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相思尊愛 ③

 その日は朝から、なんとなく彼女の機嫌の優れない日だった。梅雨の湿気や天気予報の間違い、彼女でなくともあまり良い日とは思えないだろう。長い付き合いともなれば、一月の内に決まって体調の悪い週があることもお見通しだ。追い詰められると突飛な行動に出る癖は身に覚えがあったが、怒鳴り散らす程のヒステリーを起こしたのはこれが初めてだった。

「お前が私の下僕だって言うのなら、私の代わりにあの人を殺してよ」

 品行方正な彼女の口から不謹慎な言葉が出た事に驚かされはしたが、この程度で信仰が薄れるようなら下僕失格というものだ。人道的で優しい彼女の口から直接下僕という単語が出たのは、後にも先にもこれが初めてかもしれない。

「分かった。姫ちゃんがそう言うのなら」

 そう答えると、彼女は驚いた顔をしていた。

 何を驚くことがあるんだろう。僕は君が本気でそう思えば、本当にそれをしてしまえる程度には君を大切にしているのに。まあ、優しい彼女が本気で人を殺したいなどと思うわけがないけれど。

 胸ポケットの中で携帯電話が震える。

「父さん、待たせるのも悪いからって早めに来てくれたみたい。ちょっと部室にノート取りに行ってくるね」

 彼女を先に一人で玄関まで行かせて、ありもしないノートを取りに部室に向かった。

「猪木先輩、姫ちゃんと何を話していたんですか?」

 挨拶もそこそこに、僕は彼女に面と向かって聞いた。

「内緒だよ。ガールズトーク」

「猪木先輩の口からそんな言葉が出るとは思いませんでした。姫ちゃんの方はそんな様子じゃありませんでしたけど」

「やっぱり、不快にさせてしまったかな。女子の部員同士、仲良くなろうと思って話を切り出したのだけど」

 無表情で目を瞬かせる猪木先輩の様子からして、悪気は全くないようだ。純粋に交流を深めようとして地雷を踏んだらしい。前々から相性が良くないとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。

「本当に、なんの話をしたんです?」

「内緒」

「ええ……」

 頑なに話の内容を隠す猪木先輩から、後学のためにもなんとか姫ちゃんの地雷は聞き出しておきたいと思った。

 読み耽っていた文庫本をぱたと閉じると、猪木先輩は真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。

「辰巳は烏丸の事が好きなんだよね?」

 厳かな動作からは想像もつかない話題のチョイスに、僕は拍子抜けして間抜けな声をこぼした。

「え? それが恋愛感情的な意味であれば違いますよ」

「そうなの」

「そうですよ。僕は確かに姫ちゃんを愛していますし、何より大切な存在ですが、それは親愛というか、一種の依存のようなもので、彼女と付き合う気なんてさらさらないです」

「好きではないの?」

 あ、これ分かってないやつだ。この人、無愛想で言葉足らずなだけで実はただの天然なのではないだろうか。

「好きですよ。ええと、例えば信仰している宗教で神様を尊んでいた場合、その神様と付き合いたいと思いませんよね? そんな感じです」

「烏丸は神様じゃない」

「物の例えですよ。そうですね、貴方の最初の印象通り、女王様と下僕だと思って頂くのが手っ取り早いかも知れません」

 僕は何を必死になって説明しているのだろう。姫ちゃんと父を待たせているのも忘れて、例え話の通じない彼女の説得に時間をかけた。

「そんな事ない。しばらく一緒に過ごして分かったから」

「何がですか?」

「烏丸も辰巳も、お互いを大事にし過ぎてるんだ。相手を少しも軽んじていないから、長い時間をかけて作り上げた関係を保つしかない」

 なるほど、この調子で会話をしていったら、対人関係でのストレスに耐性のない姫ちゃんは一溜りもない。それでいて、妙に確信めいた真っ直ぐな助言に、自分の屈折を思い知らされる。

「随分と勝手な事を言いますね。貴方が僕達にそこまで干渉する理由はないでしょう」

「ごめん。また不快にさせたなら謝る。でも、辰巳はもっと正直になった方がいい」

「肝に命じておきます」

 いつか姫ちゃんにも分かる時が来るだろう。この人や部長のような人の方が、僕より余程正しく誠実な人間だということに気づいてしまえば、彼女は僕を見捨てるだろうか。そんな日が来ることを願う自分と、来ないで欲しいと思う傲慢な自分がせめぎ合う。

 結局、僕は姫ちゃんが好き過ぎるのだ。手を出さない雲の上の人だと境界線を引いて、彼女を守った気になって、いつか離れる日を恐れながら隣に立っている。僕はなんて愚かしい人間なのだろう。猪木先輩は、それを見抜いていた正しい人間なのだ。


 *****


 隠していた自分の気持ちと、猪木先輩の正しさを語り切る頃には、姫ちゃんの大粒の涙は止まっていた。真珠のように輝くそれが溢れて、零れ落ちるたびに、ああ、勿体無いなと思った。

「猪木はきっと、お前らと仲良くなりたかったんだ。一切の悪意なく」

 牛月部長の言葉に、姫ちゃんは自嘲気味に俯いて笑った。涙で濡れて張り付いた金色の髪が、キラキラと光っている。

「知ってますよ。猪木先輩がそんな打算的な人じゃないことくらい。それなりに一緒に過ごしてきた仲ですから、分かっていました」

 あれは一時の気の迷いだったのだ。僕はそれを分かっていたのに、猪木先輩の吊るされた姿を見た瞬間、恐怖に震えた脳が最悪の妄想をして、彼女が殺してしまったと思い込んだ。

 彼女がする前に、僕がしなければならなかった。姫ちゃんはいつか猪木先輩と仲良くなれる日が来るなんて言い訳をして、本当は実行することが怖かっただけなのではないか。そんな風に疑心して、僕は彼女の身代わりに犯人を演じようとした。まさか、彼女が同じことを考えていたなんて、微塵も思いはしなかった。

「それでも、嫌いだった。私と似た境遇に置かれた癖に、私には無いものを全部持っているあの人が、妬ましくて憎らしくて仕方がなかった。そう思った直後だったから、あの人のあんな姿を見た時、余計にショックで」

「烏丸」

 一時は彼女と直接言い合いになった犬山先輩が、どうすればいいか分からないといった不安げな顔で名前を呼んだ。

「死ねば良いのに、なんて簡単に口にして良い言葉じゃなかった」

 ごめんなさいと、何度も繰り返しながら止まった筈の涙を流す彼女の後悔が、痛いほどに伝わって来る。謝るべきなのは、僕の方だ。

「僕は君を疑ったんだ。君が誰より純粋で、綺麗で、優しい人だと知っていたのに、僕は君に嘘を吐かせた」

 目を擦る彼女の手を握る。姫ちゃんは首を振って、その手を握り返した。

「私がお前を試すような真似をした。絶対にできないような命令をすれば、お前は私に幻滅して、離れていくんじゃないかと思った」

 それは、僕の知らない彼女の想いだった。

「姫ちゃんは、僕に離れて欲しかったの?」

 反対の手で目を乱暴に擦る。それをそっとそっと捕まえた。

「今度は私が、追う側になりたかった。追うきっかけが欲しかった。くだらないプライドなんて捨てて、ちゃんと、お前に必死になりたかった」

 素直になった方がいい。

 正直になった方がいい。

「ごめん、姫ちゃん。僕も怖かった。君の隣に立つことの意味が変わってしまうのが、怖くて仕方がなくて、ずっと逃げてた」

 猪木先輩に言われた言葉が、頭の中でフラッシュバックする。彼女の想いを勘違いだなどと否定する権利は、僕にはない。

 彼女は女王様でもなければ、お姫様でもない。神でもないし、雲の上の人でもない。

 今、僕の目の前にいるのは、世界一大切な幼馴染の女の子だ。

「僕は姫ちゃんが大好きだ。誰よりも愛してる。この先君に相応しい王子様が現れたとしても、そいつに君を譲ってやることなんてできない」

 叫ぶように一息で言い切ると、途端に緊張で強張った指先が力強く握られた。

 その言葉が欲しかったと、隠す術を失った顔を真っ赤にして微笑んだ。彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃだったけれど、やはり誰よりも美しい、お姫様のようだと思った。

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