お伽話は、実在した
馬車は、ルクタシアに向けて順調に進んでいた。彼女が心を置いて来た、あの城からどんどん遠く離れて……。道々、ジュリアが一緒なのは心強かった。不安定な状況の中で、彼女の温和な性格はリラの心を和ませるものとなっていた。馬車でこんな大袈裟な隊列を組んでいるのだから、ルクタシアの城までは一週間はかかるだろう、とリラは予想していた。まだ四日目だ……。彼女は、いい加減うんざりしていた。
「おはようございます、王女様方。お加減はいかがですか?」
馬車の戸を開けて朝の挨拶に現われたのは、あの青年だった。黒い髪、青紫色の神秘的な瞳……。リラはまたあの戦慄が体を駆け巡るのではないかと思ったが、今度はそのようなこともなかった。
「ルクタシア城までは、あと幾日か?」
リラの問いに、使者は一礼して三日でございます、と答えた。
「わかりました、残り三日も安全にお願いします。」
そう言ってジュリアが微笑んだ時だった。
ドドォォォォォォォン、ズガガガガガッ!
「何事だっ?」
リラもジュリアも身構え、青年も腰に佩いていた剣の柄に手をかけた。叫び声と号令が、一度に上がった。
「襲撃だーっ!闇の襲撃だぞっ!全員配置につけーっ!」
青年は軽く舌打ちして馬車の戸を閉めていなくなり、ジュリアは水の宝玉をはめた大ぶりな杖を固く握り締めた。リラも、太腿のベルトから懐剣をはずした。小ぶりな物だが、護身用には十二分な物だった。
「馬車だ!風の子は馬車にいるぞ!馬車を狙えーっ!」
地の底から響いてくるような、邪悪な声。
『狙いは私かっ?』
その場に留まってはジュリアも危険な目に遭うということがわかったリラは、馬車を飛び出した。
「出て来たか、風の子……。」
先程の邪悪な声の主は、耳が長く尖り、口がそこまで裂けている、魚の鱗のような物に全身を覆われている男だった。
「お前……何者だ……?」
リラが油断なく彼を睨み付けて言った言葉に、その男は愉快そうな笑い声をあげた。
「人の子ごときが我が名を訊ねるか?……まあ良い、人の子であっても、精霊の子であるそなたは特別……。我が名はヴィシアシー。闇の帝国四大忠臣の一人よ。」
そう言ってヴィシアシーが三叉の鉾を高く掲げた時だった。突然辺りに轟音が響き渡り、幾つもの水竜巻が敵陣を襲った。
「くっ……まさか、水の子がいるのか……?」
ヴィシアシーの燃えるような憎悪の視線が、馬車の戸口で杖を掲げて震えているジュリアに注がれた。そして、その杖の先の水の宝玉にも……。
「ちっ、皆退け!精霊の子が三人もいては、この手勢だけでは勝ち目がない!」
ヴィシアシーのその合図で、フッという音とともに、敵は皆空間転移を行って逃走していった。リラは、ジュリアに駆け寄った。
「大丈夫、ジュリア?今のは……?」
「私の術を、水の宝玉の力で強めて放った物です。こちらに敵意を抱く者にしか害を及ぼさないのですから、便利ですよね……?」
まだ青い顔に、彼女は笑顔を浮かべた。それに、リラも微笑み返してやる。
「すごい技ね……。」
「お姉さまの弓には負けますわ。なにせ、二度とは見られない逸材、とまで言われている位なんですから……。」
「御二方とも、お怪我はありませんか?」
後ろから声がかけられたので振り返ると、そこには先程の青年の姿があった。
「大事ない。それより、先を急いだ方が良いのでは?」
青年は、御意、と言って下がった。彼女たちが馬車の中に戻ると、それから五分もしない内に馬車の車輪がまた騒がしい音を立て始めた。先程までよりも、少し速いようだ。
「この様子なら、お姉さまの予想よりももう少し早く着けるかもしれませんわね。」
「そうね……。」
ジュリアの話を軽く受け流し、リラは別のことを考えていた。馬車が再び走り出す前に、ルクタシアの兵士たちが囁き合っていた話だ。
「まさか、闇の襲撃に遭うとは思いもしなかったな。」
「来るだろうよ。これは大地と風の婚姻なんだ、闇にとってもありがたいことではないだろうよ。」
「それもそうだな……。」
『闇にとっては迷惑とも言える、大地と風の婚姻……。それは、一体どういう意味だ?』
これには、二通りの解釈のし方があった。まずは、ルクタシア王が大地の子で、そこに風の子であるリラが嫁ぐから、という意味。だが、これが闇の帝国、ハーバナントにどんな悪影響を及ぼすのかはわからない。二つ目は、大地とはルクタシアを表し、風とはトリランタを表す、という説。二つの国は、古来からそれを表す国として知られていた。確かに、これを機に世界中に同盟の輪が広がって行けば、闇の帝国にもありがたくない話ではある……。
『それに、ヴィシアシーが言っていた精霊の子が三人、とは……?』
彼女たち二人以外に、女性はトリランタから連れて来た侍女が二人のみ。しかし彼女たちは、精霊の子ではない。精霊の子は、各国の王族の間にのみ生まれるはずなのだから……。そうなると、他のもう一人は男性のはずである。彼女の脳裏に、半分に割れてしまった石板が蘇って来た。地下の古文書の山の中に埋もれている、うさんくさい、と彼女が一目見るなりに思った石板……。それに記されていた文句も、鮮明に……。
天女の如き水の子、命の源を司り、人々に慈愛をもたらす
勇者の如き炎の子、破壊を司り、人々に勇気をもたらす
天使の如き光の子、希望を司り、人々に望みをもたらす
暗夜の如き闇の子、沈黙を司り、人々に静寂をもたらす
女神の如き風の子、平等を司り、人々に自由をもたらす
男神の如き大地の子、豊穣を司り、人々に平和をもたらす
妖精の如き時の子、悠久の流れを司り、人々に安息をもたらす
ここからわかることは、おそらく炎、闇、大地の子は男性であるということ。時は、いまいちはっきりとしてはいないが……。つまり、彼女たちの他に紛れ込んでいる精霊の子は、このいずれかだということだ。
『結局、わからないことだらけじゃないか……。』
また無言で、馬車の外を見つめるリラだった。
……ガタゴトガタゴト、ガタンッ!
キキィィィィ……。
……ガタゴトガタゴト……。
門は、軋んだ音を立てて開いた。細部まで、壮麗な装飾を施した城……。
『私の葬られ先か……。』
それを見つめる彼女の眼は、なんとも冷たい。しかし、今の彼女にはそんなことを考えている余裕がなかった。異変を感じたのは、ルクタシアに入ってすぐのことだ。春の雪解けというものが、まるで進んでいない……。その雪の深さは、真冬そのものだった。そして、トリランタにいた時は聞こえていた風の精霊たちの声が全く聞こえない。まるで、死に絶えてしまっているかのように……。風は吹いている。頬を優しく撫でて過ぎる。だがそこからは、生命の息吹という物がまるで感じられないのだ……。
「雪解けが遅いにしても、異常ね……。」
「ええ、何か嫌な感じがしますわ……。」
彼女の言葉に、馬車の向かい側に座っているジュリアからの返答があった。彼女も、何かを感じているようだ……。
ガタゴトガタゴト、ガタン!
馬車がその車輪を雪の上に止め、今度こそ動かなくなった。どうやら、城の前に着いたようだ。馬車の戸が開けられる……。
「姫君、どうぞお手を。」
またあの青年だった。どうやら、彼がこの行列に加わったルクタシアの人間の中で一番身分が高いようだ。リラに手を差し出すように促す位なのだから……。そして、差し出されたその手に自分の手を重ねる……。
「……!」
彼女は、声にならない悲鳴を上げてその手を引っ込めた。また、あの戦慄が走ったのだ。青年の温かい手に、彼女の異常なまでに冷たい手が触れたその瞬間に……。
「いかがなさいましたか?」
「……なんでもない。」
どうやらこの青年の方は何も感じていないらしい、彼女の気のせいかもしれない……。そう無理矢理自分を納得させて、彼女はその手を取った。城の中に、案内される……。
「王妃様のお部屋はこちらになります。御用があれば、あちらのベルでお知らせ下さいませ。」
彼女を案内してくれたルクタシアの女官は、そう言って部屋を出て行った。それを確認してから、リラはあちこちを見まわした。繊細で優しい模様の絨毯をはじめ、サテンやレースのカーテンも、ベッドの天蓋からひらひらと垂れている薄衣のカーテンや寝具類一式、花を満杯に生けた花器に至るまで、全てが淡いグリーンに統一された、美しい部屋だった。
『なかなかいい趣味の部屋……。綺麗……。』
彼女が感心しているところで、ノックの音が響いた。
「どうぞ。」
短い返事の後に、トリランタから連れて来た侍女が二人、衣装箱を捧げ持って入って来た。
「失礼いたします。御婚礼の衣装と今夜の晩餐の衣装、それに、ルクタシアの陛下からの贈り物、というドレスが届いております。」
「……見せて?」
彼女が衣装箱を覗き込むと、薄桃色の婚礼用の衣装と真紅の晩餐用の衣装、それに、こちらも淡いグリーンのドレスが入っていた。何の気なくそのドレスを手に取る……。その裾から、一枚のカードがこぼれた。
「緑の瞳の姫へ。十六歳の誕生日に。っ……?」
「どうかなさいましたか?晩餐のお支度をお手伝いいたします。」
「え、ええ……。」
侍女が彼女の着替えに取り掛かったが、彼女は全く別のことを考えていた。きつくありませんか?などと聞かれても、上の空……。
『年だけならわかるけど……。どうしてルクタシアの王が私の目の色まで……?』
会った記憶は、ない。今日が、初めてのはずなのだ……。それに。
『この国では、なぜ風の精が死に絶えているの……?もしかしたら、他の精霊も……?』
考えれば考える程、どんどん深みにはまって行く……。彼女の思考は、完全に囚われてしまっていた。
通された晩餐会場には、重臣と思われる数人とジュリアがいるのみだった。リラの隣は、まだ空席となっていた。
「陛下はどうされました?」
彼女の問いに誰もが顔を見合わせて俯く中でただ一人、あの青年だけが彼女を真っ直ぐに見つめ、答えた。
「陛下は急な御病気でお越しになりません。」
「そうですか……。」
彼女が席に着いたなりに、重臣たちは揃いも揃ってとんでもないことを言い出した。
「王妃様は、風と話すことができる風の子だと伺っております。……すでにこの地の異変にはお気付きでしょうか……?」
来た。彼女が聞きたいと思っていた話と、関連性があるに違いない。
「ええ。この地では、風の精の声を聞くことができません。まさかとは思いますが、この地ではどの精霊も死に絶えているのでは……?」
重臣たちは皆俯いた。それから、その内の一人が小さくそうです、という答えを返して来た。
「そこで、風の子である王妃様に……。」
「待って下さい。私はまだ聖具を見つけ出してすらいないのですよ?つまり、今のままでは私は特別なことは何もできません。精霊の聖具に一番近い人の子、というだけなんです……。」
突拍子もない願い事をされてはたまらないと思って、彼女は先に予防線を張った。だが、彼らの陳述は続いた。
「わかっています。ですが王妃様、どうぞこのルクタシアを、ひいては全世界をそのお力でお救い下さい!」
「はぁ……。」
もはや、肩をすくめてみせるしかない。彼らは、本当に先程の彼女の言葉を聞いていたのだろうか……?そんな彼女の様子をよそに、彼らの話は続いた。
「こちらにいるフェ……フェリドも王妃様と同じ精霊の子で、大地の子なのです。現在の国王陛下の、いとこにあたる血筋の者です。」
あの青年が、軽く会釈をして見せた。そうか。彼女はこの瞬間に、あの謎の戦慄の意味を知った。精霊の子は、時の子以外はみな相対する属性の者がいる。その間には特別な絆があるというから、おそらくそれがあの戦慄の理由だったのだろう……。
「それを言うなら、今回親善使節として来ているジュリアも水の子ですよ。彼女がいたおかげで途中であったハーバナントからの襲撃から回避できたんです。」
リラの言葉に、ジュリアは重臣たちに向かって頷いてみせた。いつも誰にでも向ける、優しい笑顔で……。水の子が慈愛をもたらすというのは、本当に違いない。彼女を見ていると、あのうさんくさい石板も真実を書いているように思えてくる……。
「それに、彼女は正真正銘の水の子です。聖具を手にしているのですから……。」
重臣たちは、さすがにその言葉には目を見張った。ジュリアはまた優しく微笑んでから、杖にはめられた宝玉を取って掲げて見せた。
「これが水の聖具、水の宝玉です。その中心に、水の力の宝石、サファイアが埋め込まれています。」
確かに、蝋燭の光を受けてより一層青く輝く物が、その中心にあった。
「本題に戻りましょう。精霊の子である私たちに何を頼みたいのですか?」
彼女のその言葉に、誰もが一瞬固まり、口を閉ざした。それから、一人がポツリ、と呟くように話始める……。
「トリランタに伝わる古い伝承のように、千年もの間雪に閉ざされた国があると聞けば、王妃様ならいかが思われますか?」
短く、だが深く考える。そして。
「嘘だと言いますね。それは、お伽話の世界の話でしょう?」
それから、ハッとする。まさか……。
「……まさか、ルクタシアがそうだと?外の雪景色は雪解けの遅れからではなく、千年間変わっていないと……?」
それに、彼らは一様に重く頷いてみせた。自分の目でそれを見たのでなければ、彼女もこんなにあっさりと認めることはできなかっただろう……。お伽話が、実在するなんて。そして、フェリドが続けた。
「そこで、トリランタに食物の援助を以来しました。私たちは、人の子の手でルクタシアを救う方法はないかと手を尽くして調べました。そして、この国に伝わる古文書に書かれている方法が、唯一の物だと知ったのです。」
「具体的には?」
彼女の言葉で、フェリドの口が再び開かれた。
「七人の精霊の子全てが精霊の聖具を手にし、原始の島に集結すること。そしてさらには、封印された始原の光を呼び覚ますこと、です。世界に始原の光が満ちた時、全てが無垢だった時代、あるべき姿に回帰すると言われています。しかし、これにはハーバナントからの妨害が必ずや入ってくるでしょう。彼ら闇の生き物は、始原の光が解放された無垢の世界では生きて行くことはできませんからね。」
「ようは、闇の帝国から追跡されるような危険な旅に出てくれ、ということですか……。」
「……御意……。」
彼が軽く一礼してそう答えた。そんな危険な旅に出るのは、恐ろしい。だが、何千年も雪に閉ざされた大地で、今も苦しんでいる人がいるのだ。それに……。
「……わかりました、行きましょう。」
「ほ、本当ですかっ?」
「ただし、条件が一つあります。」
重臣たちは皆その顔を輝かせて上げたが、リラは間髪入れずに条件の提示をした。
「私が無事に戻ったら、その時はルクタシアの陛下とは離縁させて下さい。」
「なっ……!」
重臣たちは、今度は皆一度に色を失った。なんということを言い出すのか、とでも言わんばかりだ。
「少し位私にもメリットがなければ、交渉にはならないでしょう?食料などの援助は続けますから、私をトリランタに戻して下さい。」
「……。」
ジュリアが、黙って目を伏せた。彼女もリラとコルレッドのことは知っていた。だから、彼女の今の心情を考えると何も言えないのだ……。
「……わかりました、陛下にもそのようにお伝えします。きっと、納得して下さるでしょう。」
フェリドが、あっさりとそう答えた。彼も、ともに旅に出ることになるに違いない。その手に、精霊の聖具らしき物は見受けられないのだから。だが、ジュリアは別だ。そう思って妹に声をかけようとした時だった。
「私も行きますわ、お姉さま。少しはお役に立つでしょう?お姉さまがトリランタに戻って王位を継いで下されば、これ以上心強いことはありませんもの。」
その固い決心を窺わせる笑顔に、リラは何も言えなくなってしまった。これで、ジュリアも旅に出ることが決まった。
「では、どうぞ三人でお行き下さい。供の者は何人必要ですか?」
「いらないわ。いざという時に、人数が多いと機動性に欠けますから。必要最低限の人員で行きたいと思います。」
彼女の言うことは、もっともだ。余分に人数がいればそれだけ移動に時間がかかるし、目立つので敵に発見されやすくなってしまうのだ。
「……わかりました。いつ頃でしたらご出発いただけますか?」
「すぐに、ではないのですか?私はそうだと思っていましたが……。少しでも早い方が良くありませんか?」
リラが目を丸くして訊ねた言葉に、ジュリアも同意して頷くのが見えた。それを見て、フェリドが決を下した。
「わかりました。王女様方がそのおつもりでいらっしゃるなら、明朝、日の出とともに出立いたしましょう。よろしいですか?」
「わかりました。それでは、今夜中に出立の準備を整えさせておきます。ごゆっくりお休み下さい。」
「あの……。」
リラが遠慮がちに声をかけると、皆が顔を上げた。まだ何かあるのか、という顔だ……。
「陛下にご挨拶をしたいのですが……。」
フェリドが溜息をついた。それから、重そうにその口を開く……。
「陛下は……只今ご危篤です。とてもお会いできるような状態ではありません。どうぞご遠慮下さい……。」
「……わかりました。」
正直言って、納得はいかない。なぜ、ついこの間まで戦争の指揮を執っていたはずの人間が危篤なのだろうか……。だが、別に会いたい訳でもない。ただ義務として挨拶をしなければならないと考えていただけだったので、リラはその嘘を都合の良いように扱うことにした。
『まあ、会いたくないということならそれでもいいわ……。』
彼女はそう思って、食事に手をつけた。明日になれば、この精霊が死に絶えた居心地の悪い国を去ることができる。それだけを、考えながら……。
こんにちは、霜月璃音です。~風空の姫~の第三話をお届けいたします。
前作に比べると展開が亀のようにのろいです。申し訳ありません。
飽きずにお付き合いいただけると嬉しいです。
もしよろしければご意見、ご感想などお聞かせ下さい。
質問なども、ネタバレしない範囲でならお答えいたしますので、お気軽にどうぞ。
前作へのご質問でももちろん構いません。皆様のお声を聞かせていただけると大変嬉しいです。
最後になってしまいましたが、ここまでお読み下さった皆様、本当にありがとうございました。