赫絲之夢 ③
本校舎の屋上は基本的に施錠されているが、階段横の用具室の勝手口から出入りすることができる。用具室は暗証番号式錠になっていて、ドアノブ部分に数字とアルファベットが羅列している。番号は特に秘匿されておらず、先輩から後輩へと受け継がれるように生徒の過半数に出回っている為、実質自由に屋上に入る事ができるのだ。教師達も危険が無い限りは黙認しているらしい、此方ヶ丘高校暗黙のルールの一つだ。
出入り口からそう遠く無い位置で、安全性の考慮された頑丈な手摺にもたれ掛かり、烏丸姫は町の景色を見つめている。
東京にしては自然の残る街並みが一望できる屋上は、彼女の密かなお気に入りの場所だった。屋上のさらに上に設置された貯水槽が、都合良く日陰を作り出してくれている。
他人の好奇の視線に晒される人混みも、思春期の女子高生相手に何の配慮も見受けられない無遠慮な身内も、嫌いでは無い居場所であった筈のミス研も全て、今の烏丸にはとても居心地の悪い空間だ。
口が悪い自覚はある。この悪癖が災いして、何度も人間関係で問題を起こして来た。その度に彼に迷惑をかけ続けて生きて来た。口を噤む事を覚えたら、今度は彼以外のものをほとんど失っていた。今よりも青かった私にはその事実が耐えられなくて、彼に酷く八つ当たってしまった。
今日、初めて故意に人を傷付ける言葉を吐いた。そうすれば、彼を守れると思った。
「姫ちゃん、大丈夫?」
どんな不満があろうと、こいつの側に居られるのなら問題はないと思えていた殊勝な自分は、一体どこへ消えてしまったのだろう。あの日から、私が道を踏み外した日から少しずつ歯車は食い違い、既に大きく狂ってしまっている。
風に攫われて広がる髪を纏めて、烏丸はこれ見よがしに溜息を吐く。
「何が」
芯まで冷えた氷柱のような棘のある声、自身が感じている声と、相手に聞こえる声はまた違う筈だが、きっと相手にはもっと非情に写っている。光臣は気にせず、私が寄り掛かっているよりも少し距離を開けた場所に背を預けた。
「色々と、冷静じゃなかったみたいだからさ」
「冷静だよ」
「ねえ、姫ちゃんは、牛月先輩とか、兎林先輩とか、犬山先輩が嫌い?」
光臣は高音とも低音とも取れない不思議な声をしている。何を言っても往なされてしまい、何を言われても絆されてしまう。マイナスイオンでも生成してるんじゃないかって位に穏やかな彼の声が、ずっと聞いていても飽きないくらい、無性に愛しかった。その反面、中学時代のいつだかを境に私よりも大人びてしまった彼の諭すような言い回しが嫌いだった。それをされると自分の幼稚さを思い知らされるから、彼も私が嫌がる事を察して私の行動に口を出すことは滅多にしなかった。
「別に、好きでも嫌いでもない」
「先輩とか後輩っていうと、少し距離を感じてしまうけど、結局は年齢の違う友達みたいなものだと思うんだよね」
「何が言いたいの」
フェンスを蹴って離れて彼へ向き直すと、光臣は私の不機嫌と相殺するようにして、にへらと口元に必要以上の爽やかな笑みを浮かべる。私の怒りとバランスをとるようにして明るく笑うのは、多分本人も気づいていない光臣の癖だ。
「姫ちゃん、友達を大切にしてね」
けれど、それはいつもの癖などではなく、はっきりと光臣自身の意思を持った笑顔だった。目を見開く私から目を逸らし、光臣は細い睫毛を伏せ、風に煽られる前髪をかき上げた。
「猪木先輩の事が嫌いでも、他の先輩まで嫌いになる必要はないよ」
背中に嫌な汗が伝った。
穏やかな彼から感じた不穏を振り払いたくて、自分の罪を忘れたくて頭を振ると、髪が乱れて口の端に一束引っかかる。咥えてしまった髪を、光臣が正面から手伸ばしてそっと摘んで避けた。口元に伸ばされた指の爪は綺麗に丸く整えられていて、几帳面な光臣の性格を物語っていたが、軽い出血の痕が残る親指の逆剥けが痛々しかった。
「お前、何を考えてるの」
「うーん。姫ちゃんを守りつつ、猪木先輩を確実に殺す方法かな」
平然と明るく言い放った残酷な言葉が、私以外の誰にも聞かれていない事を願う。悪びれもせず床に胡座をかく光臣の様子を見て、今度は逆に安心してしまった。
「どうせ目を覚まさないのなら、死んでいるのと同じでしょう」
胡蝶之夢という荘子の故事を元にした言葉がある。胡蝶になって遊ぶ夢をみて、目が覚めると夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢をみて自分になったのか、混乱に陥ったという話だ。目の前にある現実が、夢か現実かを証明する手段はない。夢だとしたら、自分は生きているのか、死んでいるのか、人の命の概念はそんな儚い問答ですら歪む。
無機質な病院の一室で眠り続ける猪木先輩は、今はどんな夢を見ているのだろう。