赫絲之夢 ①
辺り一面の暗闇の中で、ぼうっと静かな光を放つ赤い糸が見えた。それは弛みながらも真っ直ぐに、ずっと遠くの方まで続いていて、暗闇の奥へ進めと暗示しているようであった。糸を辿って目線を移動させると、自分の左手の小指に小さな蝶々結びの成された真紅の糸がしっかりと巻き付いていた。
不思議なことに、自分の体だけは発光しているかのように漆黒の中でぼんやりと浮かんで見える。
指に絡まるこれは所謂、運命の赤い糸というやつなのだろうか。右手で摘んでみると、糸はピアノ線ほど細くも無いが、毛糸ほどの太さも無い。触った感触はつるりとしていたが、ほんの少しだけ熱を帯びていて、まるで爺ちゃんが稀に作ってくれる茹でそうめんのようだと思った。
再度、糸の続く先を見据え、糸を少しだけ引っ張ってみた。大した手応えはなく、か細い糸が千切れる気配はなかった。探究心に身を任せて右手の四本指で糸を巻き取りながら、スルスルと潤滑油にでも浸したような手触りのそれらを辿って行く。しかし、最初は軽かった足取りが、何故だか段々と重くなって来た。巻き取り続けた糸は既にドーナツ大の円を作って俺の四指の動きを封じている。やがて足は止まり、巻きつけた糸の束は俺の手から音も無く落下した。
怖い。この先にいるかもしれない誰かに会うことが、果てしなく怖い。一歩一歩進む毎に増した恐怖が、俺の心を蝕んで、俺の影の中に侵食している。
「牛月さん」
声が聴こえた。
辺りを見回しても誰もいないことは分かりきっていたが、俺は思わず顔を上げていた。たったそれだけのことなのに、単純な俺は物理的に前を向けた事で前へ進む力も湧いた気がした。
俺は何を迷っているのだ。これがもし運命の赤い糸で、この先に運命の相手がいるとすれば、そこにいる人物は彼女に決まっている。そう思い直すと、糸の示す方角に人影が見えた。
艶のある黒髪をすっきりと短く切り揃え、濁り無く白い華奢な頸を晒している。類稀な長い四肢や広めの肩は遠目では少年と見紛う程に日本人離れした体型だが、顔立ちは寧ろ大和撫子と言って遜色ない程に眉目秀麗で、そのアンバランスさが返って少女の優艶さを際立たせる。
やはり猪木だ。彼女は俺の運命だった。それまで探究心に身を任せるままだった足が、猪木の姿を視認した瞬間、浮かれたように走り出した。猪木はその場から動くことなく、俺はすぐに猪木の元へ駆け寄ったが、彼女の周囲の異様な光景に釘付けになった。
その場で俯く猪木の左手の小指には、綺麗な蝶々結びなどなかった。指どころか手首や腕まで伸びた真紅の糸が、無造作に彼女の肢体に絡みつき、皮膚に食い込む程に締め上げ、辺り一面に張り巡らされている。
「猪木」
無意識に彼女を呼ぶと、猪木は顔を上げ、消え入りそうな声で俺の名前を呼び返した。
「忠さん」
初めて見るその表情にハッとして、いつのまにか辺りに張り巡らされた糸を掻き分けて腕を伸ばす。
「猪木! 待ってろ! 今この糸を切ってやるから!」
今度こそ助けてやる。必ずこの手を伸ばして、お前を救ってやる。だからお前も、俺に手を伸ばしてくれ。
「切ってしまうんですか?」
必死で猪木に縋ろうとして、あとほんの少しというところで、落ち着いた彼女の低音が響いた。女性にしては低めの無感情な声が、俺の動きを不思議と静止させた。
糸に絡め取られて身動きが取れない筈だった猪木が、俺の顔を温もりの感じられない冷え切った両手で包んだ。目の前に差し出された彼女の黒曜の瞳は、冷たく光を失った硝子玉のように無機質だった。
視界の隅で揺れる赤い糸が目障りで仕方がない。
「貴方はこの糸を切れますか?」
その言葉を皮切りに、無機質だった糸は生き物然とした動きで俺の足元をすくい猪木から引き離した。どれだけ歯向かっても抗い難い力で後ろに引かれてしまう。距離が開き、猪木の姿が段々と小さくなって行く。目が合ったまま、最後に猪木が少しだけ口元を緩ませた気がした。
「私を殺したのは誰でしょう」
それはまるで、言外に「お前だ」と告げられたようだった。
目の前には見慣れた天井の木目があった。今まで見ていたものが全て夢だったと理解した瞬間、気持ちの悪い汗がどっと吹き出した。心臓の鼓動が大きく頭に響き、目を覚まして飛び起きなかった悪夢は初めてだなと呑気なことを考えて、早まった呼吸を鎮めた。薄手の掛け布団を軽く蹴り飛ばし、ベトベトと肌に張り付いた寝間着代わりのシャツを脱ぎ捨ててタンクトップ一枚になると、床に倒れた時計が朝四時を指していた。
夏休み二日目、部員達との待ち合わせ時間は午前十時だが、目覚まし時計のアラームは敢えて普段の生活時間と変えずに六時に設定していた。だが結局、それよりも早く目が冴えてしまった。邸内から生活音は聞こえてこない。早寝早起きを心がけている祖父母ですら、まだ起床していないようだ。寝覚めの悪い夢を見てしまった手前、二度寝もできない。
祖父母に気を遣いつつ、牛月は音を立てないように襖を開閉した。廊下に足を踏み出すと、どうしてもミシミシと床が音を立ててしまうが、これは不可抗力だ。狭い廊下を通り、居間と台所を経由して書斎の戸を開けると、埃っぽい空間に大量の本が積まれている。古く黄ばんだものから、真新しい帯にキャッチーなフレーズが描かれたものまで、大小様々な書籍が混在している。
牛月は部屋の真ん中に置かれた黒い椅子に深く腰掛けると、手頃な一冊を手に取って読み耽り始めた。そこは小説家であった牛月の祖父が昔、仕事場として使っていた場所だった。幼い頃から祖父母に面倒を見て貰っていた彼は、周囲の同世代の子供達の間で流行っていた遊びは殆ど知らなかった。決して友人が少なかったわけではない。持ち前の明るさと素直さ、不実や差別を嫌う正義感の強さ、当時から運動神経も良かった為、通っていた幼稚園では人気者の部類だった。しかし、彼は祖父の所有する小説の読破という、年齢に見合わない一人遊びに熱を入れた。毎日のように書斎に入り浸り、難しい漢字は辞書を引いて徹底的に調べ上げた。忠少年は、特に推理小説を気に入って読んでいた。あまりに没頭するものだから、友人も大人達も不思議がったが、祖父母は寧ろ新たな本をどんどん買い与えていった。幼稚園、小学校、中学校、高校まで続いたその趣味は、結果として偏った知識と必要以上の人間関係を築かなかった事による異様なまでの素直な思考回路を彼に植え付けた。
シャーロックホームズ、コロンボ、怪人二十面相、お気に入りの本は沢山あれど、遠の昔に読み切ったこの書斎の本の中で、最も好きな本を聞かれたら、彼は迷う事なくこの一冊を取り出すだろう。
『赫絲』
これは祖父が執筆した小説の中で、唯一の恋愛小説と持て囃され、ベストセラーとなった作品だ。身内の贔屓目無しにも、この本は最高の名作であると豪語できる。
政略結婚を強いられた名家の令嬢が、運命の相手を探して旅に出る。彼女には時折、人間の小指に赤い糸が見えるという特殊な能力を持っていた。旅先で出会った青年の指に赤い糸を見た令嬢は、彼に運命の相手がいる事を告げる。しかし、彼は生涯誰とも結ばれる気は無いと言う。紆余曲折を経て、令嬢は自分と青年の赤い糸が繋がっていた事に気がつく。最後は二人が想いを告げて幸せになり、ハッピーエンドという純愛の物語なのだが、牛月にはこの話の終わりにどうしても納得ができずにいる。幸せなエンドロールを迎えるかに見えた令嬢は、折角結ばれた赤い糸を自らの手で断ち切ってしまったのだ。
物語の最後のページはこう締め括られている。
【引き裂かれた赫絲は無残に散らばって、やがて音も無く煙のように霧散した。彼女はただその場に立ち尽くして、晴れやかな気分で唄を歌う。青年はその姿を見て、また彼女を愛しんだ。】
何故、彼女は糸を切ったのだろう。赤い糸を利用して青年と結ばれたという罪悪感に苛まれたのか、長年自身の指にあった呪縛から解き放たれたかったのか、青年の心を試したのか。ファンの間では、曖昧に濁された赫絲の結末を考察する様々な説が飛び交っている。
俺は昔から、この本に関して一つだけ思うところがある。今朝見た夢の内容も相まって、作者である祖父に直接問う事すら出来なかったその仮説が頭を占める。彼女は糸ではなく、青年から解放されたかった。結婚願望など微塵もなかった彼女は、自身を運命という鎖で縛った糸を、果ては青年の愛すらも煩わしく思っていたのかもしれない。この小説にはそもそも、令嬢が青年へ想いを寄せる描写は全く存在していないのだ。
祖父自身はこの小説に関して、恋愛小説だと名言はしていない。祖父はただ一言、「通例とは一風変わったミステリになるかもしれないな」と、幼い俺の頭を撫でただけだった。