運命の扉は、開かれた
一面に広がる緑の草原、青い空……。エメラルドの瞳が、それらをじっと見つめていた。黒い髪を強い風がさらって、舞い上がらせる。彼女の脳裏に色鮮やかに蘇るのは、四千と四百年分の記憶……。その中でも一番強く印象に残っていたのは、四百年前のものだった。そっと目を閉じる……。あの日々は、彼女には昨日のことのようだ。
まるで、夢を見ているかのような大地。ゆったりとした羊雲が青い空を歩き、時々太陽を陰らせる……。その太陽に合わせて、雪解けの水を湛えて走る小川の水面は、きらきらと揺れ動く。その岸には、まだ大地に顔を出して間もない若草と、春一番に花を咲かせた小さな青い花が、風に揺られて謡っていた。その心地良い揺れをふと止めて、花を手折った白い手があった。憂鬱そうな、エメラルドの瞳……。そしてその細い手で手折った花を、小川に浮かべる。花は、静かに川面を走り出した。一見すればそれは午後の退屈な時間を持て余しているだけのようにも見えるが、彼女の場合はそうもいかなかった。
『トリランタが、負けた……!』
城内は騒然としている。今にも着くのではないかという、東の大国、ルクタシアからの使者を迎える準備で……。
『和平の使者だなど……。何を要求するつもりだ……?』
領地か、奴隷か、はたまた彼女たち姉妹の内一人を愛妾として貢物とさせるか……。白い手の持ち主は、その拳を思い切り大地に打ちつけた。彼女の手の下で、若草が悲鳴を上げた。だが使者と名のつく以上、彼女も出迎えなければならない。いつまでもそうしている訳にもいかず、長い黒い髪を風になびかせて、彼女は城に向かって歩き出した。
今彼女は、雛壇の上に七つ据えられた椅子の中でも最も上等なものに腰掛けていた。闇の深淵から持ち帰ったかのような漆黒の髪を結い上げ、鋭く不純物の混じらないエメラルドの瞳は、使者に長々と挨拶する大臣へと向けられていた。彼女は、この国の第一王女であった。
「ふ……ぁ。」
また。これで何度あくびを噛み殺したことだろう、と思いながらも、必死でその目を開けていた。いよいよ敵国、ルクタシアの使者が前に出た。
『何を要求するつもりだ……?領土か?奴隷か?』
冷たい視線で使者を見つめていた彼女は、耳を疑うこととなる。ルクタシアの使者は前に進み出て、ゆっくりと羊皮紙を開いた。そして、大きく息を吸い込む。
「我らがルクタシア王は、以下のことを降伏の条件としてトリランタ国王に申しつける。一、ルクタシアと同盟を結ぶこと。二、ルクタシアに、余剰な作物から援助をすること。三……。」
そこで、使者が一度口をつぐんだ。
「早く続きを……。トリランタは、必ずやその条件を飲みましょう……。」
王が、少し顔を苦痛に歪めながらそう言った。彼は、歴戦の覇者だった。ところが、ルクタシアの王が変わってすぐに起きた領地をめぐる戦争で、彼は初めて敗北を喫したのである。その表情は、敗北の辛さを物語っていた。
「三、同盟の証として、トリランタの七王女の内、最も賢く美しい王女をルクタシア王妃として送ること。以上である。」
城内は騒然とした。並みいる群臣たちは、皆どの王女が最も美しいか囁き合った。
「はて、困りましたな……。我が王女たちは、皆それぞれに美しい。」
確かに、王の言う通りだった。この国の王には王子がいなかった。代わりに、七人の美しい王女がいたのだが……。七人が揃いも揃って美し過ぎるために、国民が美の女神の神罰が下るのでは、と密かに囁き合っていた程だ。
「しかし、賢さで言うならばやはり第一王女のリラでしょう。……ですが、彼女はトリランタの王位継承者です。いかがするべきか?」
今まで話していた使者の横にいた青年が口を開いた。
「それでは、リラ王女においでいただきましょう。王はもっとも賢く、美しい王女をお望みなのですから。」
顔を上げたその青年の瞳と、エメラルドの瞳が結ばれた。その時だった。彼女の体を、何か形容し難い戦慄が駆け抜けた。鼓動が一瞬で激しさを増し、体が震える……。二十歳そこそこの、黒い髪に不思議な青紫の瞳の青年……。
『こいつ、前にどこかで……?いや、そんなはずはない……。』
「ダメよ!私は認めないわ!」
王妃が、そう声を上げた。体をワナワナと震わせて、立ち上がる……。
「お母様、お気になさらないで下さい……。」
彼女も立ち上がって、その母を宥めに歩く……。
「私がルクタシアへ行けば、他に誰も苦労をしなくて済むんですから。こんなに良心的な条件を聞いたのは、初めてですよ。それに、他の妹たちはまだ子供。嫁がせるのはあまりにも不憫です……。」
「でも……。」
顔を覆って嘆く母親の肩を、白い手が包んだ。
「隣国ですよ?地の果てまで行く訳でもありませんし……。」
「でも、つい昨日まで戦争をしていた敵国なのよ?あなたがどんな目に遭うか……。」
その言葉には、笑って見せる。
「愛妾としてならそれもあり得たでしょう。しかし王妃として、と言っているのですから、何も起きませんよ。それに、同盟国出身の姫を恐ろしい目に遭わせるだなんて鬼畜にも劣るようなこと、まさかルクタシアの国王陛下もなさらないでしょう。」
使者に視線を当てる。もちろんでございますとも、という答えが返って来た。それで、彼女の父であるトリランタ国王は心を決めたようだ……。
「我が国では、第一王女のリラをルクタシア国王と婚姻させ、トリランタの王位継承権は剥奪とする。また、これを第二王女エレーヌに与えて今回の同盟に調印し、食料も余剰分よりの援助を行うこととする。」
彼女のルクタシアに向けての出発は一週間後と決まり、解散となった。自分の人生を変えるようなことが決まってしまったのに、実感がない……。自分の意志とは無関係に決まったからなのかもしれない。彼女だって、本当は見も知らぬ国に嫁ぐなど、したくはなかった。だが、王族として生まれてしまった以上はこれも仕方がないのだ。その時、後ろから彼女の肩に冷たい手がかけられた。
「お姉さま……大変なことになってしまわれましたね……。」
自分が敵国に嫁ぐことになったかのような、苦しげな物言い……。彼女に話しかけてきたのは、半年分だけ年下の腹違いの妹、第三王女のジュリアだった。彼女は年齢的には第二王女なのだが、母親の身分が低いために第三王女とされていた。銀青色の髪は、流れる水を思い起こさせる。
「ルクタシアに行かれる時には、お供をさせて下さいね。」
彼女はわざと明るくそう言って、リラを自分の部屋に招き入れた。彼女の部屋で一番目を引く物……。それは、彼女の枕元に安置されている水の宝玉だった。窓からの光で微妙な光の屈折を織りなして輝いているそれは、ジュリアが水と自由に話すことができる水の子である証拠となっていた。
『精霊の聖具か……。どこにあるのかしら?』
リラも同じく風の精霊と言葉を交わすことができる風の子だったが、彼女の手元には風の聖具、風の宝鏡はなかった。しかし、世界中のどこかで、かの聖具は必ず彼女に見つけられるのを待っているはずなのだ……。現にジュリアは水の宝玉を、世界一深いと言われるトリランタの湖、悲しみの湖で見つけて来たのだ。湖に幼い彼女が落ちた時には、もはや助かるまいと誰もが思っていた。しかし、彼女は戻ったのだ。精霊の導きで引き込まれた、湖の底から……。
『あ、リラの花、今年も咲いたのね……。』
ふと窓の外に目を向けた彼女は、庭園の一角にその視線を当てた。王宮にはいくつもの庭があり、その内の一つには一面にリラの花が植えられていた。彼女の名前は、この花から取ったものだ。彼女が生まれた日に、リラの木々は風の精霊たちが運んで来た春風で、一斉にその花を開いた。それを見た彼女の母が、そのまま彼女の名にしたという……。以来、彼女の誕生日には、必ずこの花が咲いていた。それは、今年も同じ……。彼女はやっと今日、十六になったばかりだった。エメラルドの瞳が、ぼうっと庭を眺める……。運命の扉が、すでに開かれていたことも知らずに……。
その頃、彼女に謎の戦慄を走らせた青年は、案内された部屋であちこちを見るともなく見回していた。荘厳質素をよしとするトリランタの城は、壮麗華美を大事とするルクタシア城とは大きく違っている。しかし、そんな城も何よりも華麗に見えるような美しい残像が、彼の脳裏にしっかりと焼き付けられていた。先程リラが感じたものと同じ、強い戦慄とともに……。彼は、あの感覚に覚えがあった。
『ちょうど、この時期だったはずだ……。』
彼の目には、いつの間にか過去の追想が映っていた……。
城の中は、暖炉の炎で暖かだった。部屋で一人、少年は本を読んでいた。まだたった三つのはずなのに、一人で……。彼の手の中でその目を奪っていた本は、隣国トリランタに伝わる古い伝承を書いた物だった。風の巫女が、雪の千年王国の運命からトリランタを救う、という話……。いよいよ風の巫女が精霊に歌をささげ、一面の銀世界だった大地が緑豊かに蘇ろうとしている時だった。
ピシッ!
突然の出来事に、少年は思わず本を取り落としてしまった。同時に浮かんだ言葉は、呑み込まれることなく少年の小さな口から飛び出した。
「……探さなくちゃ、探さなくちゃ!」
自分でも、叫んでからハッとした。一体自分は、何を探すというのだろうか……?ふと窓の外を見やると、先程まで降り続いていた雪がやみ、赤い夕陽がその身を地平に沈めていくのが少年の目に映った。まるで、少年を西へと誘うかのように……。
『そうだった、あの時だ……。』
先程の強い戦慄は、その時のものだった。
『そして、ようやく見つけた……。おそらく彼女が、僕の、探し物……。』
もう一度、彼女の顔を思い描く……。
『黒い絹糸の髪、真紅の唇。瞳の色は……エメラルド。いや、違う。深い海の、底の色……。』
最初モノクロだったその顔は、今は色鮮やかに彼の脳裏に映っている……。
後にして思えば、この日が、運命の日だったのかもしれない……。二人がそれに気付くのは、まだまだ先の話だが……。春風が、豊かな緑の上を渡って行った。
こんにちは、霜月璃音です。異国恋歌シリーズ第二弾、異国恋歌~風空の姫~の第一話をお届けいたします。ここまでお読み下さっている読者の皆様、本当にありがとうございます。今作は、前作に引き続いて主人公が姫という設定です。好きだなぁ、と自分でも思ってしまいます。
前作の印象からまだ抜け出せていないので、手探りの状態で書き始めてしまいましたが、なんとか軌道に乗せて行きたいと思っておりますので、どうぞお付き合い下さいませ。
私的なことで、もう一つ。前作を完結してしまったことになっていますが、どうしてももう一本書きたくてたまらないお話が出てきてしまいました。そういった場合はどうすれば良いでしょうか。どなたか、アドバイスをお願いします。
それでは、また次話でお会いしましょう。どうもありがとうございました。