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インターホンが「ピン・ポン」と鳴ったのは、雷鳴が響き、雨音が聞こえ始めた頃だった。
部屋から出て2階のモニターを映すと、彼女の顔。
「高遠恵太さんのお宅でしょうか?」少しおどけた風に彼女が言う。
「どうしたの?」と僕が訊く。
「ごめん、雷が怖くって。収まるまで避難させてくれないかな」
「わかった。少し待てる?」
「うん」
ジャージの下を急いでジーンズに履き替える。Tシャツはそのまま。階段を駆け下りてドアを開くと、ルミ女の冬服に身を包んだ彼女が立っていた。
スレンダーな美人。
すれ違う男子10人のうち9人は振り返るだろう。
ちょうど降り出した雨にやられたのか、ショートボブの髪がしっとりと濡れ、制服の上半身も仄かに水気を含んでいた。
「どうぞ」と僕。
「お母様はいないの?」
「うん。今日は仕事で遅くなるって」
「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔しますね」
雷の音が徐々に近くなり、雨も本降りになってきた。
玄関に上がった彼女を少し待たせて、脱衣所のチェストからバスタオルを取ってくる。
「学校帰り?」と言って手渡す。
「うん。ありがとう。雨だけだったら走って家まで駆け込むんだけど、雷がどうにも怖くて」
彼女の家は、ここからさらに歩いて2、3分ほどのところにある。
彼女をどこへ招じ入れようかと一瞬迷って、自分の部屋に案内することにした。僕が先に立って2階への階段を上がる。
ドアを開けて二人で部屋に入る。彼女は、背負ったバックパックを下すと、バスタオルで軽く拭ってから床に置く。
「へえー。昔とあんまり変わりないね」
否定はしない。
「でも、ゲームとマンガが減って、参考書と文庫本が増えたかな」
そりゃそうだ。高校2年にもなって小学生と同じなら変。
「とりあえず座って」と、自分のチェアを彼女に勧める。
「ありがとう」髪をバスタオルで拭いながら、彼女が腰掛ける。
「なにか飲む?って言ってもインスタントコーヒーしか出せないけど」
「うん。いただく」
「お砂糖とミルクは?」
「ブラックで」
1階のキッチンに行き、ヤカンをコンロにかけると、彼女、小嶋恵瑠とのことを思い起こした。
小学生の頃は、いつも二人で遊んでいた。彼女が1歳年上。
天気が良ければ、歩いて10分もしない天歌城址公園で走り回った。瞬発力に優れる彼女は、鬼ごっこで最初はうまく逃げ回った。けれど最後は、持久力で優る僕の勝ちになった。
天気が悪いと、僕の部屋でポケモンをやった。
彼女のお気に入りはイーブイ。電気自動車のニュースを聞くと、彼女と部屋でゲームをしていたときのことが、今でも思い浮かぶ。
6年生になると、彼女は中学受験の勉強に専念することになった。学校やその行き帰り、すれ違うと笑顔で手を振ってくれたけど、それまでのように一緒に遊ぶことはなくなった。5年になった僕は、一人で城址公園を走り、雨の日は一人でゲームをした...
ダイニングの椅子を一脚、2階の部屋に運び込み、デスクの廊下側に置いた。それから、コーヒーの入ったマグカップ2つをお盆に載せて、部屋に持っていく。
「ありがとう~」と、お客様用のカップを置いた僕に彼女。
その愛らしいメッツォ・ソプラノは変わらない。大人びてはきたけれど。
「コーヒーなら、アイスのほうがよかったかな」と言って、僕は僕専用のカップをダイニングの椅子の前に置く。
「ざあざあ」というより「しゃー」という直線的な雨の音。時々、稲光からワンテンポ置いて、お腹の底から突き上げるような雷鳴が響き渡る。そのたびに彼女の体がピクリと反応する。
「たしか小学校で習ったよね。稲光から雷鳴までの時間を計れば、雷の落ちた場所までの距離が分かるって」コーヒーを3口ほど啜った彼女が言う。
「そうだっけ」
「キミは、理科は苦手?」
「うん。文系だし」
「ボクも文系だよ」
彼女が自分のことを「ボク」と呼ぶのは、僕と二人きりのときだけらしい。
「中間試験いつからだっけ?」と彼女。
今日は10月10日の金曜日。
「来週月曜から一週間。君は、もう終わったんだよね」
「うん。今日の2科目で終わり。部活の後輩の顔見に行って、図書室で少し勉強して、傘を忘れて、家に辿り着く直前で、雷に捕まっちゃったんだ」
はっと何かに気付いたような顔になって彼女が言う。
「ごめん。キミの試験勉強の邪魔かな」
「大丈夫。一息入れてたところだから」
「ならいいけど」
「受験勉強はどう? 君はたしか『国立』だよね」と僕。
高校3年の彼女が通うルミナス女子高校の成績優秀者は、国立コースというトップクラスに編入される。
「そうね。順調に行けば、旧帝大か東京の私立トップ校を狙えるって言われている」
「すごいじゃん」
「キミは?」
「いまのところ学年で真ん中くらいかな。第一志望の天大を狙うには、まだまだ頑張らないと」
県内唯一の国立大学、天歌大学は、地方大学としては難度が高い。僕が通う県立天歌高校は県内一、二の進学校だけれど、天大に現役合格するには、上位3分の1以内でないと難しいと言われている。
「前は、専願内進でルミ大でいいと思ってた」と少し視線を逸らして彼女が言う。
「天大も十分狙える成績だよね」
「でもボクはやっぱ、旧帝大か東京の私立を受けるんだろうなって思う」
「なんで」
「そうね、期待に応えたいから、かな?」と視線を戻した彼女。
「学校の期待、両親の期待...短距離では、期待に応えられなかったから」
彼女は中学から陸上部に入った。瞬発力に優れる彼女は、短距離の選手。100mに専念して、今年の高校総体の地区大会を突破し、県大会に進んだ。ルミ女初の県大会突破、地方大会進出が期待されたが、あと一歩のところで叶わなかった。
「キミはまだ来年があるよね」
僕も中学から陸上部に入り、長距離の選手として活動している。今年の総体は5000mで県大会まで進んだが、予選敗退だった。
天高の陸上部の男子の間で、彼女は人気の的だった。地区大会で彼女が走ると、種目を問わず男子のほとんどが見物に行った。すらりと伸びた手足をダイナミックに動かす走りには、天高女子の短距離選手の中にも、憧れる子がいた。
彼女は僕を見かけると、にこやかに手を振る。僕が彼女と知り合いだと知ると、決まって部の男子から言われた。
ー付き合ってんじゃねーの?ー
ただの幼馴染だと言うと、これも決まって言われた。
ーじゃあ、紹介してよ!ー
そういう申し出は、適当にいなして放っておいた。いちいち対応したら彼女も迷惑だろうから。
大会では、彼女は本当に光っていた。
陸上の競技会で美醜を持ち出すのはいけないことだと思うが、正直、ピカイチだった。
雨音と雷はさらに強くなり、稲光から雷鳴までの時間も短くなってきた。
「キミは東京の大学は受けないの?」と彼女。
「私立は無理だね、うちの家計だと。自宅から通える、しかも国公立が親孝行、かな」と僕。
「ボクが東京に行っちゃったら、離れ離れだね」
「選択肢が多い君が、羨ましいかもしれない」
「でもね、天歌を離れようとしている理由の一つには...両親のことがあるんだ」と言って彼女は、また少し視線を遠くにやった。
「半年くらい前だけど、夜遅くにリビングの前を通ったら、両親の声が聞こえた。ボクには気が付かなかったみたいで、会話の中で『別居』とか『財産分与』、『養育費』だとか『恵瑠が大学に入ったら...』とか言ってた」
どう反応していいか、わからなかった。
「これって、『熟年離婚』だよね。ボクが大学に入ったらってことは...」
彼女のお兄さんは、たしか天大法学部の3年生だった。
「ボクももう法律上は成人だし、両親の意思にとやかく言える立場じゃない」
彼女の誕生日は10月3日。ちょうど18歳になったところ。
「家族がバラバラになっちゃうんだったら、別にボクが天歌にいる必要はないと思うの。いっそのこと、東京でもどこでも、遠くへ行っちゃえばいいのかなって」
「東京・天歌は新幹線なら2時間だよ」
「そんなに頻繁に家族と顔を合わせることもなくなる。そう...キミとも」
僕をまっすぐに見た目を、彼女は少し下へ向ける。
寂しそうな表情。
稲光と雷鳴が続く。雨も強い。
「君なら、どこに行っても、いくらでも友達ができるんじゃない」
僕の言葉に、顔をまた真正面に向けた彼女。
改めて気付く。綺麗な唇。
「できる...かな?」
「陸上続ければ、部活で友達ができるよ」
「うん。けど陸上はもうやめる」ときっぱりと彼女は言う。
「どうして?」
「もう、羽が生えることはないから...」
そう言うと彼女は、話し始めた。
陸上部に入って、100m走の練習を始めてしばらくしたとき、ゴールラインを駆け抜けたら、背中に羽が生えて、そのまま空に飛んでいけるんじゃないかな、という気持ちになったことがあった。それから、ゴールラインの先の空を目指す気持ちで練習を重ねた。徐々に記録が上がり、地区大会の準決勝進出、決勝進出、県大会進出と成績も上がっていった。
「けどね。いつまでたっても羽は生えてこないし、空へも飛べない」と悲しげに彼女。
「まあ、それは...」
「わかってる。天使にでもなれるんなら、話は別だけどね。でも、この前の県大会の予選が終わって、その先に進めないことが決まったとき、『もう、空を飛ぶ気持ちにはなれない』って実感したの」
「...そう」
「だから...もう陸上は終わり」
再びきっぱりと言う彼女。その次の瞬間...