相思尊愛 ②
先ほどまで天頂から燦々と降り注いでいた太陽が、現在は灰色の雲に覆われてその灼熱を節制している。広々とした屋上の黄緑色の床は長い間清掃業者が入っていない為か小汚く泥まみれの足跡が残り、所々亀裂の入ったコンクリートと剥き出しの貯水パイプは雨風に晒されて劣化が目立つ。どこからか入り込んだ小石を蹴り飛ばすと、低いフェンスの隙間から転がり出て落下して行った。
昼食時の揉め事が原因で解散した筈のミス研だったが、不完全燃焼な気分を持て余して、全員が校内に残っているという現状だ。気温の高い今日、自ら進んで日光に当たりに来る物好きは僕くらいのものだらう。
紫外線を嫌う姫ちゃんは、日焼け止めを塗り直しに化粧室に行くと言ったきり戻って来ていない。送信したメッセージに返事がなくなって三十分になる。
錆び付いた金属が摩擦で軋む音がして、条件反射で笑顔を向けたが、そこにいた人物は彼女ではなかった。
「姫ちゃんが戻って来ないのですが、部長は何か知っていますか?」
「辰巳、俺は烏丸を疑っている」
部員を収集しに来ただけかと思いきや、何の脈絡も予兆もなく告げられた断定的な言葉に目を剥いた。僕が驚いて言葉を失っている間にも、牛月部長は有り得ない推理を述べ続ける。
「お前と烏丸の共犯ではなく、あくまで烏丸単独の犯行だと思う」
「姫ちゃんはあの日、僕とずっと一緒にいました」
「さっき、水泳部の生徒から、一人で歩いているお前を見たという証言を得た」
水泳部の活動場所であるプールの方向からは、本校舎と部室のある校舎を繋ぐ通路を見渡す事ができる。終業式の日、昼過ぎから練習を始めていた水泳部の生徒を僕自身も目撃している。まさか部長にそれを突き止められるとは、自分の力不足を痛感させられる。
ああ、騎士失格だ。姫ちゃんは怒るかな。
牛月の他に誰もいない事を確認し、脱力して息を吐いた。
「あはは、流石に隠し通せませんでしたか」
「お前に、烏丸を説得して欲しい」
諦観した態度で笑う僕に、部長はこれまで以上に真剣な表情で一歩近付いた。彼女が絡むと豹変する僕の性格を知らないわけではないだろうに、その無謀とも言える牛月の行動に、腹の底から湧き上がるものを隠せずに笑みが溢れる。
「部長、やっぱり貴方は探偵には向いていませんね」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、あの日部室で猪木先輩を殺そうとしたのは、僕なんですから」
もしも僕が彼女を裏切る日が来たら、それは彼女が僕に裏切れと言った時だけだ。けれど僕にも意思はある。
姫ちゃんを守る為なら、僕は喜んで他を切り捨てる。それが僕自身の意思だ。
*****
六月下旬、梅雨前線もそろそろ過ぎ去って、洗濯物も片付けやすくなるかという時期のことだ。天気予報は大外れ、暗雲の立ち込める雷雨が此方ヶ丘を襲っていた。
私も光臣も油断して傘を持ってこなかったのだが、丁度彼の父が早上がりの日だった事が幸いして、車で家まで送ってもらえる事になった。早上がりとは言っても、約束の時間は五時、部室で大人しく待つ事にした。
担任は速やかな帰宅を呼びかけ、いつもより簡易的なホームルームはすぐに終わったが、光臣のクラスは少し長引きそうだった為、待たずに先に部室へ向かった。途中に屋根のない道を通ることをうっかり忘れていて路頭に迷いかけたが、偶然通りかかったクラスのチャラ男(名前は忘れたが確かなんたらプリンス)が置き傘を一本貸してくれて助かった。意外と気さくないい奴で、初対面の時は見た目で判断して申し訳なかったと今は反省している。
「早いね、烏丸」
部室の鍵はやはり開いていて、入部当初から彼女の定位置となっているソファーに優雅に腰掛けて、雷など聞こえていないかのように読書を嗜む副部長が居た。
「それは猪木先輩もでしょう」
先程、ミス研のグループトークにて猪木先輩から部室は開けたという連絡があった。暴風注意報発令の為部活禁止になった事を忘れた鼠家先生に鍵を預かり、猪木先輩も傘を持ってきていなかったらしく、都合良く部室で雨風を凌いでいるらしい。
「辰巳と一緒じゃないなんて珍しい」
「別に、四六時中一緒にいるってわけじゃないんですけど」
なんとなく離れた場所に座るのも失礼な気がして、彼女の正面のソファーに座る。普段は部長が座る席だが、あの人はどうせ連絡も見ずに走って帰るだろう。
居心地の悪い無言の時間が流れる。唐突に、猪木先輩が口を開いた。
「あのさ。烏丸は辰巳の事をどう思っているのかな」
「どうって、幼馴染ですよ」
「烏丸はそうかもしれないけど、辰巳はそうじゃないかもしれないよ」
「は?」
何を言い出すんだ。変化しないその声色や表情から真意を伺うことは困難で、とても考えが読めない。
「烏丸は頭が良いから、辰巳の気持ちに気がつかない訳がないよね。その気がないのに辰巳を振り回すのは違うと思う」
どうやらこの人の中では、辰巳が私を好きで、その気持ちを利用した私が彼をこき使っているような構図になっているようだ。とんでもない勘違いだ。確かに、側から見ればそう見える方が自然かもしれない。
しかし、私たちの歪な関係性を彼女に説教される謂れもない。
「突然なんですか? そんな事を貴方に説教される筋合いはないです。その気がないとか勝手に決め付けないで下さい」
「ごめん。烏丸達を見てると、なんだか辰巳が可哀想で」
「はあ?」
「気を悪くさせたなら謝るよ。でも、もし烏丸が辰巳の事を少しでも大切に想っているなら、もっと素直になった方がいい」
謝罪の言葉を口にするその表情にも彼女の意思は見えず、まるで喋る人形と話しているようだと思った。
「ご忠告どうも」
「ごめん。でも報われない一方的な想い程、惨めな恋はないから」
あちらの気持ちは分からないままでも、こちらの怒りはちゃんと伝わっているようで、妙な気分の悪さを感じた。気分を害されたのは私の方だというのに、なんだか不公平だとも思う。惨め、私が言われたわけじゃない。けれど、その単語は私にこそ当てはまる。
「すみません。今日はもう帰ります」
床に置いていた鞄を乱暴に引っ張り上げ、わざと音を立ててドアを閉めた。短気な自分が嫌になる。彼女が言ったのは全て客観的事実だ。それでも、デリカシーがないにも程がある。何も知らない人間が、たかが三ヶ月そこらの付き合いで私たちの何を知った気になっているのだ。
私は苛立つ気持ちを抑えながら、何のあてもなく廊下を早足で歩いた。
「あ、姫ちゃん! 遅くなってごめんね!」
光臣は外を走って来たのか、少し濡れて潰れた髪の先から水滴を垂らしながら、階段をバタバタと上がってきた。
今から五時まで時間を潰さねばならないというのに、考えなしに部室を出てしまった事を少し後悔する。話の内容や経緯を彼に伝える事などできないし、湿気で肌に張り付く服や少し濡れてしまった冷たい鞄が気持ち悪く、朝必死で整えた髪もボサボサ、おまけに二日目、私の苛立ちは頂点に達していた。
「何かあった?」
無言のまま俯く私の顔を覗き込んで、光臣は慎重に聞いてきた。こんな時にも私の内面を見透かされている気がして、光臣のことまで苛立ちの要因に加えてしまいそうになる。
「ムカつく」
忌々しそうに口に出した言葉を、光臣は不思議そうな顔をしながらも受け入れる。
「どうしたの?」
「光臣、猪木先輩に何か言った?」
「副部長に? いや、特には思い当たらないけど、猪木先輩に何か言われたの?」
自分から振った話とはいえ、光臣の口からあの人の名前が親しげに出た瞬間、私の中で何かが崩れた。
「死ねば良いのに」
それは確かな悪意を持って放った言葉。
「姫ちゃん、そんな言い方」
私の発言を気にしただけの彼の言葉が、猪木先輩を庇って聞こえて、私は半ば八つ当たりのように光臣に向かって感情的に叫ぶ。
「だってムカつくんだもん。いつも幸せそうで、全部上手く行ってて、汚い事は何も知りませんって顔した偽善者で、そのくせ顔がいいってだけで周囲にチヤホヤされて、私を見下してる」
抑えていたものを一度口にしてしまうと、その先に仕舞い込んだ筈のドロドロとした嫌な感情は簡単について出てきてしまった。
「ねえ、光臣」
珍しく本気で戸惑った様子の彼の表情に、少しだけ心の靄が晴れた気がした。
「お前が私の下僕だって言うのなら、私の代わりにあの人を殺してよ」
どうせ素直になれないなら、私にはもう、こうするしか方法が残っていない。
私が堕ちるところまで堕ちたなら、お前はどうするのかな。光臣。
遠くで雷が落ちる音がした。校舎の壁に叩きつけられるような強い雨が、私の心情をそのまま表しているようで、少し可笑しかった。
*****
屋上で、辰巳は六月の豪雨の日の出来事を包み隠さずに話した。辰巳は烏丸と猪木の間で起きた出来事の詳細は知らない。だが、彼女が烏丸に本気であの怨念じみた嫌悪を抱かせる何かをした、又は言った事は確かだ。
「そう言われたから、お前は烏丸の言う通りに猪木を殺そうとしたのか」
牛月は自分の足元を見つめて声を震わせる。それを嘲笑うように、辰巳は人を食ったような話し方で喋り続ける。
「僕は姫ちゃんの下僕なんです。姫ちゃんが黒といえば黒、白といえば白なんですよ。まあ、結局失敗して姫ちゃんはゴキゲン斜めだし、思っていたより部長たちが有能で全部バレちゃいましたけど」
「そうか」
彼の哀しみも怒りも、全てを受け入れるつもりで話をした。一発くらい殴られても文句は言わない。これで、姫ちゃんが助かるのなら、僕はいくらでも犠牲になってやる。
「やっぱりお前は犯人じゃないよ」
そう言った牛月の表情には、悲しみも怒りも、僕を糾弾する何かは全く浮かんでいなかった。それどころか、あの不敵な笑顔で、得意げに腰に手を当ててたっている。
衝撃で思わず貼り付けた笑顔を崩したが、済んでのところで辰巳は口元を歪める。
「は? いや、僕だって言ってるじゃないですか」
「いいや、違う」
確信を持って首を振る彼に、何が起こっているのか分からないまま、信じられない思いで反論する。
「言っておきますけど、そもそも姫ちゃんに猪木先輩を吊るすような力はありませんよ。部室の鍵だって、あんなに目立つ姫ちゃんが先生に見つからずにこっそり返すなんてことできないでしょう!」
まだ彼女を疑っているのか、想定通りの質問を繰り出す牛月部長に、予め用意していた答えを返す。
「鍵の件は、お前にも言えることなんじゃないか?」
「演劇部から拝借したウィッグを使いました」
「カードは?」
「何で僕が自分の犯行の答え合わせなんてしないといけないんですか!」
これで良い筈なのに、段々と逃げ道を潰されているような違和感を覚え、優位にあった自分の立場が目の前の彼に脅かされていく恐怖を想像して震える。想像はあくまで想像でしかない。頭を振って興奮を鎮めて初めて、ある可能性に思い至った。
「お前はそれで、烏丸を庇っているつもりなのか?」
威圧感のある瞳が僕を射抜く。自分が糾弾される方がまだマシだったと思える程の重たいプレッシャーが襲う。
もう間違いなかった。彼は見つけてしまったのだ。《《烏丸姫が、猪木先輩を殺害しようとした犯人である》》という証拠を、今日の捜査の中で掴んでしまったのだ。僕が先に見つけて処分すべきだった。
「違います。僕は本当に」
胸を噛むような悔しさを感じるが、僕にできる事はもう何もないのかもしれない。それでもせめて、最後に悪足掻きをと、踵を下げて真後ろにある手摺の位置を確認する。
ごめん。いつも肝心なところで役に立たなくて、何もできない弱い僕を、どうか許して欲しい。
「僕が、猪木先輩を」
『違う! 光臣は犯人じゃない!』
「え?」
たった今念を送っていた相手の、悲鳴のような叫び声が聞こえた。それも、牛月部長の立つ方向、彼のズボンのポケットからだ。
「うお、ちょ、何やってんだよ」
慌ててポケットから、スピーカー状態だった彼の携帯電話が取り出される。次いで、兎林先輩の焦った声が電話の奥から聞こえて来る。
『すみません。電話奪われました!』
『光臣、答えなくていい! 余計なこと言わないで!』
『烏丸落ち着いて!』
今度は犬山先輩の慌てた声が聞こえる。
「姫ちゃん? 先輩達も、電話?」
「悪い辰巳、烏丸は犯人じゃないんだ」
「は?」
本気で申し訳なさそうに手を合わせて謝る牛月部長に、状況の全く掴めていない辰巳はただただ混乱する。
「悪い。烏丸を疑っているって話は嘘だ。ついさっき、烏丸にもお前に言った事と逆の話をした」
「逆の話?」
「ただし、烏丸のアリバイが崩れたのは本当の話だ。ここからは、一切の誤魔化しも嘘もなしだから、ちゃんと聞いて欲しい。烏丸は終業式の後、お前と昼食を済ませ、虎牙先生のいる英語科準備室へ英語の質問に行ったんだ」
手の間に挟まれたままのスマホから、兎林先輩の優しい声が聞こえる。
『虎牙先生とさっき会えたんだ』
牛月から送られた録音を聞いた兎林と犬山の元に、鼠家からの連絡を受けて虎牙京子先生が現れた。彼女の話によると、烏丸が英語科準備室にいる姿は、他の生徒も目撃しているらしく、彼女のアリバイは証明された。それと同時に、辰巳とずっと一緒だったという嘘が確実なものとなった。
「それなら、尚更僕を疑うのが道理では?」
『部長は二人の会話を聞いた時、二人ともお互いの事を犯人だと勘違いして、庇い合っている事に気付いたんだよ。だから、必死で探したんだ。お前が犯人じゃ無いって証拠を』
部長の指示の元、水泳部員全員と連絡がつくだけの生徒の全てに聞き込みをして、辰巳の目撃証言を探した。しかし見つかったのは、辰巳が外を歩いている姿を見た、という曖昧な証言だけだった。これでは、二人が一緒に居なかった事実が更に鮮明になっただけだ。
この状態で辰巳に自分の無実を証明させる事はできない。
「だから俺は、お前をわざと追い詰めて自白をさせた。予想通り、お前は明らかに烏丸を庇う発言を連発した」
本当に辰巳が犯人ならば、自分が犯人では無いと訴える為の何らかの言い訳を用意する筈だ。しかし、彼の言葉は明らかに自分の犯行を証明しようとするものばかりであった。
「じゃあ、姫ちゃんは、本当に犯人じゃないんですか?」
「烏丸に、辰巳を疑っていると嘘を吐いた。さっきのお前とほとんど同じ事を言い出したぞ」
「姫ちゃんが、僕を庇っていた?」
「安心しろ。お前らはどっちも犯人なんかじゃないんだ」
わなわなと唇を震わせた辰巳は、脱力して屋上の床に突っ伏した。小さく嗚咽をあげ、良かった、良かったと喘ぐように呟いて泣いた。零れた涙が床の黄緑を濃く染めて、烏丸たちが屋上の扉を開けた時には、牛月が辰巳を起こして背中をさすってやっていた。その様子を見て、兎林と犬山は笑いながら二人に駆け寄った。
「どうして、そんな風に笑っていられるんですか」
扉の前に立ち尽くしたまま遠くからそれを眺めていた烏丸の目の端も赤く、涙の跡が浮かんでいた。
「姫ちゃん」
同じように三白眼を充血させた辰巳が歩み寄ると、それを遮って強い口調で言う。
「私は、猪木先輩が嫌いでした」
それまで安心しきっていた一同から、一瞬にして笑顔が消える。
誰も彼女を責めていないのに、言った本人の表情だけが苦しそうに歪み、自身の言葉の棘を自身で飲み込んでしまったかのような悲痛な声を上げて、また涙を流して座り込んだ。
辰巳はそんな烏丸の前に膝をつき、いつもの柔和な笑顔を浮かべた。
「あの後、僕も猪木先輩と会ったんだよ」
そう言って、あの梅雨の終わりの日の出来事の続きを語り始めた。