変わらないもの
「ここは……。」
彼が目覚めたのは、ちらちらと温かい光が降り注ぐ、木陰でのことだった。腰には、見たこともない剣を佩いていた。だが、その波動からその剣が何なのかを一瞬で理解する。
「これは……大地の剣?それにしても……。」
胸が詰まるような懐かしい風景に、彼は息を長く吐き出し、吸い込んだ。鼓動が早まる。彼の足は、独りでに動き始める……。
「歌声……?人のものとは思えない……。」
彼の耳が、澄んだ歌声を拾い上げた。脳の真髄までをくすぐるかのような、柔らかくて、切なくて、美しい音色……。狂走した心臓は、もはや自分のものと思うことも難しかった。なぜだろうか、彼が一生懸命に落ちつけようとしているのに、その心臓は早鐘を打つ一方だ……。
ふと目の前が開け、彼の青紫の瞳に、燦々と降り注ぐ陽光を乱反射する水面が映し出された。そして、その光景のあまりの美しさに、彼は息を飲んだ。その後、呼吸をすることも忘れてしまうほどにその光景に見入る。心臓は、すでに自分の体を離れてしまったように感じられていた。ふわふわと覚束ない感覚だけが、辛うじて手足に残されている。
「っ……。」
正確には、彼が見入ってしまったのは美しい光景ではない。その泉の畔、緑の若草の上に真っ白い足を投げ出しているエメラルドの瞳の少女こそが、彼が真に見入ってしまったものだった。見覚えのある少女だった。だが、こんなにも美しい少女だったとは、気付きもしなかった……。豊かになびく闇の深淵から持ち帰ったかのような漆黒の髪、雪よりも白い細い肢体、ガラスと宝石で作ったオルゴールの音色ではないかと考えられるほど透き通った、繊細な歌声。そしてそれがこぼれ落ちる、鮮烈な紅い唇……。彼は、見事なまでにその視線を奪われてしまっていた。
「誰っ……?」
少女の方も他者の存在に気付いて、体を少し強張らせてこちらを向いた。彼女の歌声は、まだ彼の耳の奥で心地良い。彼の脳が、澄んだ声に縛られていることを望んで、いつまでもその声を頭の中で奏で続けているのだ。彼女の警戒心を解こうと、彼は今までいた木陰から歩み出た。
「フェルディナンド……。何の悪戯?驚かせないでよ。」
自分を見上げて来る眩しい瞳に軽い眩暈を感じながら、彼は彼女の隣に腰を下ろした。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ……。久しぶりだね。」
「そうね、しばらく人界の方に行っていたんでしょう?どうだった?」
彼女は興味津々といった様子で、彼の方に身を乗り出した。その様子に思わず笑みをこぼしながら、彼女の問いに答えてやる。
「なかなか綺麗な所だったよ。……まあ、ここには及ばないけれど……。」
彼の答えは、正確には少し違っていた。ここが美しく見えるのは、彼女がいるせいだと彼にはよくわかっていた。
「当たり前じゃない。天界一美しいと言われる神々の泉が人界の景色の負けたら、何だか悲しくなるもの。」
「それはそうだけど……。」
僅かに頬を膨らませた彼女の髪に、深緑の葉がはらりと舞い落ちた。それを払ってやった彼の指に、漆黒の絹糸が触れる……。一瞬抑えがたいし衝動を感じた彼だったが、慌ててその手を引っ込めることで何とかその衝動を抑え込んだ。
相対する一族。彼の種族である大地と、彼女の種族である風とは、決して結ばれることの許されない一族だった。生まれて来る子供の力が、親同士の力の相殺によって消えてしまう可能性があるためだ。また、その逆もあり得る。相対する力同士の反発で、創造神をも凌駕する力を持つ子供が生まれてしまうことも考えられるのだ。それを恐れた神々の間では、大地と風、炎と水、光と闇の種族間での婚姻を禁忌としていた。
「どうしたの?」
彼の不審な様子に、彼女は訝しげな視線を向けて来た。内心で少々焦りを感じながらも、平静を装って彼女に笑いかける。
「何でもないよ。それよりさっきの歌、とても良かったよ。天界一の歌い手、風空の姫の歌声をあんなにそばで聴けたなんて、ものすごく得した気分だ。」
白い頬がほんのりと桜色に染め変えられた。そのままふい、と彼から視線を逸らして、彼女は紅い唇をほんの少し突き出した。
「本当にどうしたの?フェルディナンドにそんなに褒められたら、何だか気持ち悪い……。」
「……その呼び方、やめてくれよ……。昔のように、フェリドでいい……。」
六人で遊んでいた彼らだったが、一人、また一人と婚期を迎える度に、だんだんと離れ離れになってしまっていた。そして、それと同時に少しずつ、お互いの心の距離も離れてしまっていた。いや、無理に距離を置こうとしていた、という表現の方が正しかったのだろう。それを望んだ者は、一人としていなかったのだから……。
「……もう、昔とは違うから……。」
そう言って笑った彼女は、どこか諦め顔で、寂しげだった。元々、六人の中で一番寂しがりで、一番弱い彼女のことだ。六人が離れ離れになって一番辛いと感じているのは、おそらく彼女だろう……。
「強がりなのは昔から変わっていないんだな……。」
「なっ、何が言いたいのよっ?強がりでも何でも、フェリドには関係ない!」
憤慨して立ち上がり、そのまま歩き去ろうとした彼女の手を、彼の手が捕らえた。
「放して!放っておいてよ!私の勝手でしょ!」
「僕も、昔からどこも変わっていない。」
「何が言いたいのよ?何も成長していなくて、悪かったわね!お互い様でしょう?」
なかなか自分を解放してくれない彼に、彼女はいい加減腹が立っていた。それと同時に、少しでも長くともにいるのが辛かった。彼女がいくら望んでも、彼がその言葉を言ってくれる訳もない。彼女が抱いているのは、掟に縛られた、許されざる感情なのだから……。
「放してよ!フェリドと一緒にいたくないの。一緒にいたくない……。」
「嘘つき……。」
「何を根拠にそんなこと!」
振り返った彼女の視線を、真剣な青紫の瞳が絡め取った。その色に、思わず体が硬直してしまう。
「だって君、泣いてるだろう……?」
白い頬を流れる透明な筋の上を、太陽の光が滑り落ちる……。気付かれていたことに気恥ずかしさと苛立ちを感じながら、彼女は慌てて、彼につかまっている手と反対側の手でそれを拭った。
「どうして泣くんだよ……?」
振り返った彼女の白い顔は、再びあらぬ方へ向けられてしまった。
「あなたと一緒にいるのが、辛いの。どんなに望んだって得られない、そんな言葉が欲しくなってしまうから……。」
彼女の言わんとしていることは、彼にもすぐにわかる。禁忌?そんなもの……。彼の頭の中で、そんな言葉が反響する。そして。
「罪を犯す、勇気は……?」
もう一つ反響する別の言葉は、彼の口からこぼれて彼女に対する問いかけに変わっていた。彼女の肩が、ビクリと大きく跳ねる。それからゆっくりと呼吸をする様子が、彼の目に映し出されていた。振り返らない彼女がどんな表情をしているかは、その目に映らない……。
「……一人なら、ない……。」
それは、二人なら、という意味……。掴んだままだった腕を引くと、細い体が彼の膝の上に落とされた。
「君の父上や母上と、別れることになるよ……?それどころか、僕らの存在すら抹消されてしまうかもしれない……。創造神は、全てを見ていらっしゃる……。」
陽光を瞳に湛えたまま、彼女は静かに頷いた。その決意の固さを確かめてから、彼は彼女の瞳を閉じさせた。紅い唇は、その色に反してあまりにも冷たかった。
「っ……!」
次に彼が目覚めたのは、どこかもわからない草原の真ん中だった。見渡す限りの、緑の大地……。
「辛い記憶だったか?それとも……。」
背後からの声に、彼はゆるりと振り返った。今の彼には、それが誰の声なのかすぐにわかる……。
「父上……。」
青紫の瞳。その先には、彼が思った通りの人物がいた。大地の精霊、いや、大地の神々の長。彼の、神代での父親。
「他の者とお前の違う所は、お前は彼女と出会った時から、少しずつ記憶を取り戻していた、という所だな……。急激な覚醒をさせなくて済んだ分、私も楽だった。」
少しずつ自分の中にこぼれて来ていた言葉の数々が、一つになった。全ては、彼女という存在に繋がる物だったのだ……。
「父上、ありがとうございました。おかげで僕は、大切な記憶を取り戻すことができました。今度こそ、必ず彼女を守り抜いて見せます。あいつからも……。」
彼が同時に思い出したのは、宿敵のことだった。そして、宿敵の現世での正体も同時に知った。過去の九度の転生で、彼と彼女の間を引き裂いた者。魔界の王が、ハーバナント王の正体……。だが……。
「あいつはどうして、あんなにも執拗に彼女を狙うんだ……?」
魔王すらも魅了してしまう程の美貌。それを単純に理由にしてしまって、いいのだろうか?彼の本能が、それだけではない、いや、むしろもう少し違うところに彼の思惑がある、ということを告げていた。フェリドのその言葉に、大地の精の表情が曇った。
「私たちの責任だ……。それをお前たちに負わせてしまったことは、すまないと思っている……。」
「どういうことですか?父上……。」
彼の問いかけも虚しく、その体は強制的に大地の精の領域から人間界へと送り還されてしまっていた。
背後の気配に、彼女の体がピクリと反応した。毛布にくるまったまま星を眺めていたその背から、温かい腕が回される……。
「な、何?」
すでに眠っている皆を起こさないように、小さな声でそう問いかける。月の青白い光の中に紅潮した頬が浮かび上がっていることは、彼女の預かり知らぬことだった。
「何でもない……。ただ少し、このまま……。」
自分の問いかけに返された大地の声に、彼女は前を向いてから黙って頷いた。四千年の時が流れても、彼女は変わっていない。照れると、必ず顔を逸らして目を合わせてくれなくなる……。抱き締めた体の細さまでが、そのままだった……。
ようやくこの話を書くことができました。自分でも書きたかった場面です。
相変わらずの不定期更新で申し訳ありません。
お気に入り小説に登録して下さっている皆様、ここまでお読み下さっている皆様、本当にありがとうございます。