今は効率重視になっていた。──なにより時短だ。

食事、というよりも、栄養を補給し終わった千香はようやくベッドに転がった。


DDAに手を伸ばす。千香はDDAを枕元に置く派だった。──子供の頃、サンタさんからもらったうさぎのぬいぐるみと一緒に眠っていた。──読みかけの漫画は、朝起きてすぐ続きが読みたかった。

頭部を覆う大きさは寝返りをうつには邪魔だろうけど、ここ7年ばかり──DDAを手に入れてから、千香は装着せずに眠る事はなかった。ざっと2500日。それは英二と過ごす時間。


DDAは空手のプロテクターに似ている。きっとあれよりはるかに重いだろうけど、と金属のボディに触れるたびに千香は思う。硬く、マットな黒さは高級感を感じさせるが、同時に夜の冷たさをも思わせる。DDAはハイエンドモデルともなれば充電も可能だが、途中で電源が落ちた時の絶望は二度と味わいたくないので、千香は必ずコンセント接続するようにしていた。

邪魔なコードは壁際に寄せた。DDAを頭部に被るとそれだけで電源が入る。途端に千香の視界が真っ白になり、そこに浮かび上がる緑色の文字。

『DDA SYSTEM:START UP』

閃光。そして視界が暗転する。


ヘッドホンからのアナウンスが流れ終えれば、いよいよ神経接続だ。

千香の額の上部にはコネクタが刺し込んである。それは金属製で1ミリもない小さな玉に、細い針が生えている。DDAの最上位機種にだけ備わっている物で、脳の奥まで神経接続をより強化するらしい。確かにこれがあると、DDAの機能は飛躍的に向上する。千香は初めて使用した時、あまり夢の鮮やかさと、軽快な操作感に驚いたものだ。

日頃は意識していない針の感触を思い出してきた。コネクタに信号が送られてきた証拠だ。針はその長さを変えると、頭蓋の隙間を縫うように走り、脳の奥へと侵入してくる。最奥部まで届いた針は、注射針のような形状だったらしく、先の穴からどぱっとピンクの液体を放出する。限りなく甘く、周囲を溶かしながら液体はゆっくりと、千香の脳をなだらかにとろけさせる。前頭葉も海馬も何もかも混じり合って1つの塊になった脳は、前触れもなく唐突に、真っ白な光へと変化する。全体で感じるピリピリとした痛覚は、電気をイメージするだろう。感電ではなく、接続──


神経接続完了。

『Welcome back. You are now the Creator.』

ついで耳には男の声が。

「おかえりなさいませ。アーデルハイト様」

DDAが読んだそれは千香が子供の頃に大好きだった漫画の、登場人物の名前だった。皇太子で気位が高く、女好きで皮肉屋で悪戯好き。幼馴染のディートリヒとコンビを組むと無敵の強さを誇った。主人公でもない、敵役のキャラクターだったが、「アーデルハイト」くんと「ディートリヒ」くん──その二人の友情が千香の性癖を歪めた原因でもあったのだが、今ではすっかり千香のルシッドネームとしての意味しか持たない。

視線の動き──ではなく思考を察知して、ランチャーが動き回る。視界を埋め尽くす無数の選択肢の中から、慣れた手つきで、いや、考える速度の分だけ、指先よりも正確に目的のフォルダへとカーソルを移動させる。


千香が使うDDAには連続使用制限は存在しない。好きなだけ使える。現実の1時間は夢の中では15時間。今夜は朝方眠りについたとしても──次の客が入れた予約は19:00。ざっと計算しても、1週間ほどの濃密な夢を見る事ができる。そう考えるだけで千香は楽しみで眠気を忘れてしまいそうだった。

前回の夢の続きはまた今度だ。そう決めた千香は入れっぱなしだった夢の欠片を、慣れた手つきで取り出し、格納庫へと放り込む。今日は2度とない一期一会の夢を作るために、オートリスタートを取り消す。不意のバグや予期せぬ中断に備え、バックアップはONにしておく。そして何よりも大事な設定。現実の音、臭い、そして不快感──そんなノイズを自動で軽減するフィードバックは限界値まで下げる。今から見る夢は完璧。完全な世界。いかれた現実の影響は一切出させない。そんな強い想いからだった。


千香は今、自分の脳を、そしてこれから始まる夢の世界を、創造する準備をしている。コンフィグをいじるこの時間はいつだってワクワクするものだ。初心者の時には苦労したが、今では設定完了するまで2分もかからない。

「DIVE」

そう口にすると、じんわりとおでこが温かい気がする。千香は目を閉じて、呼吸をさらに遅くした。手の先、足の先──末端からゆっくりと体が重くなっていくのをイメージする。何かに浸食されるような、溶けてしまうみたいな、着実に、確実に自分が自分でなくなっていく感覚。


それすら感じられなくなった時、

千香は眠りにつき、


大介になる。

次は「D-1」。主人公は大介。「全年齢版」をアップし、「通常版」はムーンライトへ。

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