S-1「最愛にして最悪」
渡会沙也加には家族がいない。
父親はいる。とても勤勉な人。母親もいる。とても優しい人。姉もいる。とても美しい人。兄もいる。とても賢い人。彼らはみんな素晴らしい人達だ。完璧だ。食卓を囲む時にも笑いが絶えない。絵に描いたようなアットホームな空気と空間。理想的な家族の姿。そう──誰が見ても、誰に聞いても、15歳の12月までの沙也加に聞いても同じ答えが返ってくるだろう。
忘れる事など決してできない、あの日の寒さ。
前日の勉強が祟ったのだろう、沙也加は強い眩暈を覚えて学校で倒れた。体が異常にだるく、手足は冷え切って感覚が薄れている。
「渡会さん大丈夫?」
春からの付き合いだが、親しい友人が気遣ってくれる。平気だと答えたが、沙也加の体からはどんどん力が抜けていく。生理のせいで血が足りないのだ。そう決めつけると沙也加は早退した。
学校からの帰りは、今の沙也加の足でも15分ほどだった。何度も休憩し、乱れる呼吸を整えながら、最後の力を振り絞ると、渡されていた鍵で玄関を開けた。鞄をそっと置き、靴を脱ぐ。「ただいま」と声を出す気力もなかったが、そもそもこの時間帯には誰もいない。
誰もいないはずだった。
リビングから何かが聞こえる。沙也加はそっと息を殺して近付くが、音が女の声で、叫ぶような掠れるような、ねだるような甘えたような──それが嬌声であると気付いていた。変な動画を兄がこっそり見ていて、イヤホンを外してしまったのだろうか。沙也加はこっそり笑ったが、それが間違いだと分かっていた。聞こえた声には覚えがあった。母だ。
相手は父ではない。仕事一筋の彼には、会社の同僚という二筋目があった事を、沙也加は知っていた。「あなたみたいな娘がいるのに。馬鹿な人」
留守番をしていた沙也加が会ったのは、綺麗な髪をした大人に見える女だった。「でも、そんな人が好きな私の方が馬鹿なの」
それを日曜日に聞かされた、自分の方が馬鹿みたいではないか。そう思った記憶が呼び起こされた。では──こっちの馬鹿はどうなのだろうか。そう恐る恐る扉の隙間に目をやると、
「さーちゃん! なんでいるの!」
そう悲鳴をあげる母と目が合った。それはこちらの台詞だ、と沙也加は驚いてしまった。パートに出ているはずの母の上に跨っていた半裸の男は、沙也加の高校受験を親身になって支えてくれた家庭教師だった。「沙也加くん、僕は失礼するよっ」そう言いながら彼は乱れたままの服装で、転がるように外へと逃げ出した。
「この事は絶対秘密ね、さーちゃん」
そう言って母は沙也加の手に、財布から掴み取ったありったけの紙幣を握らせてきた。なんだこれ。手に触れる紙幣の感触は、まるで枯葉のようで、昔話の狸みたいだと沙也加は呟いた。
沙也加は3万円を無視して、姉に電話をした。庭に大きな穴が開いていれば、そこに叫びたかったが、現実的ではないし、掘る元気もない。ただただ、聞いて欲しかった。
「あんた、知らなかったの? 呆れた。ほんと幸せ者だね、さーちゃんは」
こともなげに姉は笑った。受話器越しだが、姉の表情が見える気がした。美しい姉。美しさを誇った姉。妻子ある男の子供を身籠もり、その男と駆け落ちした姉。
「毎晩のように喧嘩していたの知らなかった?」
知らなかった。
「さーちゃんが18歳になるまでは、離婚はしないつもりじゃないかな」
知らなかった。
そんな事知りたくもなかった! そう言って沙也加が泣くと、姉は諭す口調で言う。いつだってそうだ。姉に妹は敵わない。
「でももしかしたら、離婚はしないかも。あれだけ壊れてても幸せ家族にこだわっていたからね。私が妊娠したって言った時も、誰かの目を──会社に知られたら、ご近所さんに何て言われるか、それだけを気にしてた」
あの人達、孫を殺せとも言ったからね。姉の台詞に、沙也加は背筋が凍る思いだった。
自らの自分勝手な愛情で、よその家庭を壊し、母子から男を奪い取った人間の言う事じゃない。言葉の冷たさよりも、他人をまったく思いやれない姉の冷酷さが怖かった。
「まああんたは頑張んなさい」
取ってつけたように聞こえた励ましだったが、姉は彼女なりに沙也加の事を案じてくれているのだ。それは確かに感じられ、沙也加は少しだけ救われた気分だった。
「さーちゃんがその家庭をどうしたいか、それはあんた自身が決めればいい。私は私で、私の家庭を──子育てを頑張るから」
そう言って電話を切った姉が死んだのは、それから2ヶ月後の事だった。交通事故だった。車が3台横転するような大事故で、母子共に助からなかった。
子供の頃に姉と二人だった部屋は、今は沙也加一人が使っている。いつ姉の気が変わって──帰省してみようか。孫の顔を見せようか。そう考えても、受け入れられるように残していた荷物も、今日からは遺品と呼ぶ。
泣きすぎたせいで、体の水分が不足したのだろう。夜中にふと目を覚ました沙也加のベッドに、兄がいた。
「──え。なに」
「さーちゃん。姉さん死んで寂しいだろう」
兄は殊勝な台詞を口にしたが、ショーツの中に手を入れて言う事ではなかった。沙也加は思い切り蹴飛ばした。
「何考えてんの!」
姉が死んだばっかりなのだ。
実の妹相手に何をする気だ。
下で両親が寝ているのに。
咄嗟に出た選択肢を選び切れずに、無言で沙也加は毛布を投げつけた。拒絶の意思を具現化したようなそれを、兄は掴んで捨てた。
「慰めてやろうと思ってさ」
にじり寄ってくる兄は、沙也加が投げた形見の絵本──うさぎがケーキを焼くお話。さやかも姉もこの本が大好きだった──を頭部に食らって、仰け反った。その好きに脇をすり抜け、部屋から飛び出すと、その日、沙也加はトイレで眠った。凍えながら翌朝キッチンで見た兄の顔は、いつもと同じ表情だった。朝の空気と同じくらい澄ました顔。
夢でも見たのか。とびきり悪い夢を。
そんな戯言を沙也加は思ったが、兄と目が合って──吐き気と共に思い知らされた。暗い瞳が内側でギラギラと燃えている。燻った欲望が消えていないからだ。兄はもう、自分を家族とは見ていない。わかった。もう無理だ。
その日から沙也加は、部屋に鍵をかけるようになった。眠るためではない。ただひたすらに勉強に集中するためだった。高校に行き、帰ると部屋。起きてまた学校に行く。勉強して、勉強して、友達と話して、勉強して。時々寄り道。また勉強して。それを二年続けた。幸せすぎて緩んでいた学力を取り返すには、それだけの時間が必要だった。抜群の成績で、沙也加が目指したのは県外の大学。一人暮らし。
誰にも文句は言わせない。言わせないための下準備も、ぬかりなく行なっていた。A判定。合格通知。下宿先からバイト先まで。それと──
「ね? お父さん。学費をお願い」
──出張でいない日に、会社に行きました。同じ部署なんですね、お互い顔を覚えていましたよ。何かおっしゃってましたかあの女性は。
「ね? お母さん。生活費をお願い」
元、沙也加の家庭教師なのだ、当然電話番号も知っていた。大学を卒業して就職先は大手出版社だそうで。何か言ってましたか先生は。
「ね? お兄さん。特にない」
同級生なんですってね彼女さん。ゼミの皆さんも先生も、突然の訪問を歓迎してくれましたよ。
「さーちゃん……」
父が絶句した。
誰にも何も言わせない。
沙也加は卒業式の日に家を出た。式に来てくれる家族はもう──いなかった。
次は「F-1」。全年齢版をアップし、通常版をミッドナイトへ。




