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心外不出 ⑤

 此方ヶ丘団地の二十二番他、帰宅した俺を襲った怒涛の家事の山のおかげで、余計な思考はすっかり吹き飛んでいた。帰宅の遅い共働きの父と母の代わりに、家の仕事は俺の役目だ。自炊はいつか来る自立へ向けて、趣味の一環と思って研究している。共働きの時代だ。料理男子は珍しくないだろう。

 弟たちの世話に、洗濯に、料理に、掃除、頭を他の事で一杯にでもしなければ、俺はとても“普通”でいられる自信がなかった。あれだけ望んだ非日常がこんな最悪な形で訪れるなんて、神様はなんて意地悪なんだろう。

「にいちゃんでんわ!」

 狭い家に鳴り響いた電話の音に、末の弟が大袈裟な声を上げて俺を呼んだ。

「はいはい! お前らガスに近づくなよ」

「はーい」

「へーい」

 てきとうに聞き流しているとしか思えない雑な返事に、本当に分かってんのかなと呟きながら四コール目で受話器を取った。

「はい、もしもし」

『もしもし、犬山です。兎林さんの御宅ですか?』

 機械越しとはいえ、聞き覚えのある遠慮がちな声は、間違いなく犬山の母親のものだ。

「はい。大和です。お久しぶりです」

『大和君、遅くにごめんなさいね。あの子そちらにお邪魔していない?』

「いえ、夕方までは一緒にいましたけど、あいつ先に帰りましたよ」

『ああもう、晃紀ったらどこにいっちゃったのかしら』

 犬山の母親の口ぶりに不安を感じていたが、心配そうにそう呟いた彼女に、俺は大きな声を出してしまう。

「帰って来てないんですか?!」

『そうなの、心当たりある?』

「いくつかあるんで、俺、探しに行きます」

『あ、ちょっと大和君!』

 乱暴に受話器を置いて、エプロンを床に脱ぎ捨てたまま鍵も閉めずに家を飛び出した。

 あんなに様子がおかしかったのに、真っ直ぐ家に帰らないで、一体どこへ行ったんだ。

 牛月部長の推理が頭を過る。同時に、部室で猪木を見つけた時のことを思い出してしまった。嫌な予感を振り払うようにして首を振り、俺は夜の町へ向けて走った。


 時は少し遡る。数時間前、辰巳家での出来事だ。

「ただいま」

 靴を玄関の端に脱ぎ捨て、足で軽く位置を整える。泣き腫らした目元を家族に見られまいと、二階の自分の部屋まで急いで行こうとしたが、いつもは出迎えたりしない母が今日に限ってリビングからひょっこりと顔を出した。

「お帰り光臣〜なんか変な手紙来てたけど、ミス研でまたなんか面白そうな事してるの?」

 呑気で間延びした独特の口調で、母は僕に話しかけてくる。

 しかし、俯いたまますれ違うことに成功したので、ギリギリ顔を見られずに済んだようだ。階段を駆け上がる途中、母の言葉が引っ掛かった。

「手紙?」

「机の上に置いといたから〜」

 振り返らずに聞くと、母は既にリビングのテレビに夢中のようで、こちらには興味を向けずにそう言い放った。手紙を受け取るような心当たりはない。


『午の子は二人、*と亥』


 案の定、犬山先輩と猫羽夜空の家に届いた封筒と同じ物が、文面だけ異なる状態で俺の机の上に置かれていた。

 母め、人の手紙の中身を勝手に見るな。

 文句を心中で昇華して、ハッとして携帯を取り出す。

「これまさか、姫ちゃんのところにも」

 メッセージを送ると、彼女もちょうど家に着いたところで、ポストの中には目ぼしいものは何もなかったと言う。全員に対して送られているわけではないようだ。

 牛月部長に報告のメールを送り、汗でビショビショになって乾いたワイシャツを脱いで着替え始めた。スウェット姿になったところで、一階からの母の呼びかけが聞こえて扉を開けた。

「あんた泣いたの〜?」

 見られてた!?


 *****


 駅、ファストフード店、漫画喫茶、公園、ロンド、学校、少しでも思い当たる場所は全て探した。しかし全てハズレだった。犬山の影はどこにもない。勇気を出して、公園に屯していた不良たちに犬山の特徴を伝えて聞いてみたが、本当に知らない様子で首を振られた。それどころか熱帯夜に走り回って汗だくの俺を見て心配した舌にピアスのあいたモヒカンのヤンキーは、まだ開けていないミネラルウォーターを譲ってくれた。ヤンキーとは友達になれないと思っていたが、いつかまた会うことがあったらあいつにはまた勇気を出して礼を言おうと思った。

「ちくしょう! どこに行ったんだ」

 手掛かりすら掴めないもどかしさと暑さに苛立って電柱を殴りつけると、貧弱な俺の拳には擦り傷ができた。失敗した。家事をする時、地味に痛みそうだ。

 一旦冷静になり、家族に連絡を取ろうとしたが、スマホも持たずに家を出てきたことを思い出して後悔する。

 体力の限界を迎えた状態で登る自宅の階段が途方もなく長く感じた。

「兄貴、お客さん来てるぞ」

「は? こんな時に誰」

 自分のものとは思えないなんとも言えない草臥れた声が出た。俺と対照的に元気の有り余る弟たちが、ドアから首を出してテンションマックスで叫んだ。

「犬のお兄ちゃん!」

「大和兄のお友達!」

 何を言いだすんだこいつらは…………

「はあ?!」

 慌てて家の中に入り、自室の扉を開けるがそこには誰もいない。一瞬、あいつらにからかわれたのかと思って頭にきたが、クローゼットの手前に放置していた通販の段ボール箱の中から、跳ねた茶色の毛が飛び出しているのに気がついた。怒りを通り越して呆れた。というか、安心で力が抜けて俺はその場に座り込んだ。

「何やってんだお前」

 狭い段ボール箱の中で体育座りをして縮こまるその姿は、まるで捨てられた子犬のようだと思った。

「捨て犬ごっこ」

 本人も思っているそうだ。

「人んちの中でか」

「ごめん。探してくれてた?」

「熱中症五秒前、着替えるから取り敢えずそこから出てそっち座ってろ」

「ごめん」

 水でも被ったかのようなびちゃびちゃのシャツを脱ぎ、丁度いいやと段ボールの中へぶち込む。上半身裸のまま着替えを探している時、ふと犬山の様子を伺うと、彼は床の真ん中に座り込んで茶色いなにかを両手で大事そうに抱えていた。

「それ、例の封筒か?」

「そう」

「見せてくれる気になったのか?」

 見つけ出した新しいティーシャツをかぶって、犬山の隣にあぐらをかく。

「ごめん。それは駄目、猪木との約束だから。でも、話せることは全部話す。大和は俺を信じてくれたから」

 なるほど、こいつは俺を試したんだなと合点がいった。まんまと振り回された自分が情けなくて、深い溜息が漏れた。

「当たり前だろ」

「ごめん」

「お前、さっきからそればっか」

 いい加減しつこいぞといつもの調子で叱ろうとしたが、言いかけて犬山の目に浮かんでいるものに気づいた。

「ごめんなさい」

 犬山は俺の服の裾をぎゅっと握って頭を擦り付けた。

「ごめんなさい。ずっと言えなくて、俺、みんなを裏切って、隠してて、酷いことして、逃げて、信じてもらう資格なんてない。大和と、友達じゃなくなっちゃうかもしれない」

 ひっくひっくと嗚咽を漏らしながら、涙を堪えて謝り続ける犬山の頭を抱きこんで肩に押し付ける。着替えたばかりだというのに、これではまた濡れてしまうなと、ちょっとだけ後悔した。

「犬山、俺はお前を疑わない。お前が親友だからだ。どんなに罪悪感があっても、どんなに怖くても、そこは疑うな」

 犬山は俺の言葉に、首を目一杯上下に動かして頷く。

「馬鹿だな。こんな泣き虫な癖に、お前が人を傷つけられるわけがないだろ」

 さて、手のかかる親友を慰めたら、推理の続きを始めよう。


 その夜、結局泊まる事になった大和がくれた兎林家の夕食の残り物の炒飯の味は、びっくりするくらいに美味しかった。

 猪木と父親、事件の日に俺が犯した罪、俺の知っている事の全てを大和に話した。

「もう隠し事はないな」

 訝しげに睨んでくる大和に、後ろめたいもう一つの隠し事を思い出す。これは言ったら不味いかな、と思ったが、大和になら言ってもいいかなと思えた。

「もう一個」

「なんだよ」

 まだあんのか、と言いたげな大和の油断しきった表情が、これを言ったら忽ち凄い事になるんだろうなと想像して、少し笑えた。

 一呼吸おいて、今まで誰にも言えなかった俺の最大の秘密を教えてあげた。

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