推論風発 ③
全てが白昼夢のような出来事も、昨日となってしまえば心の整理がついてくる。あれだけ取り乱したというのに、人間の心理とは不思議なものだ。
部長の言う通り、猪木は自殺などしない。長い付き合いとも言えないが、自分達は決して短い付き合いでもないし、浅い仲でもなかったという自負がある。
「私は、猪木先輩の自殺の可能性が高いと思います」
「猪木はそんなことしない。昨日も今日もいつも通りだった。何か心境の変化があったなら、いくらなんでも誰か気づく」
「猪木先輩はそもそも感情の起伏に乏しいです。部長が気づいてあげられなかっただけで、何かに悩んでいたんじゃありませんか? 一番彼女の近くにいた貴方に分からなかったなら、私たちに分かるはずがないです」
烏丸はそう捲し立て、部長を睨みつける。
元より容色の優れた烏丸の、不機嫌を超えて紛れもなく憤った表情は相当な迫力があった。部長も負けず劣らず、無理にでも冷静さを保とうとしているのかこちらが怯む程の顰めっ面をしている。見た目の割に子供っぽく朗色的で、威厳など微塵も感じさせない部長が、あの事件以来少しだけ様子がおかしい。
しかし、喧嘩になっては話が進まないし、自殺だ自殺じゃないなどと言い合っても答えなどでないだろうと、俺はまず興奮気味の烏丸を諌めようと間に割って入る。
「烏丸、ちょっと言い過ぎだ」
多少興奮し過ぎている自覚はあったのか、「すみません」と口を窄める彼女は、攻撃的なようでその実素直ではないだけなのだ。少し落ち着いたその様子を確認して、牛月部長は説得を再開する。
「自殺じゃない可能性はある。これが猪木からのメッセージなら、俺たちにはそれに答える責任があると思う」
再度、彼は例のカードの模写を取り出した。
『私を殺したのは誰でしょう』
これが、猪木からミス研の面子に向けた言葉だったとしたら、その可能性がある限り、部長はきっと意思を曲げる事はない。
「頼む。お前らにも手伝って欲しい」
深々と頭を下げ、誠心誠意の言葉を俺たちに送る。その姿を見て、心に響くものがないのなら仲間ではない。
「俺は手伝う。猪木は命を粗末にするようなやつじゃない」
「俺も」
部長の意を汲んで賛同の意を示すと、犬山はすぐに頷いてくれた。
「私は」と、烏丸が迷いの表情を垣間見せた時だった。
「僕、手伝いたいです」
それまで自身の意見は伏せ、烏丸のフォローに回っていた辰巳が、彼女の言葉を遮って静かに声をあげた。
「でも」
「でも、なんだ?」
驚いた俺たちの注目を一身に浴び、真剣な表情で何も無い空の一点を見つめながら言い切る。
「もし、猪木先輩を殺そうとした人が本当にいるのなら、深く関われば姫ちゃんに危険が及ぶ可能性があるかもしれない。事件の真相がどうであれ、その可能性がゼロじゃない以上、僕はその捜査とやらに手を貸すことはできません」
恥ずかしげもなくハッキリと口にしたのは、彼の第一信条と言っても過言ではない、盲目的なまでの烏丸中心主義の思考回路から生み出された意見だった。通常ならドン引きしてもおかしくはない案件だが、姫ちゃんどうこうは置いておくとして、確かに危険が伴う可能性を視野に入れていなかった事を自覚した。
「烏丸の意見も辰巳の意見も、正論だと思う。無理強いはしたくない。けど、頼む」
安全かどうかを問われてしまうと反論は難しい。そんな考えは杞憂だった。
「危険な事はしない。ただ、猪木が何を考えていたのか、何があったのかが知りたい。お前等の力が必要なんだ。もしも何かあったら、俺がお前らを守ってやる」
どこか変わってしまった気がしていた。いつもより遠く見えていた。しかし彼は紛れもなく、面白いものを見つけてきては部員に共有し、愚かしいまでに単純明快で、だからこそ全員の視線を奪って離さない。そんな不思議な力がこの人にはある。
この人に出会ってミス研に勧誘された時も、俺は同じような感覚になった。クサイ台詞もこの人がいうと妙に様になって見えるからずるいと思う。
辰巳と烏丸は互いに数秒見つめ合い、一方は呆れたような溜息と共に、一方は苦笑混じりに頷いた。
「分かりました」
「姫ちゃんがいいなら、僕も手伝います」
猪木の事件の真相を突き止めるという部活の枠を超えた前代未聞の目標が、一部の譲歩の上に成り立った。
部長は改まって咳払いを一つし、確認のように部員たちの顔を見回した。
「まず、みんなの昨日の放課後の行動を教えて欲しい。誤解しないでくれ。疑いをかける為じゃなく、仲間を疑いたくないからだ」
「今の台詞、前に部長に借りた小説の一節にありましたね」というツッコミは、空気を読んで心の奥底にしまっておく。部長の性格上、ふざけていると思われがちな言動も、ただこういう時に適した台詞なのだと素直に認識しているだけに過ぎない事を、ある程度の長い付き合いの中で理解した。
「分かってますよ。放課後はずっとこいつと一緒でした。昼食をとって教室で少し話してから、部室に移動する途中に部長の声が聞こえて、部室棟の階段辺りにいた犬山先輩と兎林先輩と合流しました」
「姫ちゃんと同じです」
烏丸と辰巳は予想通り合流前からずっと一緒で、互いのアリバイは当然の如く証明されている。
「俺も自分の教室で友達と昼飯食って、駄弁って、後は部室に向かいました。部長の叫び声が聞こえたのは丁度部室棟の下駄箱に靴をしまっている時で、何事かと思って焦って上靴を履いたところで犬山に出くわしたんだったよな?」
俺のアリバイは、教室で一緒だった友人達数名が証明してくれるだろうが、自分の行動とはいえ細部まで完璧に記憶しているかと言われると、流石に自信が薄い。
「俺は昼ご飯は外に食べに行ってた。学校に戻って来たらトイレに行きたくなって、部室棟一階のトイレを出たところでガラスの割れる大きな音と部長の声を聞いて、下駄箱前の廊下で大和と会った」
此方ヶ丘高校には、品数の豊富ではない購買はあるが食堂がない。すぐ近所にコンビニが二店舗、ファミレスやファストフード店も点在している為、昼休みに外出してそちらで食事を摂る者も多い。特に今日は一限と二限、終業式とホームルーム程度で学級課程は終了したので、部活のある殆どの生徒は昼の終わりまで外出していた。
牛月は頷く。思い出す事すら酷な昨日の出来事を、自らの口で語るという自傷的とすらもとれる行為に、彼の覚悟と矜持が伺えた。
「俺も昼飯は外で食べた。帰ってきてすぐに部室に向かったら、ドアの向こうに人影が見えたけど、返事は無いし、様子がおかしかったから下から中を覗いたんだ。そしたら、宙に浮いた足が見えて、上履きに猪木って」
書いてあったと、消え入りそうな声で呟いた彼の心境を察すると、こちらまで胸に杭が打たれたように痛む。彼の心にはまだその杭が刺さったままなのかもしれない。
「それで近くにあった消火器で窓を無理矢理破ったと」
「そこですぐに鍵を持ってくるなり人を呼ぶなりしないあたり、部長らしいです」
同情を感じて黙った俺の気遣いを台無しにして、犬山と烏丸はズケズケと言い放つ。
「け、結果的に早期発見につながったんだから、不幸中の幸いですよ。部長に怪我がなくてよかったですよ。そ、そういえば、さっきの、鍵のロッカーの番号を知っていた人間がもう一人いたとかって、どういう事なんですか?」
「昨日猪木の母さんから聞いた話なんだけど」
フォロー上手な我が部の良心、辰巳が話を逸らしてくれたことによって、やっと昨日の猪木の母親との出来事を粗方説明することができた。
「猪木先輩がその誰かと浮気していたということですか?」
盛大に眉を顰めた烏丸が、遠慮の無い斬り込みを入れた。
「いや、彼氏っていうのは大家さんの誤解で、単に猪木の友達かもしれないだろ」
部長の気持ちを微塵も考えずに意見する烏丸の不躾さに少々腹が立って、こちらも口調が荒くなってしまう。しかし、俺如きが少々熱を入れたところで怯む彼女ではない。
「でも、一人暮らしをしていた事を恋人である牛月部長にすら隠していたのに、その人にだけ伝えて家に呼ぶなんておかしな話ですね」
「隠していたと決まったわけじゃない」
「実際、知らなかったんですよね? 牛月部長は」
「なんでお前はそう喧嘩腰なんだよ」
「喧嘩腰? 私は別に」
ヒートアップし始めた舌戦に気圧され、犬山がオロオロと手を彷徨わせている。牛月部長も腕組みをして考え込み、黙ったまま俺たちの討論に耳を傾けていた。
「本人に聞けば良いじゃないですか」
唐突にそう言った辰巳に驚き、一瞬の間に俺達は静まった。
「本人?」
人当たりの良い笑顔で、烏丸の刺々しい態度を緩和する彼はそこにはいなかった。爬虫類に似た細い瞳孔を光らせて、冷たい声で獲物を追い詰めて行く。
「みんな、気づかないフリをしているんですかね。一人しかいないじゃないですか、髪の長い男子なんて、僕等の周りに一人しか」
不穏な彼の言葉に、それまで思いつきもしなかった。否、頭の片隅にあっても、考えることを無意識に止めていた一つの可能性が思い当たり、俺を含めた全員が一人の人間へ目線を向けた。
「俺のこと?」
肩にギリギリ届くくらいの、女子程ではないが長く伸ばされた天然の茶髪、落ち着いた無気力な雰囲気、猪木と特別親しいとまではいかないが、比較的身近な交友関係にあった人間。犬山晃紀の容姿と、条件は一致する。
「な、犬山が猪木と浮気してたなんて、あるわけないだろ」
震える声を押し留めて、辰巳に向き直ってその可能性を否定する。しかし辰巳は、根拠の無い疑惑で皆を混乱させるような奴ではなかった。
「僕、見ちゃったんですよ。昨日の放課後、猪木先輩と犬山先輩が二人でいるところ」
「は?」
寝耳に水とはまさにこの事、急に登場した新たな情報に、俺は驚愕して言葉を失いかけた。
「それなら、辰巳とずっと一緒にいた烏丸が目撃してないのはどうして?」
有難いことに、疑いをかけられた犬山自身は何ら訝しげな仕草は見せず、不満そうに短い眉を吊り上げている。
「私も見ましたよ」
「ならどうして今まで言わなかったの?」
俺とは違って、怒りをぶつけるように言い返すのではなく、余裕ある様子で問いかける犬山を、同じ先輩として少し見習おうと思った。
「……忘れていました。光臣ほどキョロキョロ周り見て歩いてるわけじゃないんで」
相変わらず言い方は悪いし、聞き様によっては上手くしらばっくれているように感じてしまうのは、俺が親友の犬山を贔屓目に見ているからだろうか。
「どうなんだ、犬山」
非難するわけではなくあくまで事実の確認、といった体裁の牛月部長にプルプルと首を振って、犬山ははっきりと答える。
「俺と猪木は会ったよ。昼食を摂る前の一瞬だったし、大した会話もしてない。勿論、家にも行ってないし、浮気もしてない。第一、猪木が浮気したと決まったわけでもないでしょ」
後半、少し拗ねたような物腰になったのは、きっと俺と同様に友人である猪木を信じたいという気持ちが強いからだ。烏丸と辰巳よりも一年長く付き合いがあった俺たちの絆は、絶対ではないが薄いものではない。学生の一年というのは足早に過ぎ去ってしまうからこそ濃密で、信頼関係の構築にかける時間の比率は低くはないのだ。
「彼氏じゃない男を彼氏だと偽って家へ呼んでいたんでしょう? それって浮気以外になにがあるんですか」
きつい物言いをする烏丸が、何も頭ごなしに猪木の不貞を疑っているわけではない事は理解している。事実に基づいて考えられる過程の中で、客観的に見て最も確率の高い可能性を、烏丸は俺たちに突き付けているのだ。
俺たちが主観でしか推理ができない事を知った上で、わざと彼女が憎まれ役を買って出ているというのは、流石に買いかぶりかもしれないが、一学期間の短い時間だけでも、烏丸の未熟で不器用な性格はよく分かった。
また無言の時間が流れる。すっかり涼んだ部屋の空気が、流れる時に逆らうように重く伸し掛かる。口火を切ったのは、やはり部長だった。
「明日、学校に行ってみよう。現場を見ない事には始まらない。部室に入れるかはわからないけど、とりあえず情報収集だ」
この場に猪木さえいれば、話し合いは難航する事なく要点を絞って順序良く行われる。(そもそも猪木が無事ならばこの話は始まってすらいないのだが。)
効率的で視野の広い猪木の手腕は、此方ヶ丘高校の生徒会すら認めるところだ。彼女は部活が忙しいからときっぱり断っていたが、俺はあいつなら上手い事両立できるのだろうと確信できる。
非効率的で無尽蔵な話し合いは長引き、気がつけば時刻は六時を過ぎてしまっていた。夏は日が長いとはいえ、あまり遅くなるとこの近辺は休みに入って暇を持て余した不良達が屯している為、夜道には危険が伴う。
住宅街の公園の看板や塀には、彼等によるカラースプレーやペンキの派手な落書きが施されている。
牛月家を後にして、近くはないが同じ方向に自宅のある犬山と一緒に帰宅している。
「犬山、俺は絶対に猪木を殺そうとした奴を許さない」
名も知らぬ虫の音と、紫色の空を泳ぐ烏の鳴き声が夏の夕暮れを象徴するように、生ぬるい空気に浸透する。
「うん」
俺の言葉に小さく頷く犬山の声が、その空気感に静かに溶け込む。
「ミス研の名にかけて、猪木の友達として、絶対に俺たちの手で犯人を見つけ出そう」
「……うん」
二度目の頷きには少しの間があった。不安を滲ませた彼の声を気に掛けて横に目をやると、痛々しい程にリュックサックの持ち手を握り締めていた。
落ち着かせようと一歩前に出て、後ろ歩きで向き合ってわざと明るい声を出す。
「ああ、そうだ。昨日猪木とあった時、何を話したんだ?」
「別に、お疲れとか、兎林と一緒じゃないの珍しいよねとか、これから部活行くのかとか、そんな感じの事を聞かれて、答えただけ」
「いつもと変わった様子はなかったか?」
「ごめん。わかんない」
「いいよ。その後は部室の方へ向かったんだよな」
「うん」
大通りに出ると人通りも増えるので、前に向き直って歩き出すと、丁度信号機が赤を示した。暗くなり、先程とは打って変わって人口の音ばかり耳に入って来る。
「あ」
信号待ちで立ち止まっていると、唐突に犬山が決して大きくはない声量で声を上げたと同時に、信号の色は青になった。
「どうした?」
「えと、偶然かもしれないし、俺が見間違えただけかも、あんまり自信ないけど、いい? 俺も、推理」
オドオドと視線を彷徨わせ、言葉を途切れさせる話し方は、気が弱く消極的な犬山の癖だ。しかし普段が無口な分、論理的思考を伴うその言葉の一つ一つの意味の重さが、思った事をほぼそのまま発信する俺とは大分異なる。
「何か気づいたのか?」
「あの時、猪木、部活の鍵、手に持っていなかったんだよね。職員室から距離があるとはいえ、すぐ使うのに鞄に一々仕舞うかなって」
問題の日の放課後、猪木は鍵の一つを職員室のロッカーから出して、一番乗りで部室について机の上置いた筈だ。
「やっぱり、ポケットとか鞄の中に入れてただけなのかも」
本校舎から部室のある校舎までは、確かに大した距離はない。犬山の疑問は最もだ。そして俺は、鍵についてもう一つ、重要な事実に気がついた。
「いや、犬山! それ!」
「え?」
「そうだ。ずっと違和感だったんだよ! 鍵だ!」
「な、なに?」
力強く迫る俺に、犬山は後退りして戸惑いの表情を見せる。信号はとうとう点滅し始めたが、俺たちは白線のレールを渡らず、その場に立ち止まったままでいた。
「失くすといけないから目立つところに置こうって、いつもは机の真ん中におくことにしてるだろ? あれを言い出したのは猪木だったよな」
「うん。前に部長が失くしかけたから、置く場所を決めて置こうって猪木が言ってた」
「猪木を見つけたあの時」
現場を回想すると、あの異様なカードの傍にあった鍵の在り処を、混乱する頭は精一杯に記憶していた。
「鍵は、机の端に置いてあった」
「あ!」
あれはもはや習慣のようなものだ。規則正しく几帳面な性格の猪木が、よりにもよって昨日だけ置く場所をずらしたとは考え難い。
「もしも、もしもの話だけど、猪木は昨日、部員ではない誰かを部室に招き入れたんじゃないか? 鍵はそいつに取りに行かせて、自分は先に部室に行って誰もいないかを確かめた。その途中に犬山とすれ違った」
「でも、どうしてそんなにコソコソする必要があったの?」
「俺はさ。浮気ではないにしろ、猪木が親や部長に何かを隠していたことは確かだと思ってる。学校で誰憚ることなく内緒話ができる場所なんて、無人の部室くらいだ」
「そしてその誰かに、殺されかけた。その仮説なら、みんなに話してみる価値はあると思う」
部室にあった鍵は猪木が持って来た物だと言う前提が覆されたとしたら、犯人がロッカーから二本の鍵を持ち出し、片方を部室の中に放置する事で、彼女を自殺に見せかけたトリックの可能性もある。更には、鍵を取りに来た姿を、職員室内で目撃されているかもしれない。
「その前に、明日職員室に行って、昨日鍵を取りに来た生徒について聞いて来ようぜ」
「うん!」
三度目の相槌には、先刻までの薄暗さはなく、少しだけいつも通りに戻ったような気がした。
けれど事件は何も終わっていない。捜査は始まったばかり、情報の糸は解れ絡まったまま、俺たちの周りに散乱している。
初夏の風が強く吹き、俺たちは再び信号が青になった事を確認し、車のヘッドライトで照らされた横断歩道を渡って帰路に着いた。