心外不出 ①
消毒液の匂いが鼻をつんと刺激する。玄関にも受付にも廊下にも、目に付くところにはやたらと張り紙が貼られていて、病院という建物は老若男女問わず様々な人が集まるだけあって情報の多い場所だと感じた。独特の薄暗さの下、等間隔を開けて大量に設置された避難誘導の非常灯が妙な存在感を放っている。低い椅子に腰掛けたまま伸ばしていた足を引くと、滑りやすいリノリウムの床はきゅ、と音を鳴らした。窓のない廊下の両脇には間隔を開けていくつもの小部屋が設けられ、正面の引き戸に掛けられた真新しいプレートには猪木明様と書かれている。
俺たちは今、ミス研全員で彼女の見舞いに来ている。
屋上での一件を終えて、烏丸は六月のあの日に彼女へ抱いた感情と理不尽な態度を心から反省していた。直接事件に関わってはいないとはいえ、烏丸と辰巳のすれ違いが俺たちの捜査を錯乱させ、部内の人間関係に亀裂を入れることとなってしまった。烏丸はいつにない殊勝な態度で俺たちに謝罪をした。
牛月部長は屋上での二人の密談を聞き、すぐに彼等が犯人ではないと推理したらしい。そして別々に自白を得るという作戦を立て、事前に俺たちに全てを伝えた。互いを庇い合っていたという、二人の不自然な言動の真相を聞いて、俺は自分がどう反応すべきか迷った。彼らは確かに間違えたが、それを責める気にはどうしてもなれなかった。何も言えない俺と犬山に、彼は歯茎を剥き出しにして言った。
「あいつららしいよな!」
俺たちは、この人の度量を見誤っていた。純粋なこの人は気付いていないとすら思えていた烏丸の想いを当然のように読み取って、むしろこの人だけが、あの二人の根底にある感情を理解していたのだ。
なんて寛大な人だろう。俺は生まれて初めて、尊敬を超えた羨望の念を抱いた。
烏丸は、本人にきちんと誠意を持って、直接謝罪がしたいと涙目で訴えたので、俺たちは彼女の意を汲んで、学校からさほど遠くない場所に建つ、此方ヶ丘総合病院へ足を運んだ。
事件から間もないこの時期に、親族でもない俺たちがそう簡単に病室まで入れる事は無いと予想をしていたが、受付に級友の見舞いだと伝えると、丁度通り掛かった猪木の母親の計らいであっさりと病室へ入れて貰える事になった。
猪木と烏丸を二人きりにしてやろうと、病室の前の長椅子に男が四人並んで座って待っていた。静かな空間で会話をする気にはならず、俺たちは黙って烏丸を待っている。さながら女王の凱旋を待つ臣下の気分だ。辰巳は中の様子を頻りに気にしているが、扉はまだ開く気配がない。
ハイヒールを鳴らしながら、買い物に出ていた猪木の母が戻って来た。外に追い出された状態の俺たちに、察しの良い彼女は何も言わずにジュースを奢ってくれた。
「こんなに大勢でお見舞いに来てくれるなんて嬉しいわ。ありがとう」
「すみません。手土産もなく」
急に決まった事だったので、どこか店に立ち寄る暇もなく、誰一人その発想はなかったという様子で顔を見合わせて顰め面になる。
「いいのよ。あの子が目を覚ましたら、またみんなで来てあげてちょうだいね」
「はい」
派手な服装の彼女に、スーパーのロゴ入りの安っぽいレジ袋が異様に似合わない。フリルをあしらったロングスカートを翻して、彼女は長椅子の端の空いているところに座った。
「そうそう、ついさっき例の明の彼氏君が来たわよ」
猪木の母の何気ない呟きに、俺たちは衝撃を受ける。俺たちの推理と鼠家の記憶が正しければ、その男は猫羽という二年生の生徒の筈だ。思わぬ事件進展に食いつかんばかりに、俺は彼女に詰め寄る。
「名前は聞きましたか?」
「あら、知らなかったの?」
「お、教えて下さい!」
おっとりと頰に手をやる挙動すら焦れったく感じる。不思議そうに俺を見て、彼女は漸くその名を口に出す。
「ええと、猫羽夜空君って言ってたけど」
矢張り!と顔を見合わせた俺たちの背後から、耳に残る低い声が聞こえて来た。
「呼んだかい?」
長い脚の映えるパンツスーツを身につけ、前情報通り襟足を肩にかかる程伸ばして前へ流している。人相が悪いというわけでもないのに、どこかの組の若頭と言われても容易に信じられる位に、その佇まいは堅気のそれとは異なる迫力があった。銀細工のネクタイピンやカフスボタンといった装飾の繊細な小物は、驚くほどの高級感が滲み出ていて、明らかに高校生の手の届く品ではない。二重瞼で鋭い切れ長の瞳は、灰色で縁取られた淀みのない純黒で、一筋の光すら称えない暗い色をしていた。
俺は彼に全く見覚えがなかった。こんな奴が同じ学年にいて、印象に残らないなんてことがあるだろうか。
「すみません、花瓶の水を入れたくて席を外していました。ああ、誤解があるようですが、ボクは猪木さんの恋人ではありませんよ」
予想に反して、人当たりの良い微笑みと爽やかで丁寧な話し方をする彼の沈んだ瞳と目が合った。瞬間、俺たちに得体の知れない生き物を目前にしたような緊張が走った。
「あら、そうだったの、ごめんなさいね」
「いいえ、恋人ではありませんが、ボクと彼女は良い友人です。一刻も早く回復して、学校に復帰できる事を祈っています」
用意された台詞を流暢に読み上げるようにして愛想笑いを浮かべると、猫羽は手に抱えた硝子の花瓶を一度椅子の上に置いた。部長の隣に置かれたその花瓶の中には、先刻の発言通り、たった今組み替えられたばかりと思われる綺麗な水が瓶の半分程を満たしていた。
丁度、病室の扉が開き、室内から烏丸が、心なしか肩の荷が降りたような面持ちで出てきた。猪木の母とすれ違い際に会釈をすると、烏丸はそこは立っていた猫羽を見て目を見開く。
「猫羽、少しいいか?」
部長が花瓶を持って中へ入ろうとしていた猫羽に声をかけた。
「うん。何が聞きたい?」
想定していたのか、俺たちの正体に疑問を抱くこともなくあっさりと応対した。
「猪木とどういう関係だ」
「どうって、知っての通りクラスメイトだけど、それがどうかした?」
猪木の母の誤解は解かれたが、疑惑は疑惑のまま、俺たちの中に留まっていた。彼の纏う胡散臭い雰囲気が、一瞬の油断も許してはくれない。
「ただのクラスメイトが、なんでここにいるの?」
犬山が強気で噛みつきにかかったが、飄々とした態度で躱されてしまう。
「友人の見舞いに来るのが、そんなに可笑しな事なのかな」
「お前は、その、一体」
困惑で言葉が上手く組み立てられなかった。俺はある種のパニック状態に陥っていたのかもしれない。
蛍光灯の青白い光が、顎の尖った顔立ちの秀逸な彼の、上辺だけの笑みを不気味に照らしていた。夜空はポケットに手を入れて、重心を後ろに逸らした体制で俺たちを見下した。
「聞きたいことがまとまってから出直し給え。ボクから君たちに言う事は特にないよ。悪いけど、これから用があるんだ。また、別の機会に」
口調が荒々しい訳でもないのに、彼の妙に畏まった話し方はこちらに反論の余地を与えなかった。
「あ、ちょっと!」と引き止まる声は聞こえないふりをして、夜空は良く磨かれた革靴の重い足音を立てて廊下の奥へ進んで行く。途中で、思い出したように立ち止まる。
「ああそうだ。警察に話を聞いてしまったんだけど、猪木の首の傷に、少し変な痕が見つかったらしい」
「痕?」
白い喉仏を晒して、指でここと自分の首筋をなぞって見せる。
「まるで、一度誰かの手に首を絞められたみたいな奇妙な痕がね。まあ、抵抗の痕が無いから、警察は自身で絞めた可能性が高いとの判断だそうだよ」
瞠目する俺たちを興味なさげに一瞥して、夜空は今度こそ非常口の扉を開けて病院から出て行ってしまった。
幻を見ていたような気分だった。今までそこに確かにいた猫羽夜空という少年の正体も、新たに手に入った情報も、肉眼で見えるもの、脳内に補完されるもの、全てが真相から俺たちを遠ざけているような気すらしてくる。
俺たちはその場に呆然と立ち尽くし、それでも思考を停止する事は無い。俺たちは、《《そういうもの》》を解き明かす人種の生き物なのだ。
「猪木先輩と約束しました」
烏丸が口火を切った。
「必ず、この事件を解き明かします。私が今先輩にできる償いは、これだけなので」
強い意志を持った眼差しが、僕たちを射抜いた。その大きな金色の瞳にはこれまでのような傍観の構えはなく、普段以上に気丈な態度が彼女の姿を一段と大きく見せていた。
それは、毒吐きの女王が正義に目覚めた瞬間だった。