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「パシャーン」という雷鳴が、稲光とほぼ同時に聞こえた。
「きゃっ!」と言って彼女は、僕にしがみついた。
近くに落ちた雷に、驚いたのだろう。
僕は、雷はもちろん、彼女が僕にしがみついたことに驚いた。
すぐに僕から体を離すと、彼女は元の姿勢になって、しまった、という表情を浮かべた。
「ごめんね。びっくりしちゃったから」
「僕も」
「近いね」
「城址公園のあたりかな」
彼女のマグカップが空になっているのを見て、僕は言った。
「コーヒー、いれてこようか」
「一人にしないで。怖いから」
「わかった」
風が出てきたからだろう。雨の音が、呼吸をするように、激しくなったり弱まったりした。
雷は鳴り止まない。
日没までは時間があるが、窓から入る光が弱くなり、部屋の中が暗くなった。
「電気点けようか?」
「やめて。雷が落ちてきそうだから」
そんなことは起こらないと思いつつ、文系の彼女の、恐怖心を煽ることは慎んだ。
薄暗い部屋の中、僕らは黙って雷と雨の音を聞いていた。
しばらくして、彼女が僕に訊く。
「ねえ...キミって...カノジョいるの?」
「いないよ」あっさりと僕が答える。
「共学だし、そんなにカッコ悪くないのに。告られたこともないの?」
「人間関係、面倒くさいから。一人でいるのが好きなんだ」
「そっか」
「そういう君は?」と今度は僕が訊く。
「ボクもカレシはいないよ」
美人でスタイルもいいのに、と僕が言いかけたそのとき...
「バシャーーン」
さっきよりさらに大きい雷鳴と稲光。
無言で彼女がしがみついてきた。
僕の首の周りに回した彼女の細い腕から、微かな震えが伝わってきた。
さっきはすぐに振りほどいた腕を、彼女はそのままにしていた。
だらりと横に垂らした僕の腕。
おもむろに僕は腕を持ち上げて、彼女の背中に回した。
そして僕らは、しっかりと抱き合った。
お互いの、心臓の鼓動を感じるくらいに。
雨が弱まったように感じた。
雷鳴も遠くから聞こえる。
回した腕を振りほどくと、僕たちは真正面に向き合った。
そして彼女は瞳を閉じて、唇を微かに突き出した。
僕は顔を近づけて、唇を彼女の唇に重ねた。
まるで、予定されていたかのように。
そして、そのままじっとしていた。
後から考えると、1分くらいだったと思う。でも、時が止まったように感じた。
とてもいい香りがした。高級なジャスミンティーのような。
どちらからともなく二人は唇を離して、無言で向き合った。
真っすぐに僕に向けた彼女の視線が眩しくて、僕は視線を落とした。ちょうど彼女の胸元あたり。
しばらくして彼女が言う。
「だめだよ...女の子の胸元をじろじろと見たら」
「...」
「特にボクのような...貧乳の子の場合」
大会で、彼女の胸元のゼッケンが、真っすぐ平らに張り付いていたのを思い出した。
「これじゃ...カレシができなくても仕方ないかな」
「そんなことないよ。キミが天高陸上部の男子に、どれだけ人気だったか」
「その男子の中に、キミは含まれていたの?」
僕は答えなかった。
雨はさらに弱くなった。
雷鳴もほとんど聞こえなくなった。
「しまったなあ」と彼女。
僕は黙って、さっきまで僕の唇にぴったりと触れていた彼女の唇の、美しい曲線を描くナチュラルピンクに見入っていた。
「だって、キミとは...こんなふうになるはずじゃ...なかった」
ポツリ、ポツリと彼女が続ける。
唇の間から覗く白い歯。そこを通って聞こえてくる彼女の綺麗な声。
「キミは大切な人...だから...キミを好きになりたくない...だって」
「だって?」
視線を少し遠くにやって、彼女が続ける。
「好きになったら...いつか嫌いになるかもしれない」
「そうだね」
「そしてキミと...付き合ったら...いつか別れるかもしれない」
視線を戻す彼女。
「だからキミには...ずっと大切な人でいてほしい...なのに...こんなこと」
今度は彼女が視線を落とした。
「リセットしたら?」と僕。
視線を上げて彼女が言う。
「リセット?」
「そう。全部いったんリセットする」
「...そうか。そうすればボクたちは...再び最初から冒険の旅が始まる、だね?」
彼女の唇に笑みが浮かんだ。僕に顔を少し近づけて続ける。
「じゃあ、さっきのは、0回目のキス」
「そうだね」
「誰にも秘密だよ」
「わかった」
雨は小降りになったようだ。
「雷、もう大丈夫みたいだから、もう一杯コーヒー飲む?」と僕が訊く。
「ありがとう。いただく」
キッチンで、ついさっき起こったことを反芻するように思い起こした。ああいうことになったのに、信じられないくらい冷静でいる自分。感性が鈍い? ただ、少しだけ息が荒くなっているように感じた。
コーヒーを運ぶと、彼女は窓を開けていた。
「もうほとんど止んだね」と彼女。
「そうだね」
「じゃあ、コーヒーいただいたら失礼するね」
「うん」
開けた窓から忍び込んだ、ひんやりとして湿気を帯びた空気。
ホットコーヒーが、さっきよりも美味しく感じられた。
僕たちはいろんな話をした。子供の頃のこと。勉強のこと。友達のこと。将来のこと。
そして、家族のこと。
「両親には、一度、話をしてみようと思う」
「受験前に?」
「うん」
「大丈夫?」
「モヤモヤしたままのほうが、よろしくないと思う」
「それもそうだね。でも、無理しないで」
「うん。ありがとう」
雨は完全に上がった。空が明るくなった。
コーヒーを飲み終わると、彼女はコーヒーカップをお盆に置いて運ぼうとした。僕が制すると、彼女は床に置いていたバックパックを背負った。ショートボブの髪も元通り。
ルミ女生の見慣れた通学姿が出来上がった。
お盆を持った僕が先に立って、玄関への階段を下りる。キッチンに置いて玄関に戻ってきた僕に、彼女が言う。
「ありがとう。おかげさまで、雷がやり過ごせた」
「なら、よかった」
「他の人には話せないことも、聞いてもらったし」
「いろいろ話ができて、僕も楽しかった」
「キミってすごいね」ドアを開けて外に出ようとしたところで彼女が言った。
「どうして?」
「だって、あんなに冷静でいて、的確なひとことをくれた。ボクは取り乱してた」
「自分でも...いや、よくわからないな」
「お願い。秘密だからね」
「わかった」
「じゃあね」
そう言って彼女が家の外にでた。ドアを押さえて、そのスレンダーなシルエットを見送る。
あと何回、彼女の「じゃあね」を聞けるんだろう。
そう思うと胸の中に、何かせつないものが、塊になって込み上げてきた。
道の真ん中あたりで、彼女が振り返った。
唇に人差し指を立てて、左右にゆっくり3回振った。
ヒ・ミ・ツ
そして、にこりと微笑んだ。
自宅へ向かう彼女の姿が、見えなくなった。
遠くから、名残を惜しむような雷鳴が聞こえた。
~了~