相思尊愛 ①
暇を持て余した退屈な春の午後のことだった。
明日から高校生、必要以上に長く感じた休暇も終わり、人生で最も華々しい(あくまでイメージの)時代へと足を踏み出す。中学の卒業式で涙を拭うことはなかった。地元の公立中学には小学校時代からの友人も多く、距離の近い此方ヶ丘高校へ進む者、偏差値の高い西此方ヶ丘学園へ進む者、駅から電車通学をする者と進路は様々ではあるものの、親しい友人の中に地元を離れる者はいなかった事が大きい。
此方ヶ丘高校ではクラスと担任が発表される新入生の登校日と、全校生徒の集まる入学式が別日に執り行われる。形式上は全生徒の部活動への在籍が義務付けられており、入学式を迎えれば即日に部活動への入部が認可されている珍しい方針を取っている。そのため部活動の勧誘競争が激しいと中学の頃に先輩から噂で聞いた。各部活の新入生争奪戦に巻き込まれる前に早い内から入部候補を定めておかねば、僕はともかく彼女の人気は底知れない。
受験の際に参考にした学校パンフレットの部活動紹介のページを捲りながら、物理的な準備も心の準備も完璧に終えた今日の最後の準備に取り掛かっていた時だった。
机の隅で充電していた携帯電話が音を鳴らして震え、一通のメールが届く。基本的に着信音はデフォルトのままだが、彼女一人だけはラビッツというミュージカルの冒頭に使用されたメロディを着信音に設定している。これは舞台女優である彼女の母の出演した作品で、その伝手で実際に観劇した時は感動で涙が止まらないほどの超大作だった。
いつ連絡が来ても聞き逃さないように、携帯電話という小さな機械の箱の中においても、僕の世界の中心は彼女なのだ。困った事に、彼女はその華奢な体に見合わない程の芯の強さを持っている癖に、伴わない内面と外面の間で不安定に揺れる精神を、他人を拒絶する事で守ってきた不器用な人だった。
少し昔の話をしよう。
幼少期に男の子が性差を教わる時は、大抵大人は子供に向かってこう教授する。
「男の子は女の子を守ってあげなさい」
男女差別思想の衰退化した現代で、随分と大袈裟な教えだと幼心にも思った。
僕にとって一番身近な『女の子』が姫ちゃんだったからだ。彼女は僕に守られる程弱くはないし、寧ろ当時は僕の方が余程体格は虚弱で瘦せぎすで、逆に姫ちゃんは身体の成長が他の子よりも遥かに性急で、小学校に上がってからも姫ちゃんと間近で接し過ぎたせいか、女の子という生き物は男の子よりも早く大人になってしまうような気がしていた。姫ちゃんの真似をして、ブラックコーヒーに手を出したり(苦すぎて吐いた)、給食で好きな献立のお代わりを我慢したり(見兼ねた姫ちゃんが自分の分を僕に譲ってくれた)、友人同士の喧嘩に止めに入ったり(巻き込まれて怪我をして姫ちゃんに呆れられた)、小さいけれど沢山の背伸びをしてみた。
しかし、どうやっても僕が彼女に追い付く未来は見えない。それどころか、どんどん姫ちゃんが賢く、且つ格好良く成長して行く姿を見て、僕は羨望の眼差しを向け続けた。あまり他人を寄せ付けない子供らしからぬ孤高っぷりも、単純思考な僕の憧れに拍車を掛けた。彼女の隣は僕の居場所だと言わんばかりに、それこそ今以上に後ろをついて回っていた気がする。
姫ちゃんは要領良く不器用で、強いからこそ心から気を許せる誰かに加護されなければならない。その事に、僕は気づいていなかった。彼女の強さに甘えて、僕は自分の役割を忘れていたのかもしれない。
中学二年の夏、姫ちゃんは誘拐されかけた。
幸い怪我もなく未遂に終わり、すんでのところで通行人に助けられたらしい彼女は、僕が彼女の両親よりも一足先に駆けつけた時、警察の派出所で青い顔をして震えていた。恐怖と嫌悪で綺麗な顔を歪め、力一杯自分の服の裾を握りしめて耐えていた。婦人警官の言葉には頷くだけで、とても言葉を返す事の出来る状態ではなかった。
そして僕の存在に気づくと、彼女は何事も無かったかのように普段の格好良い姫ちゃんの表情を取り繕ったのだ。
そこで僕は初めて、彼女の強さに惑わされていた事を知った。疎かにしていた自分の使命を、僕は彼女を守ってあげなければならないという事を、二度と薄らぐ事のないように固く心に刻みつけた。
着信音が鳴って数秒と経たぬ内に携帯を手に取ると、そこにはいつも通りの命令口調の短文が表示された。
『今暇ならすぐにうちに来て』
こんなに急に呼び出されることは珍しい。休暇中も会ってはいたが、彼女の方から遊びに誘われること自体が滅多にない事なので、その文面を見た瞬間おもわず目を丸くしてしまった。
女王様気質で、僕を顎で使っているように見えるかもしれないが、あれで礼儀正しく気の使える子だ。僕の意思を尊重してくれているからこそ、僕にそういう態度を取ってくれている。
彼女のメールとは対照的に、僕は上着を羽織りつつ素早い手さばきで文字を打つ。
『うんわかった! すぐに行くけど、何かあったの? 手土産は何がいい? コンビニの新作スイーツにイチゴのミルフィーユが出てたよ!』
鏡の前で見苦しくない程度に軽く身だしなみを整えて、携帯を片手に外へ駆け出した。
*****
『うんわかった! すぐに行くけど、何かあったの? 手土産は何がいい? コンビニの新作スイーツにイチゴのミルフィーユが出てたよ!』
初期設定のままの無機質な着信音が耳元で鳴り響く。思わず跳ねた肩を誤魔化すように、今までだらしなく寝そべっていたベッドの上に座り込んだ。
文面に目を通すと、従順を通り越して献身の過ぎる彼らしい言葉の羅列に自然と溜息が溢れた。
「急に呼びつけたのはこっちだし、手土産とか別にいいんだけど」
なんて口に出してはみたものの、私に有無を言わさぬセレクトをしてくるあたりが手に負えない。イチゴのミルフィーユ? なにそれ超美味しそうなんだけど。好きな人と好きな食べ物がいっぺんに訪れる幸福に浮かれ初めて口角が緩んできたところで、今の自分の惨状に気がつく。休日だからと手を抜いて、手入れに時間のかかる長い癖毛はボサボサ、服も適当に上下の揃わない部屋着姿だ。
光臣はすぐに向かうと言ったなら本当にすぐに来るのだ。
焦って洋服箪笥を漁り、最近買ったばかりの浅葱色のシンプルなチュニックに着替えようと服を脱ぎ始め、下着のホックに手をかけたその時だった。
「姫ちゃん、ごめんね! 待った?」
いくらなんでも早すぎる! ノックくらいしろ!
心の中で叫ぶも羞恥で声には出なかった。しばらく絶句して背を向けたままいたが、私は意を決して下着姿のままで振り返った。幸い、今日の下着は最近買ったばかりの学生向けブランドの新作、デザインにも機能性にも優れたお気に入りだ。見られて困る体型はしていない筈だし、水着だと思えば露出度はそう変わらない。自身にそう暗示をかけて、勢いのまま光臣に迫る。
「え? ごっごめんなさい! え、え?」
あからさまな困惑の声、すぐに扉に手を掛けて退出しようとする光臣の逃げ場を封じる。光臣の身体を挟んで両腕を壁につける。まさか自分が壁ドンをする立場になろうとは、人生何が起こるか想像がつかないものだ。緊張が一周回って逆に冷静に思考できていた。目の前に自分の何倍も混乱して慌てふためいている人間がいることも大きいだろう。
「姫ちゃん服! いくら春とはいえ、まだ寒いから!」
そう叫んで壁に背を付けて両手を上げる彼の目は固く閉じていて、おそらく私が振り向いた瞬間から律儀に視界を閉ざしたことが想像に容易かった。未だに「え?」だの「何?」だのと情けない声を上げている光臣に、この状況で真っ先に私の体調面を気にした紳士加減に少しときめいてしまった自分が恥ずかしくなると同時に理不尽な苛立ちすら湧いてくる。
光臣を呼びつけた理由、それは勿論、長年募らせた想いの吐露、とどのつまりは告白の為だ。中学校生活も終わり、毎日会えていた筈の光臣にあまり会えずにいた淋しさともどかしさがついに爆発し、思い切って連絡を取るという暴挙に出てしまったのだ。
高校生になれば環境が変わる。気持ちも変わる。もしかしたら、この曖昧な関係も変わるかもしれない。その変化が、私に取って良いものなのか悪いものなのかはまだ知り得ないが、後者であってはならない。遅くなって後悔するよりかは、行動に出るべきだと思う。しかし、いざ行動してみると、自身の計画性のなさに辟易する。私は言葉を素直に伝える事が一番苦手なのだ。そう簡単に言えるものなら苦労はしていない。
結論、とにかく攻める。言葉にできないのならば行動で示す。決して悪くはないはずの頭が導き出した答えが正しいのかおかしいのか。好きな人を自室に呼びつけ下着姿で壁ドン、字面だけ見ると完全に痴女だ。落ち着け、狡猾であれ烏丸姫、使えるものは全て使って口説き落とせ。
「大丈夫? 何かあったの?」
答えの出ないまま考え込み、暫く言葉を探して思考を彷徨っていたせいか、先に通常の調子を取り戻した光臣が本気で心配そうにそう言った。
あくまでも私を気遣う優しげな言葉、ここまでの事をしても、光臣は尚私への態度を変えない。
その事実が、私の自尊心を酷く傷つけた。
「お前も脱いで」
「へ?」
「何、私がこんな格好なのにお前はそのままなわけ?」
「滅相も無いです」
「なら、早く脱いで」
「ん? え? 何、本当にどうしたの」
私の圧と命令口調に弱い謎の特性を利用して強引に服を脱がせ、上半身裸になった彼を無理矢理ベッドの上に放る。痩身で筋肉は薄いが決して弱々しくはない彼は、混乱しながらも長い腕をついて体重を支え、倒れることはしなかったが無抵抗で狙った場所に座り込んだ。
この作戦のスタンスは変わらない。言葉で示せないのなら、せめて行動で、あくまで私らしく。こうなればとことんやり通す。
目を閉じたまま場所を変えたので距離感を掴めずにいる光臣に近付く。ベッドに足を掛けると音を立てて軋み、光臣の肩が面白いぐらいに跳ねる。恐々と私の名を呼ぶ彼の脚の上に跨がり、心臓の音を悟らせないように密かに呼吸を落ち着けてそっと首に手を回す。
さあ、どんな反応を見せるか。赤面して慌てるなら上々、いい加減目を開けさせないと私の矜持が傷つくし、私には彼に拒絶されることはないという根拠のない自信があった。
「よしよし」
そんな言葉と共に背中に回された骨張った体温の高い手に、へ?と思わず口にしなかった私を賞賛したい。
光臣はあろうことか、私の頭を抱えて優しく撫で始めたのだ。それも、年頃の女の子にするような手つきではなく、親が子をあやすような、愛犬を愛でるような、一切の下心も動揺も見受けられない仕草で、私の肩甲骨の下あたりを支えながら後頭部をさすり始めたのだ。
「何、バカにしてるの?」
半ば怒りで震えだしそうな気分になりながらそう言うと、光臣は本気で不思議そうな顔をして聞き返してくる。相変わらず目はしっかりと閉ざされたままだった。
「え? 人肌恋しいんじゃないの?」
「私は兎か」
「人間だって寂しい時はあるでしょう?」
それはこれまで聞いた光臣のどの言葉よりも慈愛に満ちた響きで、ゆっくりと私の耳に入り込んできた。それを聞いて、急に自分の行動が死ぬ程恥ずかしく思えて来て、言葉の端が尻込みする。
「別に、寂しいわけじゃ……」
羞恥心と罪悪感で涙が出そうになる。それすらもお見通しといった様子で優しく私の髪を撫で付ける手付きにとても安心した。心が落ち着いて潤んだ目元も乾き始めた。今ならなんでも言えてしまいそうで、これを逃せばもう二度と素直になれないのではないかと思った。
「光臣、私は」
「僕は姫ちゃんの王子様じゃないよ」
私の告白を遮った言葉に、信じられない思いで顔を上げる。
申し訳なさそうに眉を下げる彼は優しく私の髪を掬い、私を抱きしめて素肌を撫でる。その手からは確かな温もりを感じるのに、そこに厭らしさは微塵も感じられない。まるで愚図る幼子をあやしているかのように純粋に優しく、母性に似たものすら感じる。
ねえ光臣、お前はいつからそんなに悟った顔で笑うようになったの。
私の王子様なんて、光臣以外あり得ないのに、どうしてお前にはそれが分からないの。
私の文句は伝わらないまま、彼は普段の穏やかな調子で空を仰いだ。
「高校生になるんだもん。僕もちょっぴり不安だなあ」
わざと話を逸らされた事で、私はやっと気づいた。仮にも思春期真っ只中の男女が裸で抱き合っているというのに不健全な気配は微塵もない。その事実こそが、彼の答えなのだ。
「友達、いっぱいできるといいね」
はにかんだ笑顔を浮かべた彼は、結局最後まで目を閉じたままだった。それを無理矢理こじ開ける勇気はもうなかった。
親戚一同にちやほやと甘やかされて育ち、街を歩けばモデルにスカウトされ、卒業式当日には何人もの男子に告白され、誘拐されかけた事もあるくらいには見て呉れは悪くない自覚がある。
変に客観的な自信があった事が災いし、この時の私は完全に冷静さを失っていた。この事件は後に、烏丸姫の人生最大の黒歴史となる。