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M-1 「守りたい」


 何と言えばいいのだろう。言葉が見つからない。

 別所が死んだのだ。


 今朝、自分の研究室で遺体となって発見されたのだった。見つけたのは守衛で、深夜の見回りの際に、部屋に電気が点いていたのを訝しんだのだと言う。自室のソファに座ったまま、絶命していたそうだ。


 今朝アタシはいつものようにコーヒーを飲むために、いつもより少し早く大学に到着した。校門を通らずに裏口から直接、食堂に向かった。理由は「近いから」──以上。食堂は当然開いていない時間だったが、自販機はいつだって営業中だ。ボタンを押すと、カップがコトンと落ちてきた。内部で豆を挽く音がし始めたが、いつも音声だけではなかろうかと疑ってしまう。出来上がったコーヒーは熱くもなく薄かったけれど、アタシはこの温度と味が嫌いじゃなかった。アルコールが残った脳みそに、じわじわとカフェインが染みていく。

 プラスチック製の椅子に腰を下ろす。早朝の静けさが好きだ。

 ──いや、違う。静寂の向こうに、何かが聞こえる。耳を澄ませてみれば、人の声だと気付いた。アタシは自然と声の方向へ足を進めていた。近付くにつれ、囁きほどだったものが、ざわめきに、そしてやがて喧騒へと変わっていく。後ろから走ってきた人影がアタシを追い越し、彼方へ去っていく。1人、2人。……もっと大勢。何かが──起きたのだ。

 階段を降り、花壇を飛び越して、渡り廊下をくぐる。騒ぎは右手の奥だ。この先で何があっただろうか。考えるまでもなく、気が付いていた。研究室棟だ。誰か実験で事故でも起こしたかな。そう笑ってみたが、意思とは別に、足の動きが早まっていた。なんだろうこの胸騒ぎは。嫌な予感しかしない。いや、違う。これは確信だ。最悪の予感だ。


 校舎の角を曲がった。

 やはり研究室棟だ。

 しかし、その手前で。

 紺色の制服が目に入る。警察だ。

 黄色いロープが張られていた。事件だ。


「近寄らないでください」


 そう制されて、初めてアタシは、手にコーヒーがないことに気が付いた。はぁはぁと肩で息をし、鼓動で胸が苦しい。いつしか走っていたのだ。

 人だかりの端に、見知った顔があった。学生課の職員の佐倉だ。年齢不詳の人妻で、不思議と馬が合い、何度か飲みに行った事もある。提出期限が過ぎた書類を内緒で受理してくれた事もあった。大きな赤い眼鏡をかけているが、伊達眼鏡ではない。親友のナッチ──伊達夏芽とは違って。

 嫌な予感しかしない。嫌な予感しかしない。


「なにか、あった、の?」


 チョンチョンと肩を叩いて佐倉の注意を引いた。振り返った佐倉は相手がアタシだと気付くと、手を引いて校舎の陰へと引っ張った。人込みを避けているのだ。だったら──


「遠藤ちゃん」


 佐倉はアタシをそう呼ぶ。「キミ、たしか別所先生のゼミよね?」


 嫌な予感しかしない。嫌な予感しかしない。


「あとで、警察にも話聞かれるかも、だけど」


 嫌な予感しかしない。


「別所先生、亡くなったの」

「そ」


 そうですか、と言ったつもりだけれど。

 アタシはコーヒーを持っていなくて良かったと思った。持っていたら取り落とすところだった。


「……死因は?」

「うーん。まだ何の情報もないから推測でしかないけど。殺人とかじゃないよ、たぶん。警察の人も殺気立ってないし。自殺か事故か。持病があったとは聞いてないけどなあ」

「……なにか、分かったら、教えて」

「オッケ。内緒で回す」


 遠藤ちゃんもあまり気に病まないでね、と佐倉が言ってくれたが、アタシはうまく返事ができなかった。頭が回っていない。コーヒーで摂取したカフェインは、ダッシュで消費してしまったようだ。深呼吸するフリをして、目線だけで周囲を探る。校舎の角。事務所の入口。研究室棟の軒下。


 現場を去ってすぐアタシは携帯を取り出す。8時30分。夏芽の乗る電車が駅に到着してから、しばらく経つ。アタシは走り出した。校門を目指す。噂話が加速度的に広まってしまう前に、夏芽に会わなければいけない。すれ違う学生が皆、振り返る。巻いた茶髪を振り乱しながら、朝っぱらから何を走ってやがる、と笑っているのかもしれないが、こっちは口コミが競争相手だ。笑いたければ笑え。

 律儀な性格の夏芽は必ず校門を通る。ショートカットを目論んで裏口から入るアタシとは違う。汗が流れるのを自覚した。化粧が浮いてしまう。それにも構わずにアタシは走った。


「あ。モモちゃん。おはよう」


 夏芽がいた。「どうしたの、そんなに走って。忘れ物?」


「……ナッチ……」


 アタシは口を開いたが。

 何と言えばいいのだろう。言葉が見つからない。

 別所が死んだのだ。


     *

     *


「嘘だ」と否定する事も。

「冗談でしょ」と笑う事も。

「そんな馬鹿な」と悲しむ事も。

 夏芽はしなかった。ただ、ひと言──


「鈴は、鳴らなかったよ……」


 とだけ言った。

 鈴?

 混乱しているのだろう。無理もない。


「どうして……鈴……」

「ナッチ?」

「鈴が鳴らないなんて、そんなこと」

「ナッチ!」


 夏芽の様子がおかしい。視線が安定しない。衝撃に精神がやられてしまったか。

 ──違う。夏芽は、考えている。

 脳の高速処理に引きずられて、眼球運動が不安定に見えるだけだ。頭の中をくまなく探すように、眼鏡の奥で目がキョロキョロと、せわしなく動いているのだ。


「……鈴が、鳴らなかったのは、無かったから……コーヒー……コーヒーがかかった時、先生は腕時計を外した……その時の手首は? ……鈴は? ……外した。汚れたから。そしてそのまま忘れて……でも……」


 何か心当たりがあるの? そう精一杯に優しく尋ねたつもりだったが、夏芽には届いていない。唐突にうわあああ、と声を上げて夏芽が泣き始めた。見ていられなくてアタシは彼女の頭を抱きしめた。火が点いたように泣く夏芽。食堂テラスには他に人はいない。彼女が座る椅子は今朝、アタシが座った物だった。


「モモちゃんモモちゃん。先生が先生がっ!」

「うん。うん」


 夏芽を抱きしめ続けた。

 アタシはアタシで脳をフル回転させている。頭の中で、警察の動き、防犯カメラの位置、そして夏芽の性格が、まるでパズルのピースのようにカチャカチャと音を立てて組み合わさっていく

 事故であっても自殺であっても──殺人だったとしても──死亡した別所に最後に会ったのは夏芽だ。

 昨日の夕方、公園で別れたアタシは夏芽がタクシーに乗り、その後を追って別所が歩いていき、二人で研究室に入っていくのを確認していた。

 会話の内容までは聞こえなくて、何があったかは分からなかったが、三時間後に研究室を出た夏芽が、赤い顔をしてた──嬉しそうだった──から、何かがあったなと思っていた。

 それを聞き出すために早く登校したわけだが、待っていたのは、これだ。

 別所の死亡推定時刻は不明だが、夏芽は間違いなく疑われる。付近には防犯カメラは3カ所にあった。校舎の角。事務所の入口。研究室棟の軒下。はっきりと別所研究室を映した物は無かったが、カメラを精査すれば、どれかには夏芽が出てくる。夏芽を疑う気持ちはアタシには微塵も無いが、異なる意見を持つ輩はいるだろう。

 それまでに、いくつか、しておかなければ──


「夏芽!」


 あだ名ではなく本名で呼んだのは、彼女の注意を引くためだ。肩を掴んで、強い口調で呼びかける。


「しっかりしなさい、夏芽!」

「モモちゃん……」

「昨日の事を、包み隠さず全部話してほしい」


 遅かれ早かれ、警察の聴取がある。それまでに一度他人に話す事によって、夏芽の記憶を正してやり、場合と展開によっては補完──あるいは修正してやるつもりだった。


「全部、じゃないと駄目?」

「全部じゃないと駄目」

「……長くなるよ?」

「いいよ。全部聞く」


 どうせ授業どころじゃないのだ。いくつかの講義は休講になるだろう。事件性次第では休校すらあり得る。タイムリミットは、夏芽の存在に気付かれるまで。それまでに最善手を見つけるのだ。夏芽がもっとも、傷つかない手を。

 夏芽を立たせてやる。ハンカチを押し付けると、アタシは彼女の腕を引っ張って校外へと向かった。話ができる場所、できれば密室がよかった。



     *

     *


「……モモちゃん、ここどこ?」

「アタシのお父さんの家」


 台所の格子に掛けてあるキーボックスを手にして、ダイヤルを回す。暗証番号が娘の誕生日だなんて、子離れできないにもほどがある。

 鍵を取り出し、玄関を開ける。むわっとした中年男性独特の臭いが漂っていたので、すべての窓を開放した。また洗濯物を溜めてしまっているのだろう。台所は酷い有様だった。新種のキノコが生えるぞ、その内。

 敷きっぱなしの布団を干し、場所を確保。テーブルを拭き、綺麗そうな座布団を探す。冷蔵庫には缶ビールしか入ってなかった。まあいいや、と2本を手にして、アタシは玄関で待たせていた夏芽を呼び込んだ。


「……お邪魔します」


 夏芽はこわごわと座布団に座った。「あとで怒られたりしない?」


「まあ、不法侵入ではあるけれど、実の娘を捕まえる親はいないって」


 アタシは缶ビールを開けた。プシュッと音を立て、泡が吹く。


「まだ朝だよ」

「シラフが良ければそれでも。でも飲む物は他には何も無いよ」

「あ。私、自分の飲み物ならある」


 夏芽の鞄から水筒が出てきた。そういえばいつも持ってたっけ。さすがに女子力高い。水分補給はお肌の味方。お互い、ふーっと息を吐く。なんというか、不思議な間だ。


「──で、どこから話す?」


 アタシの問いに、夏芽は逡巡した。

 性急すぎたか、と思ったけれど、夏芽は落ち着いていた。どこから話せばいいのか迷っているみたいだった。何度も言いかけて、やめている。気長に待つよ。そうは言ったものの、刻限は迫っている。9時47分。携帯はまだ鳴っていない。佐倉からの続報はまだだ。

 現場で見たのは、最寄りの交番から来たと思しき制服警官だけだった。しかし、あの黄色いバリケードテープの向こうは見ていない。通報のタイミング次第では、すでに刑事が現着していた可能性はある。刑事当直が不在とは思えない。

 事情聴取は関係者が揃う朝まで待ったかも知れないが、少なくとも防犯カメラの存在には気付いているはず。許可を取るのは学長に、なんだろうけど、事件の緊急性次第では、すでにテープを精査に回しているだろう。


 昨晩、別所は大学に戻った際に守衛と会話していた。タクシーに乗った夏芽には追い付けなかったが、別所の行動はこの目で目撃したから間違いない。会話の内容まではさすがに分からないが、挨拶程度の時間だった。

 ちょっと待て。夏芽の動向はどうだろう。研究室棟の前まで直接タクシーを乗り入れる事はできないから、校門前で降りた可能性は高い。夏芽の性格だ。守衛に挨拶するくらいは、してもおかしくはない。時間外に来校した理由を説明した、まであるかもしれない。この辺りは夏芽本人に詳しく聞こう。


 どうあれ、守衛は第一発見者かつ通報者でもあるから、事情聴取の最初の方で呼ばれるはずだ。夏芽が守衛と会っていれば──早くて昼過ぎ。会っていなくてもカメラ精査が終われば──遅くとも夕方には、警察は夏芽の存在に気付く。


「あ、あのさモモちゃん」


 ようやく夏が口を開いた。「夢、って見る?」


「ちょ、ちょっと待って、ナッチ」


 予想外の台詞に脳がパンクしかけた。慌てて問い質す。「それ、今必要な情報?」


「……必要だから、困るの」


 どんなに話す順番を考えてもそこからになるの、と夏芽は泣きそうな表情をする。夏芽の思考速度はアタシより早い。早すぎて飛躍する事もしばしば。けれど、彼女が立てた理論の道筋にはいつも、大きな矛盾点は無い。アウトプットさえうまく出来るようになれば、いっぱしの論客になれる器だ、と勝手に確信している。さておき。


「夢──ねえ」


 ……そうして口にした言葉から。

 アタシは不思議な物語に飲み込まれていく……。

次は「M-2」。

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