結び目と誓い
一行は、失血のせいで気を失いそうになっているフェリドの案内で、何とか宿屋に辿りついた。宿屋の前で、ついに彼は気を失ってしまった。
「フェリドっ!」
落馬しそうになった彼の体を、リラがなんとか支えた。それでも、彼女の細い腕のみで大の男一人の重さを支え切れる訳もなく、結局は落馬の衝撃がやわらいだだけだった。エルリックがフェリドを肩に担ぐような形に背負った。
「姉さんとジュリアは、馬をお願い。僕はリラさんと、宿屋のご主人にお願いに行くから。」
普段は弟の言うことなど決して聞かないようなティアナも、この時ばかりは違った。黙ってその言葉に頷いて、両手で馬の手綱を握った。ジュリアも、それに続いた。
「行こうか、リラさん。」
エルリックは蒼白な顔をしているリラにそう声をかけて、宿屋の戸を開けた。彼らが入った途端、宿の主人が目を丸くした。
「お前さんたち、ずぶぬれじゃないかね!……おや、彼はどうした?倒れているのか?」
宿の主人は、そう言ってエルリックの肩に担がれているフェリドの様子を見に寄って来た。
「そうなんです!ひどい怪我をしていて……。部屋をお願いします!できれば、清潔なシーツも何枚かお願いします!お代はちゃんと払いますから……。」
「わかった、二回の角部屋が開いているよ。シーツを持って行くから、彼を連れて行きなさい。」
宿屋の主人は、そう言って部屋の奥に消えて行った。
「ほら、リラさん。行こう。」
エルリックにそう促されて、宿屋の主人に鍵を渡されたリラは、先頭に立って階段を上った。
「この部屋だね。」
リラが鍵と戸を開けると、エルリックがフェリドを背負ったまま戸口をくぐった。そこに、宿屋の主人がシーツやタオルをたくさん抱えて入って来た。
「ほら、着替えだ。君たちも着替えなさい。彼の着替えは私がしておくから。ああ、君は隣の部屋で着替えなさい。隣の部屋も開いているから。」
宿の主人は、そう言ってリラに隣の部屋の鍵と着替え、タオルを渡して、部屋から出した。リラは言われた通りに隣の部屋に入り、タオルで濡れそぼった髪や体を拭き、主人が貸してくれた白いチュニックに身を包んだ。寸法が、まるであつらえたかのようにぴったりだった。隣に戻る時に、ジュリアとティアナの二人が戻って来るのが見えた。部屋の戸を、軽くノックする。
「あ、リラさん?入っていいよ。」
エルリックがそう声をかけてくれたので、リラはその部屋の戸を押し開いた。着替えさせられたフェリドは、寝台に寝かされていた。その彼の枕元に、腰掛ける。
「フェリドは……?」
「ああ、止血がされていたから、命に別条はないと思うよ。ただ、あまりにもたくさんの血を失い過ぎたんじゃないかな?何か必要なものがあったら、カウンターにいるから声をかけてくれ。」
宿の主人は、そう言い残して部屋の戸口をくぐり、階段を下りて行った。リラが、ホウ、と安心したかのように息を吐いた。
「心配してたんだね、リラさん……。良かったね。」
エルリックはそう笑うと、下から聞こえたずぶぬれじゃないか、と言う声から何かを感じ取り、戸を閉めて出て行ってしまった。額に浮いている脂汗を、そっとタオルで拭ってやる。フェリドのその顔は、血の気を失って青白い色をしていた。彼は、自分を庇ったが故にそうなってしまったのだ……。その彼の行為の重さに、彼女の心は塞いだ。なぜ、自分を庇うだなんて愚かな真似を、彼はしたのだろうか……?
「……ラ……。リ、ラ……。」
うわ言で名前を呼ばれたことに、彼女はひどく驚いた。温かいはずの彼の手を、握ってやる……。今は自分と同じか、それ以上に冷たい。その事実に、彼女は心の底で動揺した。彼はまさか、このまま……?
「やだ、死んじゃダメ!」
その言葉が、自然に口をついて出た。彼女の心の中にある、確固としたもの……。
「……リ……。」
うわ言に、また彼女の肩がびくりと揺れた。彼の手を握る自分の手の力が自然と強められたことに、彼女は気付いていた。
「大丈夫よ、ずっとついてるから……。」
結ばれた手と手の上に、温かい滴が一粒、こぼれた。
「暗いな……。ここはどこだ?」
フェリドは、辺り一面の闇の中で自分の位置を把握しようと、懸命に目を凝らしていた。ぼんやりと、前方に人影が浮かんだ。あれは……。
「リラ!」
彼女が、振り返った。それから、普段彼には絶対に向けないような、柔らかい笑顔を浮かべる。だがそれは、彼にとってはなぜか懐かしいものだった。胸の奥が、切なさで締め付けられる……。そっと伸ばした腕に、彼女は嫌がることなく応じた。これも現実の世界では絶対にあり得ないことなのに、どこかに覚えがある感覚だった。
「リラ……。」
腕の中の彼女が、彼を見上げた。自分に真っ直ぐに向けられたエメラルドの瞳に、彼はひどく動揺させられた。彼女の真紅の唇が、言葉を紡いだ。
「ごめんなさい……私、行かないと……。」
「行くって、どこへ……?」
彼女の体が、彼の腕から離れた。そして……。
「さようなら……。」
彼女のその言葉が、彼の耳朶を打った。彼女の心地良い声音。それが、耳を疑いたくなる、塞ぎたくなるような言葉を音にしたのだ……。彼女は、彼に背を向けた。そのまま、ゆっくりと前方に向かって歩き出す……。その向こうに、ぼんやりとした影が浮かんだ。彼は、それに覚えがあった。間違いない、あれは……。
「リラ、行くな!そっちに行っちゃいけない!」
彼女は、彼の方を振り向きながらゆっくりと歩いて行く……。そして。
「フハハハハハハッ!」
そう気味の悪い笑い声が、彼がいる空間全体に響き渡った。彼女の長い黒髪が、前方の影の手に絡め取られる……。彼女の体は、あっという間にそのマントに包まれ、さらわれた。
「リラ!戻れ!そいつは魔王だぞっ!リラーっ!」
叫んでも叫んでも、彼女は戻っては来ない。だんだんと、彼の意識も遠くなっていってしまった。
「フッ!ハッ、ハッ、ハッ、ハッ!……つうっ!」
気が付いたフェリドは、汗だくで闇の中の寝台の上にいた。体にきっちりと巻かれた白い包帯には、赤く血がにじんでいた。
パタン……。
ドアが静かに閉まった。入って来たのは、包帯と水を持ったリラだった。
「……気が付いたのねっ?」
リラは彼が座っている寝台の枕元の椅子に腰掛けた。
「ここは……?」
そう口から言葉がこぼれるのと同時に、彼は辺りを見回していた。
「宿屋の部屋よ……。あなたはここに着くのと同時に倒れたの。丸一日以上も眠っていたのよ……。包帯、換えましょ。」
リラはそう言うと、器用にその結び目を解き始めた。フェリドの胸の少し下に口を開いた傷は、ほぼ真横に走っていて、生々しく血を湛えていた。
「この薬、きっと染みるわよ……。麗月草から取ったものだから……。」
そう言ってリラは、くすんだ緑色の軟膏を指先にたっぷりと付け、フェリドの傷口にそれを塗った。
「……つっ……!」
彼の表情が、焼けるような痛みに歪んだ。ふと目だけを上げて彼のその様子を確かめてから、リラはまたその傷口に視線を戻した。その表情は、彼以上に痛々しげだ……。
「しみるの?でも、我慢して……。闇の傷には、これが一番良く効くのよ……。」
リラはそう話してやりながら、彼の体を手早く拭き終え、包帯を巻き始めていた。
「……どうして……あんな無茶したのよ……?」
「そりゃ、君が怪我したら痛いだろうなぁ、と思ったから……。」
「あなただって怪我したら痛いでしょう?」
「……君が怪我をするよりは、マシかな……?」
「……意味わからない……。」
そんなやり取りを交わしながら、リラは彼の体に包帯を巻き終えた。
「……。」
フェリドは、目の前で器用に包帯の結び目を作っているリラが、先程の夢のように自分に背を向けてどこかへ行ってしまうのではないかと思うと、落ち着かなかった。
「よし、できたっと……。きゃっ!」
リラは、そのままフェリドの腕に捕まえられてしまった。傷口の炎症から、彼は熱を出していた。熱っぽいその腕に包まれた時、彼女の中に何か温かい感情が流れ込んで、リラはそっと目を閉じた。
「まったく……。魔王なんかにさらわれるなよ……。僕を置いて、どこにも行くな……。ずっと、そばにいるんだ。僕が君を護るから、ずっと……。」
「フェリド……。」
リラの頭の中で、フェリドのその言葉がリフレインし続ける……。彼女は、ずっと誰かのその言葉を待っていたのかもしれない。彼女の内側にある弱さに気付いて護ってくれる人を、待っていたのかもしれない……。
「ずっと……ずっと一緒にいるわ……。だからあなたもずっと、私を護ってね……。」
リラはこの時、自分の中に新しい気持ちが生まれる予感がしていた。まだまだ気付くことはないが、いつかはその気持ちを素直に見つめられるようになるのかもしれない……。彼女はそう思って、彼の腕の中で真紅の唇をほんの少し、笑みの形に歪めていた。
異国恋歌~風空の姫~第十七話、いかがでしたか?
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