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心外不出 ③

 此方ヶ丘高校文化祭、通称コナ祭。誰が付けたかも分からないちょっぴりダサいネーミングは、先輩から後輩へ受け継がれ続け、今年もその呼び方は変わる事なく妙な愛着を持って使用されている。

 一日目の午前中、祭特有の喧騒と人混みの中、壁や天井に飾られた手作りの内装を壊してしまわないように注意を払って目的の教室へ向かう。自分のクラスからそこへの道中で、他のクラスの友人たちの屋台で買い食いをしたり、頼まれ物を運んだりで、限られた時間が随分と減ってしまった。

 やっとの事で辿り着いた彼女のクラスの入り口には、派手で毳毳しいショッキングピンクのハートの布地に「おもてなし」と刺繍された暖簾が飾られていた。中を覗き込むと、すぐ近くの席で丁度接客を終えた猪木の姿が見えた。

「よお! アッキー!」

「忠さん、御自分のクラスはどうされたんですか」

 驚いて振り返った猪木の声に反応して、興奮気味な甲高い声が聞こえて来る。

「誰?」

「え! 明の彼氏?」

「やば!」

 白と黒のフリルスカートとエプロンを各自でアレンジしたらしい、各々のデザインが少しずつ異なる可愛らしいメイド服を身に纏う女子と、白手袋に燕尾服姿の執事に扮した男子が、豪奢な店内を歩き回って接客をしている。

「今休憩中、遊びに来た!」

「それは、わざわざご足労頂き、どうもありがとうございます」

 出し物のマニュアルがあるのか、手を前と後ろに当てて深くお辞儀をする猪木は、文化祭でも浮かれた様子は一切見せない。

「おう! ここなんだ? 喫茶店?」

「執事アンドメイド喫茶です。衣装は全て手作りで、メニューもレシピから考えられています」

「おーすげえ! 似合ってんな! でも、なんで猪木だけタキシードなんだ?」

 タキシードと燕尾服の違いを知らない牛月が大声でそういうと、少し離れたところから様子を伺っていた女子たちが猪木の周りに集まって来た。

「こっちの方が格好良いじゃないですか!」

「明はうちのクラスが誇るイケメンですから!」

 長身で脚の長い猪木に黒い燕尾服は良く似合っていて、男子顔負けの壮麗な立ち振る舞いで、文化祭はまだ始まったばかりだが、彼女につられてやって来る女性客が後をたたない。本人の意図せぬところで、クラス企画の看板を背負っているとも言える働きをしている。

 目を輝かせてうっとりと語り出す女子たちに、牛月は首を傾ける。

「猪木は女子だろ?」

 格好良いもイケメンも、褒め言葉ではあるが女の子に対して使う単語ではないのではないか、という純粋な疑問を素直に口に出しただけだったのだが、女子たちはまるでこちらがおかしいとでも言うように怪訝な顔を向けて来る。

「いやそうなんですけど、そうじゃなくて」

「普通に考えて、明は可愛い系より格好良い系の方が似合うじゃないですか」

「みんなで話して、こっちの方がいいって話になってぇ」

「猪木がそう言ったのか?」

 置き去りにされた当事者である猪木は、牛月の圧が増したのを感じて訳もわからないまま不味いと感じた。猪木自身、着慣れないあのガーリーな装いには抵抗があったし、愛想の良くない自分が接客で役に立てるだけマシだと思っていた。

 一方で牛月は、猪木が自分の中性的な容姿をどこか諦めてしまっている事を知っているので、彼女の意思を無視した勝手な強制をしている女子たちに多少の苛立ちを感じていた。

「い、いえ、そうじゃないですけど」

「他の女子はみんなかぁいい服なのに、一人だけ違うの、なんか仲間外れみたいで俺なら嫌だぞ」

 とうとう周りの目を気にせずに説教を始める牛月を制止する方法が分からず戸惑う猪木の背後に、彼女よりも更に上背のある男が立った。

「サイズがなかったんですよ。彼女、他の女子より身長が高いから」

 メニュー表と銀の盆を抱え、仲裁に入ったバーテンダー風の衣装の男子こそ、猫羽夜空だった。

 午前と午後で別れたシフトは、交代する際に衣装も受け渡して共有する事になっている。同じ大きさの服を着れる女子がいない猪木は、どちらにしろ燕尾服一択だったのだ。

「猫羽君」

 天の助けとばかりに目を潤ませる女子たちにニコリと笑顔を向けて、牛月と猪木の背中を押した。

「いいじゃないですか。似合っているんですから、それよりどうぞ、猪木もそろそろ休憩時間ですし、ご一緒に」

 いつのまにか用意されていた窓際の二人席に案内され、結局牛月は自分のクラスの休憩時間を過ぎて大目玉を食らったのだった。




 ***


 まだ夕食には早い時間帯だからか、ロンドの店内に他の客の影は見えず、ドアベルは仕事をする事なく、緑に縁取られた木製の扉に寂しくぶら下がっている。閑散とした雰囲気に店主が動じる様子もなく、意外と繁盛はしていないのかなと不思議に思った。店の前の道路から、幅の広い階段を降りた場所に入り口がある為、道から店内の様子を伺う事のできない造りになっている。同様に、内からも外の様子を見ることはできないどこか閉鎖的な空間が、場末のバーのような隠れ家的魅力を醸し出している。

 古いオーディオから流れ出す音楽は曲調を変えて、今度はピアノの主旋律とフルートの副旋律のハーモニー、名前も知らない曲の耳に残る演奏はクラシックは教養のない俺の眠気をみだりに誘う。

「話を聞く限りだと、なんか良い人そう」

 牛月の話を聞き終えた犬山は、デザートのチーズケーキを小さなフォークで一口大に切る。駅前のケーキ屋で見かけるような本格的な見た目ではないが、柔らかそうな生地がしっとりした手作り感の溢れる美味そうな一品だった。

 牛月の話に出た猫羽という少年は、揉め事の仲裁を進んだ引き受けるようなお人好しな性格で、そのクラスの中でも抜きん出た特徴はない影の薄い優等生に見えたそうだ。

 実際に病院で会った爽やかながらも刺々しい彼とは丸切り別人の話を聞いているようだった。

「だよなあ、俺ちょっとキレそうだったから、止めてくれてよかった気がするし」

「自覚はあったんですか」

 しみじみと懐かしそうに苦笑して、牛月部長はおかわりした二杯目の珈琲を今度はブラックのままで味わう。

「まあ、女子たちも悪気があるってわけじゃないから、猪木がいいなら今はもう怒らないと思うけど」

「猪木、人気あるからなあ」

 彼女の友人たちに悪気はなく、良かれと思ってした事だったのだろう。コンプレックスというものは他人の目からは見えにくく、人は無意識のうちに悪意のない刃を傷口に触れさせてしまう。傷をえぐられた人間は、その刃を黙って受け入れるしかできないのだ。

 俺は普通な奴だと言われるが、普通の定義は曖昧で、良い意味とも悪い意味とも取れてしまう。俺は刃を意識して操ることのできない人間なのであろう。

 しかし俺の周りには、切っ先を無作為に振り回す人間やら、自ら刃に身を捧げて他人を守ろうとする人間やら、果ては刃を持たない人間すら存在している。猪木の側には、彼女を理解して、刃を突き返す勇気を持つ人がいたのだ。奇異で特殊な、まるで普通とはかけ離れたこの場所なら、俺は普通のままで良いとも思える。

 引き続き事件についての討論会の始まった。五時のチャイムが遠くで流れる音がした頃、いつのまにかカウンター席で店主と話し込んでいた客が唐突にこちらに話し掛けてきた。

「あれ、辰巳じゃん」

 真っ赤に染め上げた派手極まりない頭髪の少年は椅子から軽快に飛び降りた。隣に座っていたチャラチャラした服装の少年が、スマホを弄る手を止めて駆け寄ってくる。

「あっ、烏丸ちゃんもいる!」

「げ」

「蔑みの眼差し!」

 躊躇なく嫌悪感を露わにし、聞いた事もない声で椅子ごと一歩遠ざかった烏丸に思い切り睨まれたというのに、寧ろ満面の笑みを浮かべて喜ぶチャラ男に若干の恐怖を覚えた。ドン引きして何も言えない俺たちを他所に、辰巳は珍しく砕けた口調で二人に話しかける。

「わ、何してんの。偶然じゃん」

 一年三組出席番号三十三番、山田羊助やまだ ようすけ

 同じく一年三組一番の現原赤暮うつつばら あかくれ

 烏丸のクラスメイトであると同時に、辰巳が普段よく行動を共にする友人である。同性である辰巳との方が交流が深く、山田は烏丸の数少ない異性の友人であった。(本人は認めていないが、辰巳はそう認識している。)

「偶然っていうか、ここ俺の家なんだけど」

「マジで? 知らなかった」

「親が経営してるんだよ。俺もたまに手伝ってる」

 あれ親父、と赤暮が顎で示した方向には軽い会釈をする店主の姿があった。

「へえ」

「猫羽って聞こえた気がするけど、夜空さんがどうかしたのか?」

「え、知り合いなの?」

 赤暮はつり目型の丸い苛烈な瞳をきょとんとさせた。

「言ってなかったか? 俺、一応あの人の舎弟だぜ?」

「舎弟?!」

 彼自身は見ての通り町によくいる不良の一人であるのだが、特に珍しい事でもないので辰巳はその事実を黙認した上で付き合っていた。兄貴と呼び慕う人が上の学年に存在している事も話には聞いていたが、まさかそれが猫羽と関わりがあるだなんて夢にも思っていなかった。

「あの人、めっちゃ喧嘩強えし、情報通だし、この辺の不良を全員取りまとめてるすげえ人なんだ」

 彼についての情報が増えるたびに、流れに逆らって彼が何者なのかが掴めなくなっていく。聞いた話を総合しても、対極の特徴すら浮かぶ矛盾が更なる混迷を招いてしまう。

「また印象が変わったな」

「赤暮、そいつ部活は?」

「帰宅部ですけど」

「学校には来なそうだな」

「部活がなければ、学校に来る用事なんてそうそうないですからね」

「何々、何の話?」

 全良で軟派な高校生男子である山田は、この場における唯一の部外者であり、話についていけないのも当然だが、今は説明をする時間も惜しいと放置される。

「あ、ミカちゃんから返信来た!」

 しかし、メンタルだけが取り柄の山田、疎外感に打ちのめされるほどの繊細な神経は持ち合わせていなかった。

「夜空さんに会いたいなら、家がすぐそこですよ?」

 赤暮は空いていた隣の席の椅子を引き、背もたれを前にして跨がった。

「いや、流石に急に家に押しかけるのは気が引ける」

「平気っすよ。基本鍵も空いてるし、あの人夜行性なんで、今から行けば絶対邸内にはいます。ご家族は本館に住んでて、夜空さんは別館で暮らしてるんで、家の人と鉢合わせることもないっす。お手伝いさんはいますけど。あ、麓の小屋は仲間の溜まり場になってるんで、避けて正面玄関に回って下さい」

 饒舌な赤暮の説明を、俺はぽかんと口を開けたまま受け取ったが、いまいち聞き慣れない単語がいくつか出て来たことによる混乱が隠しきれない。

「家ってまさか、あの“城”?」

 烏丸が顔をひきつらせる。

「そのまさか」

 赤暮は得意げに頷く。

 城というのは、此方ヶ丘の都市伝説の一つにもなっている実在する建物の事だ。此方ヶ丘の地図の北東を覆っている、森林の豊かな立ち入り禁止の山の中にポツンと建てられた大きな建物。人喰い魔女が住んでいるとか、化学者が日夜違法な研究を行っている施設だとか、誰が言い出したのかもわからない作り話ばかりが横行している。高台から更に上に見えるその場所に、本当に足を踏み入れた者は誰もいない。

「あの山、丸ごと私有地なんっすよ」

 ミス研でも取り上げたことのある都市伝説のスポットの謎が、たった今意図せず解けてしまった。俺たちが以前出した、没落して故郷を離れた英国貴族の末裔が住んでいるという結論は、あながち間違っていないのだろうか。




 *****


 山の麓にある緑地公園のすぐ横に、赤暮が言った通り、車一台は優に通れる程の大仰な門に、園城と猫羽という二つの高級感溢れる大理石の表札があった。牛月部長の身長よりも大分大きな門の横には、赤暮がそこから入るようにと指示した職員用の勝手口のような扉があった。不用心な事に、その扉には本当に鍵がかかっておらず、簡単に俺たちの侵入を許してしまった。

 門の奥には更に道路が続いており、広大な山の自然に四方を囲まれている。これが全て私有地というのは俄かに信じがたいが、実際に俺たち以外に周りを通る人間は誰もいなかった。

「本当に大丈夫なんですかね。不法侵入とかになりません?」

 烏丸の不安は尤もだが、今は赤暮と山田を信じる他に夜空に会う方法はない。日が伸びているのでまだあたりは明るいが、夜に街灯のない山道などうろつけば本気で遭難しかねない。

「一つ気掛かりなのは、《《少し歩けば》》屋敷が見えてくるからって言った赤暮が、体力馬鹿で人の五倍は動ける超人だって事ですね」

「不安を煽るんじゃない」

 十分前後、道沿いに歩き続けて、やっと建物の屋根が見えてきた。日が沈み始め、黄昏に染まる屋敷は、ヨーロッパの古城を彷彿とさせる迫力のある西洋建築で、正面から眺めると芸術的な左右対称のシンメトリー設計となっている。感動の声を上げながら屋敷へ近付くと、両開きの玄関の前に、使用人と思わしき風貌の老婆が佇んでいた。

「ようこそ、園城邸へ」

 嗄れた声で歓迎され、俺たちは導かれるまま、恐る恐るその中へ進んだ。汗だくの俺たちに、男性の使用人が気を利かせて真っ白な新品のタオルを配ってくれたのには驚いた。

 階段へ続く赤い絨毯、素人目に見てもその価値が分かる繊細な調度品の数々、少ないが訓練された使用人たち、ここは最早家ではなく城だ。テレビの奥に見た中世ヨーロッパの貴族の暮らしを再現しているようで、どこぞのテーマパークに遊びに来たようなテンションの上がり具合で、キョロキョロと周りを見回してしまう。

 犬山は借りて来た猫のように大人しく縮こまってしまっている。犬の癖に。

「あの、猫羽じゃないんですか?」

 牛月部長が緊張で脂汗を滲ませながら、俺もずっと疑問に思っていた事を代弁してくれた。表札は二枚あった。これだけ広ければ二世帯住宅どころか十世帯でも暮らせる部屋数が揃っているだろう。

「猫羽は奥様の旧姓でございます。夜空様は戸籍上では園城夜空ですが、学校では猫羽と名乗られていらっしゃるようです」

 自我を誇示しない控えめな調子で答えられ反応に困っていると、使用人の女性はこちらですと言って中央に椅子と机の並ぶ客間に俺たちを案内した。

「やあ、早かったね」

 優雅に紅茶を飲みながら、いかにも高級で座り心地の良さそうな革張りのソファーの一つに夜空が座っていた。待ち構えていたと言わんばかりに、俺たちの人数分のカップが既に用意されていた。

「猫羽、聞きたいことがある」

 夜空の傍に置かれた滑車付きの配膳台には、数十種類の茶葉やハーブ、謎の色付きの粉などがそれぞれ瓶詰めの状態で用意されていた。

「まあ、まずは座りなよ。そこの君、紅茶は何が好き?」

「お構いなく。何か入っていたら怖いですから」

 堂々と夜空の正面のソファーに腰を据えて足を組み、肘掛けに手を添えるその姿はまさに女帝だ。一方的に軋轢の生じた烏丸の鋭い眼光を物ともせず、夜空は能面のように張り付いた微笑みを深めた。

 烏丸に続いて、俺たちもとりあえず椅子に座った。程なくして、夜空はいくつかの紅茶を選んで混ぜるという変わった手法で、それぞれのカップに注ぎ入れた。嗅いだことない芳しい香りが室内に漂う。

 貴族だ。本物の貴族がいる。何でみんなそんなに普通なんだ。自分とは異なる次元の別世界に放たれ、俺の脳はとっくに許容範囲を超えてキャパオーバーを起こしている。

「それで、聞きたいことは定まったかな?」

「お前は何を知っている?」

「全部ではない、とだけ言っておこうかな」

「はぐらかすな。猪木の事件の犯人を知っているのか?」

「知らない」

「お前が犯人なんじゃないのか?」

「違う」

 全ての質問の答えを最初から用意しているかのように、即答し続ける夜空が限りなく怪しく感じる。しかし、彼が犯人であるとするならば些か怪しすぎる。現実をフィクションのミステリーの王道に当てはめて考えるのもおかしな気がするが、彼が犯人でない場合、猪木の病院を訪れる必要は全く無いし、嘘を吐く理由も思いつかないのだ。

「あの日、部室で猪木と会ったな?」

「うん。頼まれていた物を渡した」

 初めて否定以外の答えを口にした彼の顔に、笑顔はなかった。

「頼まれていた物?」

「それが何かは言えない。理由も言えない」

 今度は回答の拒否だ。真顔になった彼の表情に、どこか猪木と似た物を感じた。何を考えているのか分からない。その無表情の奥に隠れた思考回路に想像が及ばない。

 牛月部長も同じ感覚に陥ったのか、繰り出し続けていた質問の雨を一旦止ませて、目の前の紅茶に手をつけた。

「話になりません」

 そう言って立ち上がった烏丸は、ずんずんと夜空の元まで近づき、恐ろしい形相で彼を睨みつけた。

「姫ちゃん!」

 何かを察知した辰巳が立ち上がるが、時すでに遅く。烏丸は夜空の襟元を両手で思い切り引っ張り、力一杯の平手打ちをかました。

 皮膚同士が打ち付けられる乾いた音と共に、夜空のカップがカーペットの上に落ちて鈍い音を立てた。

 顔を腫らした夜空は無抵抗のまま、重力に従ってソファーに腰を落とした。俺は思わず彼女の手を掴む。烏丸は構わず、言葉を投げつける。

「貴方、猪木先輩の友人だと言いましたよね。友人がこんな事になってなんとも思わないんですか? 知っている事があるのに答えないというのは、必死で真相を追っている私たちに対して、不誠実だと思いませんか?」

 溜め込んでいたと思われる疑問を一気に吐き出した烏丸の声に含まれていたのは、怒りではなく恐怖だった。俺はハッとして、彼女の手を掴む力を緩める。力一杯に握りしめた拳をカタカタと小さく震わせていた。

『あの人、めっちゃ喧嘩強えし、情報通だし、この辺の不良を全員取りまとめてるすげえ人なんだ』

 得意満面の笑みを浮かべて豪語した赤暮の顔がフラッシュバックする。

 怖いに決まっている。最強を謳われる不良を相手に、女の子が手を上げたのだ。殴り返されるかもしれないし、どんな報復をされるか分かったものじゃない。

 しかし、夜空は真っ赤な後のできた頰をさすることもせず、意外にも素直に頷いて質問に答えた。

「尤もな意見だ。納得した。じゃあ理由だけ話そう。猪木との約束だからだ。ボクは猪木と【取り引き】をした。友人との約束を、どんな形であれ破る事はしたくない」

「本当ですね?」

「ああ、答えられる質問には全て答えてあげよう。約束する」

 烏丸はホッと溜息を吐く。俺も息の詰まる思いだった。

 烏丸は体を張って証明したのだ。最強と謳われる不良を相手に、逆上して女の子を殴るような人間では無いという事と、それを全て分かった上で何も言わない彼が信用に足る人間だという事を示してみせた。

「その代わり、君にもボクの質問に答えて貰う」

「俺に?」

 突然牛月部長に矛先が向いたので、本人もびっくりして畏まっていた声が素に戻っている。


「猿飛静紅の弱点を教えろ」


 急に出てきた懐かしい名前に、俺たちは唖然として目を見開いた。

「猿飛先輩の?」

「苦手な物、人、動物、或いはトラウマ的な経験、不快に思うであろう事、なんでもいい。同じ部活で付き合いの長かった君なら、少しは心当たりがあるだろう」

 これまで人を食ったような表情しかしてこなかった夜空が、途端に人間味を感じさせる不機嫌な顔で、音を立てて紅茶のカップを置いた。

 心なしか苛立ちすら感じさせる態度の彼に、牛月部長は片眉を上げる。

「な、なんでそんなことを聞くんだ?」

 殴られた頰とは逆側を立てた肘に顔を乗せて、夜空は狂気の垣間見える目を見開く。

「彼女の事が大嫌いだからだよ」

「あら、お呼びかしら?」

 透明で空気のような、水の中に響くような不思議な声だった。

 気配もなく、開け放たれていたバルコニーから白いワンピース姿の女が現れた。風に攫われる黒髪は一本一本が糸のように細く、肩先にかかるように巻いて纏めている。薄く化粧を施した顔は、幼げにも、達観しきったようにも見える独特の瞳に影を落とし、血のように赤い口紅が薄く小さな唇を覆う。

 幽霊を見たかのような驚愕の表情で、牛月部長が再度、その人物の名前を叫んだ。

「さ、猿飛先輩?!」

「久しぶりねぇ。私、今はここに居候してるの。将来の為にお金が必要だから、夜空の手伝いをして生活費を援助して貰っているのよ」

「金を出すとは言ったが、ここに住む事を許可した覚えはないよ」

「あら冷たい。昔はあんなにちっちゃくて可愛かったのに」

「五月蝿いよ。話の邪魔をしないでくれ」

「ひどぉい」

 戯れるように夜空の周りをチョロチョロと動き回る彼女は、容姿とは裏腹に子供のように無邪気だ。

「猿飛先輩、その、猫羽とはどういう?」

「これ、私のフィアンセなの」

「はあ?!」

 ニコニコと飼い犬を自慢するように夜空の手を無理矢理上げさせる。力なく腕をぶら下げられた夜空が、力尽くでそれを振り払う。

「違う。親の口約束だ。ボクは認めていない」

「まあ、私も結婚になんて興味はないから、気にしないで頂戴な。それより、みんな本当に久し振りね。初めましての子も、私のことは知っているわよね」

 大袈裟なくらいの女性口調で、猿飛先輩は置いてきぼりにされた俺たちを引っ張り上げるような明るさを放つ。初対面の辰巳と烏丸に絡み、自己中心的なマシンガントークを聞かせ始めた。圧倒されて何も言えない一年生二人の姿は、初めて彼女に出会った時の俺を彷彿とさせた。

 そんな彼女から手を逸らし、先程の烏丸と同じくらいに不機嫌を前面に出している夜空には、とても話しかけられる雰囲気ではない。これでは話が進まないと、牛月部長が猿飛前部長に事件の概要を所々端折って説明した。

 なるほど、と何一つ動じずに頷いた猿飛先輩は夜空、と彼に呼びかけ、何故か完全無視を決め込む夜空の顔を突く。あ、痛そう。さっき烏丸に殴られたところだ。

「私の弱点、知りたいんでしょう? 教えてあげるわ」

 それから一言二言、俺たちに聞こえないくらいの小声で会話をしたと思うと、夜空は態度を変えた。猿飛先輩が、なんでも質問をしろと宣うので、牛月部長は格好がつかないままロンドで作成していたノートを取り出した。

「終業式の日、お前は部室で猪木と会ったのか?」

「会った。そこでボクは彼女に頼まれていた物を渡した」

「頼まれていた物?」

「ある人物に関する調査記録が入った封筒だよ」

「調査記録?」

「悪いがその人物が誰かは言えない」

 封筒は茶色で角形二号、A4の文書が入る大分目立つ大きさだと言う。しかし、あの日猪木の側にそんなものはなかった。封筒を持ち去った何者かが、確実に存在している。それは夜空の後に部屋を訪れた第三者、犯人である可能性が非常に高い。

「猪木先輩の家へ頻繁に訪れていた理由は?」

 烏丸が聞く。

「それも言えない。修正しておくと、自宅へ行ったのは二、三度だけだ」

「貴方が猪木先輩に危害を加えたわけではないんですね?」

 辰巳が聞く。

「勿論だよ。ボクと会った時はピンピンしていた」

「他に誰か来たり、目撃しなかったか?」

 次々出る質問に便乗して、俺も気になっていた事を口に出す。

「いや、誰も見ていない」

「お前は、猪木に自殺するような動機があると思うか?」

「牛月部長?」

 何を言いだすのだ。猪木は誰かに殺されかけたのではないのか。

「あるね」

 さも当然のごとく、今迄の質問と同じように悩む時間を要さない即答で、夜空はそう言った。

 開け放たれたまま窓の外はもうすっかり暗くなって、鈴虫の鳴き声や鳥の囀りが妙に鮮明に部屋に入り込む。

「お前は、それを知っているのか?」

 ゆっくりと、心の準備をしておかなければ、この先に進めないと第六感が知らせていた。

「ああ、良く知っている。だから、少し罪悪感もある。ボクなら、彼女を止められたかもしれなかった。まあ、誰かに殺されかけた可能性もあるわけだから、なんとも言えないけどね」

 夜空は素知らぬ顔で言うが、それを牛月部長ではなく夜空に伝えていたと言う事実が、俺たちにとって、部長にとって最大のショックだった。

「それは、なんだ」


「詳しくは言えないけど、簡潔に言い表すなら」



()()だよ」


「あ、あぁ、ああああああ!」

 少し前から静かになっていた犬山が、突然狂ったような大声で叫んだ。

「犬山?!」

 すぐに駆け寄るが、腕を思い切り振り払われてしまう。近づけない程の大声で叫び続ける犬山の喉が、張り裂けそうな掠れた音をたてる。頭を抱えて床にしゃがみこむ犬山の目には、大粒の涙が浮かんでいた。

「あ、嫌だ。なんで、ぁあっ!」

 耳を劈くような悲鳴が止んだと思うと、ひゅっと嫌な音がした。肩を忙しなく揺らす犬山は、過呼吸を起こしていた。

「犬山!」

 いつのまにかその場から消えていた猿飛先輩が、ビニール袋を持って走ってきた。袋を犬山の口元に当て、背中を強く摩る。

「落ち着いて、ゆっくり息をして、吸って、吐いて」

 俺たちが呆然としている間に、夜空も使用人に水を用意させていた。二人の適切な対応のお陰で、犬山はすぐに落ち着いたが、顔色は悪く、とても話せるような状態ではなかった。

「今日は帰り給え。この時間なら大抵は家にいるから、また来るといい」




「ああ、君、少し待ってくれ」


「昨日、ボク宛に届いた」


『*は亥に手をかける』


「これ」

「ボクはいらないから、好きにしてくれ」

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