灰の絡繰箱
その建物は数十を越える耳目と、百を越える視線と、あとは電子信号と絡繰を張り巡らせた石の箱であった。
荒地の丘に建つ、たくさんの大きな箱。
石棺の城とも呼ばれるその建物は、内も外も、異名に相応しく見るからに息苦しい灰色をしてる。
「一番欺きやすいのは、人間の耳や目」
これほど騙されやすいものはなく、ただ万が一失敗した時に、容赦なく浴びせられる暴力は圧倒的であった。
視線は居場所や行動を目視で伝える点が非常に優秀であるが、これ自体が攻撃や捕縛を仕掛けてくるわけではない。
厄介なのが、電子信号と絡繰だ。
人間を超える反応速度で、警報を鳴らしレーザーを起動する。合わせて扉を閉鎖したり隔壁を落としたり、最終的には建物そのものの構造を変えてしまう。
「相変わらず手強い」
左折しようとしたら突然床が落ちて、エレベーターのようになった廊下の一部と共にフロアを移される。最上階にあるという緊急脱出用シューターから、またまた引き離されてしまった。
「エウリカ監獄なんて、妙に可愛い名前のくせに」
命の芽吹く季節でも、花の盛りの季節でも。いつでも茶色くくすんで枯れ果てた、あまりにも見晴らしが良い荒地の丘に建つ、エウリカ監獄。
難攻不落と呼ばれる、灰の城。
男はその内部を、自由を求めて走り回っていた。
けたたましいサイレンが鳴り響き、部屋を赤く染めるほどの警告灯が点滅する。
直感でこめかみに嫌な気配が走って、男は咄嗟にかがみこんだ。つむじを赤いレーザーがかすっていく。髪を焼く嫌な匂い。案の定、真っ白い髪はうっすら焦げていた。
男は荒れた白髪のせいで一見老爺とも見紛うが、さほどは老いていない。さりとて若くもなく、隈の浮いた顔は相応に歳を重ねていた。水気のない肌に、無精髭が顔色を悪く見せる。けれどくすんだ隈の奥で、黒い瞳は強く光っていた。
「監獄っつうかビックリハウスだな、こりゃ」
古くて子ども騙しで、だけどお弁当を持ってピクニックがてら行くのが楽しかった、小さな遊園地。
そこにあったビックリハウスは、おどけたピエロが描かれていて。おもちゃみたいな外見をした家の中、回転する壁は荒っぽく空間を作り変えた。
(あの子はあのおかしな絡繰の家が、大好きだったな)
わずかの間、過去に飛んだ頭に、再度レーザーが狙いを定める。小さな赤い点が白髪に点ったのは一瞬、男はさらに身を低くし、蛙のように床に貼り付いて攻撃をやりすごした。
「まったくいい運動になる」
レーザーは規則性もなしに、空間を自在に切り裂いていく。男は液体のような柔軟性で、まるで踊るようなしなやかさで光を潜り抜けた。
レーザーまみれの通路を抜けて、隣の棟へと渡るブリッジにたどり着く。上半身を貫こうとするレーザーを、思い切り上体を逸らして回避。そのままバック転もどきをし、着地と同時に即駆け出そう――としたら。
「うおっ」
着地点の床が抜ける。道が傾いたというのが正しいだろう。確かに隣の南棟へ続いていたはずのブリッジが、スロープのようになって落ちてゆく。
「今度は巨大滑り台か?」
ブリッジは建物の間、吹き抜け五階の高さに渡されている。落ちる先は監獄の最下層だろう、振り出しに戻されるのだ。そもそもこの高さじゃ、潰れるのがオチ。
「冗談」
スロープにしては急な坂を、男は駆け下りる。
坂の半ば、男は床を蹴った。
踏ん張るだけの体勢は取れず、それでも前方南棟の壁を目掛けて跳ぶ。目標は――。
「……あ?」
真正面よりやや左手、赤いランプがチカリと光った。光のそばに、南棟への連絡口や搬入口などとは、明らかに違う扉があった。
まるで銀行の金庫扉みたいな、厳重な鉄の扉。
二つ並んだ豆のように小さなランプが、赤から緑に切り替わる。
金属の軋む音と共に、空間が切り抜かれた。
分厚い鉄扉が、内側に向かって開く。
(こんな所に部屋なんかあったか?)
監獄の構造なら、頭の中で何度もトレースした。そこから推察しても、鉄扉は不自然な場所に設置されている。構造上なら、五階と四階の間、存在しないはずのフロア。
まるで宙に浮いた扉のようだ。
なにかの、どこかに通じる扉。こちらの北棟からは渡り廊下もリフトも、なにも繋がってないけれど。
果たしてあの先には、何があるのだろうか。
絡繰かレーザーか、看守か、無事でいられる保証は。
(そんな保証、ずっとない)
壁に激突するか、落下するか、選んでる暇は無い。
鉄扉の開口部から少しそれた壁に、つま先が真っ先にたどり着いた。つま先でスピンするようにして、開口部方向に無理やり体を捻る。
「我ながら人間技越えてねえか?!」
開口部の縁に指を引っ掛け、男は勢いをつけて部屋――か何かの空間――の中へと飛び込んだ。勢い転んで、床に体を打ち付ける。
「……指懸垂はきつい」
流石に緊張の糸が切れた。そのまま床に身を預けてしまう。身の安全など何一つ確認出来ていないのに。さっさと体勢を立て直さなければと思いながらも、転んだ衝撃で閉じた瞼をなかなか開けない。
「大丈夫?」
頭上から、声が降ってきた。
瞼が跳ね上がる。何者かに見つかったという焦りと恐怖が、反射的に目を開かせた。けれどそれ以上に、その、声色が。
「あなた、ユーシス・ロックウェルさん?」
名を問う声は若かった。幼ささえ残る、女の声。
「……お前、なんだ」
男はのろのろ立ち上がる。逃走も攻撃も、防御の体勢にも入れないのは、目の前の存在があまり信じられなかったから。
「私はエウリカよ」