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S-2 「騒々しい想像」


「な? さーちゃん?」

「今後絶対にその呼び名で、あたしを呼ばないでください」

「なんでや。可愛い思うけどな」

「次その呼び方したら」

「したら?」

「……ボンッ、です」

 なにがやねん。そう叫んだ林を軽くスルーし、沙也加は部室の隅に目を向けた。窓から入る光は優しい輝きに満ちていて、暖かくってふわふわで──まるでパンケーキみたいな陽だまりだった。

 その中で一人椅子に座る岬と目が合った。眩しそうにこちらを見ていた。本当に眩しいだけか、と沙也加は訝しんだが、彼の口元が八重歯を見せて笑みを浮かべているのを見付けて、どうでもよくなってしまった。沙也加と林が会話を交わすのを、見るのが好きなんだと彼は言う。かぶりつき席で見る漫才ほど素晴らしいものは無いね。そう笑う。

 岬一郎。沙也加の彼氏だ。


     *

     *


 入学式の後、野に放たれた新入生を、様々なサークルが囲い込もうとする。ビラが飛び交う。軽音部。茶道部。野球部。ラグビー部。演劇部。中には高校時代には無かった物もあった。英語部。カルタ部。超常現象研究部……。

「ども。児童文学研究サークルです」

 ライオンの群れに囲まれた兎の気持ちでいた、沙也加に声をかけたのが岬だった。

「なんであたしに?」

 茶色い髪。濃いめの化粧。式があったからスーツは着ていたが、持っているバッグは豹柄だ。沙也加は入学前に思い切って外見を変えていた。「大学デビュー」という侮蔑も甘んじて受ける覚悟だ。

「絵本が好きそうな気がしてさ」

「この格好がそう見えるんですか」

「見えない。でも」

 八重歯が見える笑い方。「好きになりそうな気がしたのさ」

「……なにが?」

「絵本を、に決まっている」

 からかわれたのだと気付いた。不安げな一年生だと思って馬鹿にするな、と沙也加は踵を返しかけたが、先回りされてしまう。

「待って待って。絵本興味ない?」

「ないです」

「うち、いっぱいあるよ。何でも見てからさ。亀と狸が空飛ぶやつとか、歩くお城のやつとか、」

「興味ないです」

「──ウサギがケーキ焼くやつとか」

「!」

 思わず止まってしまった。

 思い出の絵本は変態に投げつけたまま回収できず、それきりだ。版を重ねない古い絵本は書店で注文ができない。あまり売れていなかったのか、みんな手放さないのか、ネットでも中古書店でも再会は果たしていなかった。

「興味ありそうだね」

 岬一郎。今は沙也加の彼氏。当時はいけすかない笑い顔の勧誘者。

「ようこそ児童文学研究の世界へ」

 芝居掛かった手つきでお辞儀をした。


 児童文学研究サークルは小さい組織だった。児童文学を研究する人間なんてそれほど多くないとは思っていたが、全員で9人しかいないのだから「弱小」と言っていい。何に対して「弱い」のかは知らないけれど。

「4年生が結構抜けてもうたからなあ」

「どれくらいいたんですか」

「200人くらい」

 そう嘯く部長の林。他はニ年生が岬を入れて四人。あとは、まんまと勧誘の罠にかかってしまった哀れな犠牲者が沙也加と、梶田と阿部と朝日──沙也加の直前に岬が獲得した新入生、朝日燈真。

 どうにも沙也加は彼が気になっていた。

 挙動不審だから、だけではない。人の目を見ないから、だけでもない。声が小さいせいでも、自分から話しかけないせいでも、笑い方が卑屈そうだから、でもない。何かが気になる。何かがおかしい、気がする。刺さった魚の骨みたいな違和感が、沙也加にはどうにも耐えられない。

「ねえ朝日くん」

「は……はぃ」

「あたし渡会沙也加。同じクラスでしょ。敬語やめなって」

「は、はい。わ、わかりました」

「だーかーらー!」

「あ。は、はい。わかりった……」

 聞き耳立てていたらしく、ぶはっと吹き出した林。背中を向けた岬の肩が震えている。

「朝日くんやったっけ。君おもろいな!」

 林が朝日の肩を抱く。すっかり気に入ってしまったらしくあれこれと話しかけている。だが、初対面の人間が放つ早口の関西弁に、すっかり萎縮してしまった朝日は、身を縮こませるばかりだ。何かないかと言わんばかりに机の上を、視線だけできょろきょろと見渡し、何もなかったと目を伏せる。テーブルの下の手が、椅子のパイプを繰り返し揉む。体の揺れは貧乏ゆすりか震えているのか判断できない。あーもう! 沙也加は内心でため息を吐くと、立ち上がり、移動して林の隣に座った。「ねえ部長」

「なんや」

「あたし読みたい本があるんです。ウサギが友達と一緒にケーキを焼く話」

「ウサギが、友達と一緒にケーキ、を焼く?」

「区切り方おかしくないですか」

「ウサギが友達を一緒に」

「と!」

「と?」

「と! 友達『と』一緒に!」

「やっぱ友達と一緒にケーキ焼くんやんか」

「だから違いますって。日本語難しいな」

 沙也加は振り返らなくても、岬が笑っているのが分かった。くくく……と笑いを噛み殺す声さえ聞こえた気がする。恥ずかしくて頭に来るし、理解が遅いふりを続ける林の態度にもむかついている。何より──会話を楽しく感じているのが気に食わない。

 誰かと交わす、たわいない会話。見守られている、安全で安心な空間。サークルに入部したのは正解だったのかもしれない。そう思ってしまった事が、沙也加はとにかく気に入らない。

 朝日の態度も癪にさわる。沙也加が助けに入った事に気付きもしないで、呆然とした眼差しで机を見ている。光の中を舞う埃の数を、数えているのかもしれない。時々変なタイミングで頷く。

「沙也加、沙也加」

 岬が声をかけてきた。馴れ馴れしい事に、すでに名前呼びだった。距離の詰め方が瞬足だ。

「なんですか」

「お前、笑うといい顔するな」

「──は?」

 理解できない事を言う。笑っている? 誰が? 沙也加は心底からそう疑問に思ったが、ふと頬の筋肉が緩んでいるの自覚すると、慌てて手で隠した。

 振り返ると目が合った。岬がニヤリと笑う。

「なかなかお前、面白いよ」

 そう言って岬は顎をくいと動かして、朝日燈真を示した。沙也加の行動の意味は全部お見通しだと言わんばかりの態度だった。

 彼が言った「面白い」が沙也加の行動を指すのか、内面の話をしているのか、今日出会ったばかりの岬という男の言動は何もかもが全く分からない。分からない事が、沙也加はもっとも気に食わない。


     *

     *


「おーい、沙也加ぁー」

 5月に入って、そろそろ厚い上着は必要ないかもという季節に替わっても、岬は変わらない。相変わらず飄々とした態度で、今も大きく手を振っている。

「誰、誰? 彼氏?」「残念。サークルの先輩」「えー?」と、講義終わりに一緒に歩いていた友人が声をあげる。何が楽しいのやら、手にしたぬいぐるみの腕で頬をツンツンと突いてきたので、沙也加は軽い仕草で払ってやった。彼女はわざとらしく眼鏡をあげる仕草で言った。

「嘘、ついてますな」

「つく理由も必要もないって」

「なんだ。彼氏かと思った。渡会さん、なかなかやるなあって感心したのに」

「そんな事で感心しないの」

「でもいい感じなんでしょ?」

「全然」

 そうきっぱり答えたものの、時間の問題かもと沙也加は考えていた。なにせ岬の距離感は異常だ。グイグイ詰めてくる。じゃあ先に帰るねと余計な気遣いを見せて、友人が去ったのを見計らったように、岬は沙也加の側まで寄ってくる。

「沙也加。今日はサークル来るか?」

「……岬先輩」

「ん? 何かな」

「ちょっと馴れ馴れしいんじゃないですか?」

「どうしてそう思うんだい?」

「あたし達、別にそういう仲じゃないでしょ。友達にも誤解されちゃったじゃないですか。やめてください名前で呼ぶのは。渡会です。わ、た、ら、い」

 沙也加は強く言ったつもりだったが、岬はなぜか、ははっと笑った。その顔! 笑うのやめろ。沙也加は睨んだが、無駄だった。

「じゃあ俺の事は一郎って呼んで」

 沙也加が絶句したのは、ばんと頭を殴られた気分だったからだ。理解ができない。

「……どういう思考回路してんですか」

「イチローって感じでもいいよ。いっちゃん、でも、いちちゃんでも呼びやすいので」

「なんで先輩を名前で呼ばないといけないんですか、彼氏彼女でもないのに」

「そりゃあ決まってる。仲良くなりたいからさ」

 本気で当たり前だと思い込んでいる言い方で岬は言った。価値観の違う人間との会話はもはや恐怖体験だ。

「なんで──」

 仲良くならないといけない?

 その方法を選んだ?

 あたしを?

 頭に浮かんだ選択肢を選びきれず、言葉に詰まった沙也加を、岬は優しい眼差しで見た。

「4月に入部した時──ほら。あの時さ。林さんに捕まって、パニック起こしてた朝日くんを、沙也加が助けた時」

 ……やっぱりバレてた。

「沙也加、朝日くんに言ってたじゃないか。敬語やめろって。あれは、仲良くなりたい、仲良くしたいって気持ちからだろ。それと同じさ。相手が引いた距離だけ詰めないと──何も届かない」

 続けて岬はサラッと言った。本当に何でもないふりして、とんでもない事を言う人だ。

「あの日──


 お前は自分が笑っている事に気が付いていなかった。口元を手で隠したのは恥ずかしかったからじゃない。驚いて確認したんだ。

 笑い方を忘れる? 笑う事がないからだ。

 じゃあ何があれば、人間は笑うのを忘れる?

 お前に何があった? それを無理矢理聞き出そうとは思わない。でも話す気になった時に──

 声が届く場所に誰もいないんじゃあ、沙也加が救われない。だから俺はお前との距離を詰めたいんだ。助けを求める声が聞こえる距離で。

 助ける手が、届く距離で。

 

 ──って、うわああぁ。泣くなよォ」

「……泣かせたのはあんただ」

 沙也加のこぼした涙は一筋だけだったが、いずれ増えていき、あとからあとからあふれていく。長い年月をかけてたまった物が、コインゲームのジャックポットのように涙粒となって流れ出た。

 涙を流す理由はさまざまある。沙也加は笑い方の次に、思い出した。

 悲しいんじゃない。嬉しいんじゃない。

 これは、安堵の涙だ。


 泣く女と泣かせた男。さすがの岬一郎も、ここが校門付近とあって、いつしか周囲にできていた人垣を見渡してはあたふたする。場所を考えずに行動するからだ。


「自業自得だよ、──いっくん」

 沙也加は笑った。

次は「L-2」。全年齢版をアップし、通常版はミッドナイトへ。

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