SIDE 部長
一年前、高校二年の七月の始め、人づてに呼び出しをくらった俺は、人気のない旧校舎の庭で、ミス研の先輩から託された知恵の輪に悩まされていた。複雑に捻れた金属の塊は、ほんの少しだけズレたと思いきやすぐに元の位置に戻ってしまう。
硬くて細い花壇の淵に座っていたので、尻が痛くなってしまった。四つに割れたら大変なので、知恵の輪をポケットに突っ込んで立ち上がり、生い茂る青々とした草花を足で踏みながら、整備されていない雑然とした地面をウロウロとして、まだ来る気配のない待ち人のことを考えてみる。
俺の中の校舎裏のイメージといえば、心霊スポット、タイムカプセルを埋める場所、背後から襲われる、上から何かが落ちて来る。ミステリーマニアの想像は膨らむばかりだ。
程なくして彼女はやってきた。結局解けることのなかった知恵の輪は再度ズボンのポケットに押し込んで、俺から少し距離を開けて立ち止まった彼女の方を向き直した。
俺が用件を訪ねる前に、彼女は予め用意していたのであろう言葉の羅列を読み上げるように一息で言い切った。
「突然の呼び出しに応じて頂きありがとうございます。自分は一年二組の猪木明と申します。先日は危ないところを助けて頂き、どうもありがとうございました」
「え?」
綺麗に伸びた背筋を崩すことなく、腰を曲げてお手本のような丁寧なお辞儀をした猪木に、呆気にとられた俺は思わず情けない声を出してしまった。
女子にしては長身で肩幅も広いが、俺のようなガタイのいい男と比べるとやはり華奢で、凛々しい切れ長の目にかかる睫毛はとても長く、形の良い眉は一見すると気難しそうに見えるが、顔のパーツの一つ一つが絶妙なバランスを保ち、可愛らしさよりも大人っぽさが目立つ妖艶な雰囲気すら感じさせる美麗な顔立ちの少女だった。
一度目は一瞬しか顔を合わせなかったが、改めて正面から見つめると、彼女の洗練された美しい容姿には感嘆すら覚える。
一目惚れならぬ、二目惚れというやつだった。
息を飲んで見惚れていると、彼女は俺が先月の件を覚えていないと思ったのか、丁寧に捕捉してくれた。
そのまま一言二言交わすと、どうやらわざわざその件の礼を言いに来てくれたようだ。
真面目で律儀、顔も性格も良い子だと人格にも好印象を抱いていたところで、彼女の口から予想だにしていなかった言葉が出て来た。
「貴方に私を好きになって頂きたいので」
それは顔を赤らめることすらせずに堂々と告げられた。
淡々とし過ぎた告白に、俺は何故か心臓が爆発しそうなほどに興奮したのだ。
テンションが上がりに上がって、その後は何を口走ったのか覚えていないが、殆ど二つ返事で交際を始めたと思う。
その後も何も考えず、俺は浮かれた衝動に身を任せて気持ちを口に出していた。
大輪の花が咲く瞬間を見たら、こんな感動を覚えるのだろうか。
満面の笑みというほどの大きな変化はない。
それでも口元を綻ばせて、ほんのりと桜色に染まった頬と、細められた黒曜色の目が、俺の心と意識を掴んで離さなかった。
全身の血液が沸騰して、早鐘を打つ鼓動が猪木まで聞こえてしまいそうだ。
好きだ。
俺は彼女を心から愛おしく想った。
その時知った感情は、少し時を経た今でも変わることはなく、俺の心の隙間を埋めていた。
付き合う前よりなんとなく空気が美味しくて、毎朝学校へと進める歩がちょっと速くなって、日々の幸福度が上がった気がする。未知の大発見である。恋愛というものは、なんてミステリーチックで魅力的なんだ。
「先輩の名前って、ただしではなく、すなおと読むんですね」
付き合い始めてしばらく経った頃、猪木にそう指摘されたことがある。段々と距離感も掴めて来て、自分の話やその日の出来事を報告し合ったり、一緒に帰宅するようになっていた。
「おう。爺ちゃんがつけたんだ。文字通り素直とか、真心とか誠意って意味があるらしいぞ」
「名は体を表すと言いますが、ここまでの人は初めて見ました」
相変わらずの真顔だが、大好きな祖父が付けた自分の名前をそんな風に褒められて悪い気はしない。
「そうか? 明ってどういう意味だ? 明るい?」
「はい。自分らしくはないかもしれません」
「すげえ! ぴったりじゃん!」
「そうですか? あまり明朗快活な性格ではないと思うのですが」
「性格っていうか、空気?」
確かに彼女は活発ではない。
けれど俺はしばらく彼女を見ている内に、確かに明るいという印象を受けた。それはとても形容し難い、強いて言うなら彼女の纏う独特の雰囲気に照らされているような感覚で、不思議そうに首を傾げた猪木にどうにか伝えようとする。
「煌々とした明るさっていうか、お前の周りっていつも人がいっぱいで、みんな楽しそうだろ? それを見ていると、なんか眩しいなって思う」
少しだけ表情筋を動かした彼女は、俺の言わんとしたことが伝わったのか、「馬鹿な人ですね」と前を向き直して少しだけ微笑んでくれた。
三年生になって進路と共に将来を具体的に想像した時、俺は二人でずっと一緒に居る未来を願った。
先を見据えて行動ができる猪木は、年下とはいえ俺の何倍も色んな事を考え、様々な可能性を夢想するだろう。それでも、彼女は選んでくれると信じている。迷う事なく俺に想いを告げてくれた彼女なら、馬鹿正直だけが取り柄の俺を選んでくれる。
彼女と俺との二人で生きる未来、はっきりと見えたそのビジョンに、俺は何の疑いも抱いてはいなかった。
「猪木」
それなのに何故、猪木は動かない。目を開かない。俺の声に応えない。
彼女の決して豊かではない表情を、ちゃんと読み取れるようになった筈なのに、俺には今、彼女の端正な顔からは何の感情も伝わってこない。
窓際の天井のダクトに捻れた布が巻かれ、部室の中央の天井に固定されたスクリーン用のカギ状の釘に引っかけられた縄と固く結ばれていた。その先にぶら下がるように宙を浮いた彼女が現実の世界の存在だと信じられるまでに、俺はどれだけの時間静止していたのだろう。
やっと足が動いた時、目の前にある机の上の、猪木の足元に晒されるように置かれた紙に気がついた。
『私を殺したのは誰でしょう』
すっかり見慣れた、猪木の丁寧な筆跡だった。
猪木、お前は何を伝えようとしたんだ。
俺はお前の言う通りちょっと馬鹿な奴だから、言ってくれなきゃ分かんねえよ。
咆哮の如き叫び声に、校舎中から人が集まって来た。
俺はただただ泣き叫んでいた。猪木に触れることもできず、誰かを呼ぶこともできず、冷静さなどカケラもなく、現実を受け入れられずにいた。
いつか事件に遭遇したら、名探偵やベテラン刑事の如く颯爽と捜査して解決してやる。そう豪語していた俺は、なんて考えなしだったのだろう。
俺の中で、神様は皮肉げに笑った。お前の大好きなミステリーだぞって、ケラケラと笑っていた。
恐ろしい事に、その神様は猪木そっくりの姿をしていた。