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推論風発 ②

 目の前が真っ暗になり、俺の世界から音が遮断された。背中にへばり付いて震えている犬山の体温だけが、俺の正気を保たせていた。竦む足を後退させると床に散らばるガラスの破片がパリ、と音を立てて更に細かく砕けた。

 部室から聞こえたガラスの割れる音と、直後に響いた牛月部長の悲痛な叫び声から、只事でない何かが起こったのだと身構えたが、それでもまさかつい先程移動教室で同じ授業を受けたばかりの猪木が動かぬ姿になっていると予想が出来るはずもない。

 教員が次々に駆けつけると、部屋に一歩踏み入れた所から動けない俺たちを外に追い出して救急車を呼んだり、他の先生方に連絡を取ったりと慌ただしく動き出した。こういう時、大人と子供の差を見せつけられる。

 呆然としたままの辰巳と烏丸を端に寄らせ、犬山に二人を任せた後、部長の方を振り返って固まった。人は絶望すると、こんな表情を浮かべるのだなと、我ながら呑気な思考回路だった。

 いつも声ばかりデカくて、馬鹿丸出しで、コミュニュケーション能力と裏表のない天真爛漫な性格が目立つ牛月の、感情の無い悲壮な表情がここまで自分を不安にさせるとは思っていなかった。

 副部長はいない。ここは俺がしっかりしていないと、普通の俺にできることを、精一杯やり切らねばならない。そう決意し、俺は牛月部長の肩を掴んだ。

「部長! 聞こえてますか!」

 ハッとしたように、部長の目が俺の目と合う。迷子の子供のように不安気な眼差しで、泣いてもいないのに涙が枯れてしまったかのようだ。

「猪木は絶対に大丈夫です! だから行きましょう!」

 根拠などなくても、今はこの人を正気に戻せれば良いと思った。

「行くって、どこに」

 言葉はちゃんと聞こえている。覚束ないが答えも返ってきた。この人を一人でここにいさせてはいけないと、直感的に考えた俺は、なりふり構わずに部長に怒鳴り散らした。

「病院にです! このまま、何もできないままでここにいたいですか? 貴方が行かずに誰が行くべきなんですか!」

 ただの一生徒を乗せてくれるかは定かではなかったが、一心不乱に目の前の彼を説得しようとした。そんな俺を見て部長は何を思ったのか、彼の両肩を強く握り締めた俺の手をそっと振りほどいた。

「行くぞ」

 そうして、第一発見者であり関係者として、部長と一緒に半ば無理矢理救急車に乗り込み、病院までついて行った。乗り込む直前に先生に止められかけたが、緊急事態に揉めている暇はないと、已む無く見逃される事となった。

 車内では、救急隊員の応急手当てやら何やらが行われ、質問には全て先生が応対した為、俺は本当に何もできないまま、目を閉じたままの友人を眺めていることしかできなかった。

 待合室に通されたのは、後から到着した猪木の両親と先生だけで、牛月部長が二、三質問された後、俺達は集中治療室の前で待機させられた。その間に、いつものような陽気な会話はなく、引っ切り無しに訪れる警察や先生、病院からの質問に対して答えられる事も少なかった。

 唯一、猪木の母親が俺と部長に話しかけて来た時、俺は何も言えずに会釈をしたのだが、彼女はとても自分の娘が生死の境を彷徨っているとは思えない程に落ち着いた微笑みを浮かべて言った。

「ここまであの子についてきてくれたそうね。ありがとう。大丈夫? ショックだったでしょう」

 切れ長な目元が少しだけ猪木を彷彿とさせる美人な母親だった。猪木ほど無表情ではなく、服装も派手めな色合いのものだったが、沈んだ空気も相まって薄幸そうで物静かな印象を受ける人だった。

 俺は口籠るばかりで何も答えられなかったのに、部長は彼女に向かって言い放った。

「最近、猪木に変わった様子とかって、ありませんでしたか?」

「部長?」

 唐突に不躾な質問を始めた部長の真意が掴めず困惑したが、猪木の母親は特に気にした様子もなく答えた。

「さあ、ごめんなさいね。ここしばらくは、私もあの子と会っていなくて」

 小首を傾げて苦笑して、薄紫のストールをずり上げるように手首を捻った。高いヒールを履いている為、俺と目線がそう変わらない。

 同じ家に住む親子なのに、数日も会わないなんてことがあり得るのだろうか。部長も同じ疑問を持ったようで「会っていない?」と訝しげにその話題を掘り下げる。

「聞いていなかったかしら、あの子、この春から一人暮らしを始めたの。早めに自立したいからって、親戚がアパートの管理人をしているから世話を焼いて貰っていたのだけれど」

 高校生の女子が親元を離れて一人暮らしをしていた。非常識な話だが、猪木の母親の様子からは特殊な事情があったという空気も感じられず、猪木の意思を親が承諾して成立した事らしい。

「猪木はそんな事一言も」

 衝撃を受ける俺を見て、逆に不思議そうな顔をされた。

「他に何かありませんか?」

 先ほどとは打って変わって冷静過ぎる位に目の据わった部長が、猪木の母親に臆する事なく質問を投げかける。

「他に? ああ、そう言えば、彼氏をよく連れ込んでいるって管理人さんから聞いたわ。あの子も女子高生らしく恋愛をしているみたいで、逆にちょっと安心しちゃったの」

 そう言って少しだけ口元を綻ばせた彼女に、少しだけ違和感を感じたが、娘を心配し過ぎて病む気を紛らせたいのかもしれない。

「え?」

 猪木の恋人というと牛月部長の事を示す筈だが、先程部長も猪木が一人暮らしをしていたという事実を知らずに驚いたように見えた。更に彼が次にした質問は、俺の中の嫌な予感を加速させた。

「その彼氏って、どんな奴だか分かります?」

「此方ヶ丘の生徒で、髪が長くて落ち着いた雰囲気の男の子ってくらいしか、聞いていないわね。明はそういうの全然教えてくれないから。なぁに? まるで事情聴取ね」

 くすりと伏し目がちな瞳を細めて、色っぽく笑った彼女に思わずドギマギしてしまう。人妻だぞ。友達の母親だぞ。こんな時に俺は何を考えているんだ。

 部長は見るからに短髪だし、成人男性を優に超える体格の良さに反して、普段は落ち着きも年相応の大人っぽさも皆無だ。猪木母の言う特徴とは全く一致しない。混乱が増す中、部長はあくまで冷静に話を進めて行く。

「すみません。こんな時に」

「いいの。あの子にこんなに心配してくれる友達がいたなんて嬉しいわ。ありがとう。ミステリー研究部の子かしら?」

 猪木が自宅で部活の話をしていたというのはとても意外に思えた。心から嬉しそうに微笑むその姿は、状況を気にしなければ娘を想う普通の母親のように見える。少しズレた性格をしている人なのだと無理矢理自分を納得させて、部長に続いて名乗った。

「はい。部長の牛月です」

「兎林大和です」

「あの子、高校に入ってから凄く明るいの。分かりにくい子だけど、これからもよろしくね」

 細長い指を擦り合わせるようにして、彼女が口元に両手を持っていく仕草をすると、香水の仄かな甘い匂いが鼻を掠めた。彼女の不謹慎な程の満面の笑顔が少し照れ臭くて、俺は下を向いて誤魔化した。

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