推論風発 ①
最寄駅南口の中央広場は、地元では定番の待ち合わせスポットだが、二つの高校と一つの大学の最寄りである故か、恰好のナンパスポットでもある。
夏の長期休暇中かつ絶好の行楽日和である今日、出会いを求める学生たちの浮かれた気分は最高潮に達していた。
「ねえ君、一人?」
「友達待ってるの?」
「よかったら一緒にさあ」
少女漫画における王道の中の王道と思しきナンパの常套句を並べ立てる大学生の男二人に、一人の少女が挟まれている。絡まれているのはただの女子高生ではない。すれ違う者の目を惹きつけて離さない絶世の美少女だ。
毛先のウェーブがかった、柔らかそうな薄茶の長い髪、斜めに切り揃えられたスタイリッシュな前髪が、その美しい顔立ちを程よく可愛らしく見せている。色白の小さな顔に、一点だけ色付く艶やかな薄紅の唇。宝石のように透き通った大きな瞳を守るように伏せられた長い睫毛は、これでもかというほどに儚げで、まさに美少女という言葉の具現化のようだった。
「ちょっと、その子困ってるじゃないですか」
声をかけた少年はおそらく高校生だろう。健康的に日焼けした肌から、屋外で活動をする運動部に所属していることが伺える。
「大丈夫? 誰かと待ち合わせ?」
正義感のある行動に見えたが、彼女の方を向き直して明らかな気取った声でそう聞いた姿からして、結局は彼も烏丸に話しかける事が目的なのが見え見えである。
慣れないヒールサンダルに靴擦れを起こしていた姫ちゃんを広場に残して、コンビニに手土産用のお菓子を買いに行き、戻って来ると彼女は知らない男数名に囲まれていた。眺めていないで早く助けに行けと思われるかも知らないが、この状況で下手に出て行けば姫ちゃんの機嫌を損ないかねないので、仕方なく機会を伺うことにする。
ナンパ男達と少年が何か言い合いを始めたあたりで、烏丸は逸らしていた顔を上げて彼等をジッと見つめた。途端に彼等の視線が一点に集まる。
しかし、当の本人の口から紡がれた言葉は、その場の空気を一瞬で凍りつかせる。
「ふっ」
鈴の音のような上品で可愛らしい笑い声が響く。可愛らしいその笑顔に、哀れな男たちは何の可能性を期待したのか、だらしなく頬を緩めた。
「その程度で、この私の隣に立てるとでも? 笑わせないで」
しかしその口から飛び出したのは言わずもがな、彼女お得意の鋭利な罵声だ。明らかに自分より背の高い目の前の男を見下して、高圧的な態度で言い放った言葉に男達は揃って目を丸くした。
烏丸姫はこういった輩に声をかけられることには慣れきっていた。簡単に遇らう方法も心得ている。よし今だ。一気に冷え込んだその場の空気を敢えて読まずに、明るい声で割り込みに入った。
「姫ちゃん! ごめんね。思ったよりもレジが混んでて」
「あ? な、なんだ、彼氏待ってたの?」
「いいえ、彼氏じゃないです」
赤の他人といえど、姫ちゃんに不快な思いをさせまいと発した言葉は、どちらにしろ彼女のお気に召さなかったようで、その整った顔を盛大に蹙めた。不機嫌そうな表情すらも、最早芸術的な美しさを醸し出す。
男の一人が僕の手元を見て、小馬鹿にするように薄笑いを浮かべた。
「ああ、パシリか。こんなのと遊んでないで、俺らと来ない?」
「こっちの方が楽しいって」
多分、彼等は僕を少し小突けばビビって逃げて行くような気弱な奴だと思い込んでいる。姫ちゃんの反論を求める視線が痛い。直接の命令は勿論迷わず聞くが、彼女の無言の命令は僕の中では更に重要性が高い。
「そっちの方が楽しいかどうかは知らないですけど」
低姿勢が、イコール弱さとは限らないということを教えてやれ。ナンパ男達ではなく僕を睨む姫ちゃんの目がそう語りかけていた。
「僕はパシリじゃないですよ」
残念ながら、今日の僕たちは虫の居所が悪い。ここで足止めを食らう訳にはいかないし、彼女を連れて行かせる訳にはもっといかない。
「行かせません。他を当たってください」
目つきの悪さには定評のある僕が睨みつけるようにそう言うと、男は怪訝な顔をしたまま固まった。怯み切った彼等の間抜けな様子に満足したのか、姫ちゃんがスタスタと歩き始めた。靴擦れは大丈夫なのかと心配になったが、少し歩いて住宅街に差し掛かると違和感のある歩き方になったので、僕も合わせて歩幅を縮める。相変わらずプライドが高いというか、負けず嫌いというか。
「あ、お菓子、これで良かったかな。ええと、ワッフルと、なんかチョコレートっぽいやつ」
「なんでもいいでしょ」
袋の中に入っているのは、コンビニで販売していた洋菓子の詰め合わせだ。僕と彼女との連名で一つを購入する事になったので、少々高額な品物を手に入れて来た。出して確認しようとしたが、しっかりと包装されていることを思い出して中身を口で説明しようとするが、それは不毛だと姫ちゃんに諌められた。
「それより、もっと他に考えるべきことがある」
「うん」
難しい顔になった彼女につられて、空元気めいていた僕の気持ちも沈んだ。
一学期の最終日、いよいよ夏休みに突入という祝すべき日であった筈の昨日、猪木先輩がミス研の部室で首を吊った状態で発見された。終業式の後、昼食を終えて部室に向かう途中、部長の尋常ではない雄叫びのような悲鳴が聞こえて、ミス研の部員全員でパニック状態に陥った。
昨日までいつも通りだった人が死んだように動かない。人形のように力なくぶら下がって青白い顔をしている。僕は情けない事に腰を抜かしてしまい、手足が動かなかった。姫ちゃんのその時の様子すら覚えていないくらいに混乱していた。僕たちの悲鳴を聞いて駆けつけた先生達によって、救急車や警察が呼ばれ、迅速な対応があったお陰か、不幸中の幸いにも一命はとりとめたと昨夜連絡が回ってきた。現実では、テレビや小説で見るように、すぐに彼女を降ろしたり然るべきところに連絡したり、そんな余裕はないのだと思い知らされた。現実味のない光景を目の当たりにして、流れに身を任せて解散した僕たちを、今日になって牛月先輩が自宅に呼び集めた。何を意図してのことなのか、昨日の今日で猪木先輩の事件について以外に話すことなどないだろうが。第一発見者は牛月先輩だった。よりにもよって猪木先輩の恋人である、牛月先輩だったのだ。昨日の様子からして、相当のショックを受けているに違いないが、何故部員を招集する必要があったのか。考え込むふりをする反面、僕は心の底ではその理由に予想がついていた。
蝉が耳障りな声を上げて鳴いている。嫌な汗が肌を伝う夏休み初日、部長の家へ向かう僕と姫ちゃんの間に会話はほとんど無かった。
駅から徒歩五分、短いはずの道のりが暑さによる倦怠感で長々と感じて、やっと辿り着いた部長の家は、辺り犇めく住宅街の中でも一際広大な敷地を誇る立派な日本家屋だった。思わず二度見した木製の表札には、間違いなく牛月の文字がある。そう多い苗字ではないので、人違いということもなさそうだ。
和風建築に合わせてあまり機械的ではない見た目のインターホンを押すと、直ぐに牛月先輩が門を開けて出迎えてくれた。
日当たりの良い庭へ足を踏み入れると、縦格子に漆喰塗りの虫籠窓が趣のある母屋がすぐ目の前に構えていた。鹿威しの音や池の鯉が跳ねる音、ご家族の趣味だろうか、並べられた松の盆栽は詳しくない者でも見事な代物である事が分かる。手入れの行き届いた庭の敷石を踏んで、玄関ではなく母屋の縁側へ通された。
「随分大きなお宅ですね。何人家族なんですか?」
「三人家族、俺とじいちゃんとばあちゃん」
「ご両親は?」
「仕事で海外」
「海外、凄いですね」
部長に抱いていたイメージを悉く崩され、目を剥いた僕達を意にも介さず、牛月は縁の下に並べられた靴を横目で見る。
「そうか? それよりお前らで最後だ。麦茶でも持ってくるから座って待ってろ」
つられて目線をやると、そこには既に大きさの違う二足の靴が揃えられていた。
目の前の襖を開けると、十数畳程の広い和室の茶の間で犬山と兎林が寛いでいた。滅多に見る機会のないラフな私服姿が随分と新鮮に思えた。クーラーで温度の保たれた室内は、蒸し暑い外とは別世界のようだ。
「よお、一年ズ、相変わらず仲良しだな」
「いつも一緒だね」
用意された茶菓子をつまむ犬山と兎林が片手を上げて出迎える。目の前の机に置かれたグラスの中身が空だったので、割と早くから到着していたことが伺えた。待ち合わせの時間は十時、現在の時刻は九時五十分、ハプニングがあった割には余裕を持って着けたと思う。
「こんにちは」
「別にいつも一緒にいるわけじゃないです」
生き返るような思いで僕と姫ちゃんは隣り合ってそれぞれ座布団に座る。そこへ牛月が戻ってきたことにより五人で一つの四角い卓袱台を囲む形になった。袖に余裕のある赤いパーカーの裾を捲って、犬山は爪先が汚れなように慎重にぺりりと羊羹の包装紙を剥いていく。
「揃ったね。一応」
犬山の言葉に、保たれていた《《いつも通り》》は容易く皮を剥がれた。急に周りの酸素が減ってしまったような重苦しい感覚に襲われる。
その空気を身に纏うようにして、牛月が懐から一枚の小さな紙を取り出し、机の真ん中に置いた。
『私を殺したのは誰でしょう』
見覚えのある物騒な文章が紡がれたカードに、全員が驚きの声を上げた。
「な、盗ってきたんですか?」
「流石に現場の物を移動しちゃマズイですよ」
「いや、これは俺が書いた。これが分かるってことは、全員見たな? あれは間違いなく猪木の字だった」
滅多にない牛月部長の真面目な声に、いつも賑やかなミス研の面々も口を挟めない。
「察してると思うけど、今日は猪木の話をするために集まってもらった。昨日連絡した通り、猪木は一命を取り留めた。幸い生徒の中での目撃者は俺たちだけだ。学校はこの件を公にする気は無いらしい。今のところ警察は、猪木の自殺未遂との見解らしい」
「俺と部長は病院まで付き添ったから、警察の人に色々聞かれた。他の人にも口外しないでくれと伝えておくようにって」
便乗して、兎林が昨日の事件後の出来事の説明に補足を加えた。
「色々って、何をですか?」
「関連しそうな人間関係とか、事件前後の様子とか、特に何も答えられなかったけど」
部長は真剣な表情を崩さず、まだ手をつけていない自分のグラスを握りながら言う。
「俺は、猪木は自殺じゃないと思ってる。あいつはそんなことする奴じゃない」
「俺もそう思う」
兎林先輩の力強い頷きに、僕も、正面に座っている犬山先輩も眉を顰めて口を噤んだが、隣にいた姫ちゃんだけは持ち前の気丈さを発揮して発言した。
「なら、誰かが自殺に見せかけて猪木先輩を殺そうとしたと、部長はそうおっしゃるんですね?」
猪木先輩が殺されかけた。それはつまり、殺そうとした人間がいるという事だ。
クーラーの効いた室内にも関わらず、正座した足の上で握り締めた手が汗ばんで気持ちが悪い。
「昨日、猪木先輩を発見した時、部室の鍵は閉まっていました。二つある鍵の内、一つは現場の机の上に、もう一つは職員室のロッカーの中にあったそうです。部室の鍵の入ったロッカーの暗証番号を知っているのは部員だけです。それが、どういう意味か分かって言ってるんですか?」
部室の鍵を猪木が内側から閉めていた場合、何も不自然はない。しかし、もし猪木ではなく他の人間が外から鍵を閉め、職員室のロッカーに戻していた場合、それをした人間は限られる。
此方ヶ丘高校では、部活で使う部屋や準備室、教室など全ての部屋の鍵が、職員室内に設置された小分けのロッカーに収納され、それぞれの暗証番号は毎年変更するルールがある。どの部活も番号は極少数の関係者にしか知らせておらず、ミス研に至っては部員のみで鍵を管理している為、顧問ですら番号を知らない。(部設立の際に名前だけお借りしたお飾りの顧問だ。問題さえ起こさなければ他は任せると言われている。)
彼女の言葉の意味を一瞬で察した僕等は、言い様のない寒気に襲われて顔を蒼褪めさせた。
「それ、僕たちの中に」
「違う。もう一人いるんだ。俺たち以外に、ロッカーの番号を知っていたかもしれない人間が」
震える声で言おうとした言葉を遮って、兎林先輩が首を振った。
「まさか、先生達の中に犯人がいるだなんて言いませんよね」
教員は職員室のどこかにあるマスターキーを使えば、おそらく誰でもどのロッカーでも開くことが出来たはずだ。流石に有り得て欲しくない可能性の話だが、部員の中に犯人がいるなどという可能性よりは幾分かマシだ。
「部長、いいですか?」
兎林が牛月へアイコンタクトと共に声をかけ、何らかの了承を得る。
「ああ、ただその前に、お前らに伝えたいことがある。今から、俺は犯人探しをする。猪木は自殺ではないと断定して、捜査をする」
言葉を失うのは今日で何度目だろう。心臓が負荷に耐えかねて麻痺してしまいそうだ。
「呆れた」
シンとしたその場に、溜息交じりの冷たい声が響く。強い侮蔑を含むその声に、僕は焦って彼女の名を呼んで制止しようとしたが、盛大に顰められた眉元と牛月部長から目を逸らさないその様子見るに、徒労に終わりそうな予感がしたので思い留まった。
「あんたのミステリーマニアにもついていけませんよ。これは実際に起こった事件なんですよ? 不謹慎にも程があります。自分の彼女が死にかけたっていうのに、探偵ごっこ? 猪木先輩が可哀想です。最低です。見損ないました」
彼女の性格を知り尽くした僕の予感は外れる事なく、冷静に昂ぶった怒りを貯蓄していた彼女は普段よりも饒舌に部長を罵った。決してヒステリックではないが、事実と主観を上手く交えた彼女の主張は着実に相手の心を削り取る。
いつもの部長なら、ここで感情的になって喧嘩になる姿が目に見えていたので、兎林先輩と僕は思わず立ち上がって諌めようとした。しかしそこに居たのは、いつもの部長ではなかったのだ。
「烏丸、聞いてくれ。俺はこれを猪木の遺書だとは思っていない」
そう訴えかける彼の瞳に見え隠れしている感情は一体なんなのだろう。悲しみにしてはあまりにも深く、怒りにしては落ち着き過ぎている。何かを責めているようにも、後悔しているようにも見える不安定な部長の様子に僕は何も口を挟めなかった。
この日常と乖離した雰囲気の面々の中で、姫ちゃんも混乱しているのかもしれない。彼女は引くに引けない面持ちで、わざとらしく嘲笑した。
「そりゃあ、自殺じゃないって話ならそうなりますよね」
「え? じゃあ、これは何?」
明らかに猪木先輩によって書かれた例のメッセージが、遺書でないとすれば一体なんなのだろう。そもそもこれは誰に向けて語られた言葉なのか。考えれば考えるほど疑問点は増えるばかりだったが、議題さえ出れば、普段から討論会を行っているミス研の部員たちは、条件反射のように自然と意見を出し始める。
「誰かが自殺に見せかける為にした工作とか。ミステリーの定石って感じで、あんまり現実味がないけど」
顎に手を当てて唸る兎林先輩は、あくまで犯人がいるという前提で考えているようだ。部長に言いくるめられたというわけではなさそうだが、何か他に理由がありそうにも見える。
「でもそれって、結局遺書。偽物でも本物でも、こんな文章にはしない」
犬山先輩は今のところ、自殺と他殺どちらにも針は触れていない中立的な考え方のようだが、兎林先輩の意見に合わせて行動しそうだ。
「確かに。遺書なら、もっと分かりやすく、自殺の理由とか、遺族への言葉とかってイメージですよね」
僕は姫ちゃんと同じく自殺の線を推したいのだが、遺書の存在が話をややこしくしている。部長と兎林先輩が警察の調べを疑ってまで、僕たちの手で捜査をしようとする理由もこの遺書紛いのカードにあるようだ。
一呼吸置いて、牛月が厳かに告げた。
「これは、猪木のダイイングメッセージだと思う。猪木は脅されて無理やり首をつらされた」
「そんな、非現実的です」
「そうでもなければ、この紙の説明がつかない。俺は、猪木が、俺たちに真実を知って欲しがっているような、そんな気がしてならない」
普段通りとは程遠い、歯切れの悪い牛月の言葉に、やはり今回の件に一番動揺しているのは彼なのだと知らしめられた。
誰かに語りかけるような口調のカードが、僕たちへ向けられた救命のサインだったとすれば、違和感溢れる遺書というよりも納得はいく。
普通の人間が見ればただの遺書、しかしミス研の人間が違和感を覚えてその探究心を発揮するには十分な材料であり、猪木先輩がそれを狙ったとしてもおかしくはない。何より、部長の性格をよく知っている彼女だからこそ、こんな不可思議な方法で助けを求めたのかもしれない。
状況を見れば、警察ですら猪木先輩の自殺の可能性を推す、それなのに部長達は猪木先輩を信じている。何が正しくて、何が間違っているのか。一体僕はどうすれば良いのか。誰の意見に賛成すれば良いのか。混乱に混乱を重ね、判断能力が乏しくなり始める。
「私は、猪木先輩の自殺の可能性が高いと思います」
また、彼女の強い意志を持った声が響いた。