FRIGUS ALTARE 冷たい祭壇
天井までのびる色鮮やかなステンドグラスにかこまれた礼拝堂。
外の俗っぽい商戦や近代的なビル群とはまるで別世界だ。
ここに通う者のなかには、この中世風の雰囲気にひたるのが目的の者もいるのではとアレクシスは思っていた。
祭壇のまえで聖書を読み上げる御使いのような青年、ダニエル・ハミルトンを見つめる。
礼拝の出席者は非常に少なく、チャーチベンチには十人ほどがまばらに座るのみだ。
さきほどから席にもつかず、入口の横で祭壇を睨むように見る軍人をチラチラと気にする者もいた。
「天のいと高き所におわす父よ」
ダニエルがおだやかな声で読み上げる。
ラテン語だと以前言っていた。
十一世紀ごろを最後に死語になり、インテリ層の共通語としてすらもとっくに使われなくなった言語だが、いまだカトリックは公用語にしている。
「愛する独り子を私たちの救いのためにお与えになり、信じるすべての者に罪の赦しを与えてくださいました深い愛に感謝いたします」
「アーメン」とダニエルが続ける。
信者たちが軽く頭をたれた。
礼拝が終わり、信者たちが銘々に帰っていく。
ここで敬虔に祈ったその足で、クリスマス商戦に乗ったやや贅沢な買いものをして帰るのだろうなと想像したが、べつに悪いとは思っていない。
宗教に関しては、外交、戦略に応用できる物事の一つとして教わった。
個人的にそれ以上でも以下でもない。
信者がすべてかえり、礼拝堂に自身とダニエルのみが残される。
こちらに背中を向けて祭壇の聖書や花を片づけはじめたダニエルに、アレクシスは歩みよった。
「ケガは」
何と声をかけようか迷ったが、はじめから気まずい内容は避けようと思った。
「出血は止まっていますが」
ダニエルが背中を向けたまま答える。
さきほど聖書を読んでいたときとは打って変わって、つき放すような口ぶりだ。
「……強引にしたのは悪かった」
雪の吹きこむコンクリートの床の上。
やたらと熱く感じた彼の体温を思い出した。
ケガまでしていたのだ。ふつうの恋人同士だったとしても嫌われかねない。
「軍人というのは、いつの時代も変わらないようだ」
ダニエルが、いまだ背中を向けたまま冷たい口調で言う。
「ああいった拷問の方法があるのは知ってる」
ダニエルが手元で聖書をパタンと閉じる。
拷問というつもりはなかった。
感情が昂って、冷静な判断ができなくなっていたのだ。
追っているスパイが彼かもしれないと気づいた瞬間から、動揺で目眩がしそうだった。
混乱した思いが、あの場での彼の冷たい態度で爆発したのだと思う。
「いいんですか? スパイの名前が “ダニエル・ハミルトン” だとまだ報告してないんでしょう?」
ダニエルが言う。
アレクシスは目を見開いた。
そのことをもう知っているのか。
彼の「雇い主」の情報網が優秀なのか、それとも彼の情報収集力がよほどすぐれているのか。
どうりで昨日の今日で平然と礼拝に出ているはずだ。
「……裏もとれていないことを報告するわけには」
「自白したはずですが」
ダニエルが答える。
アレクシスはしばらくダニエルの細身の背中を見ていた。
あの背中が、きのうの夜は冷たいコンクリートの床で反らされ官能的にもがいていた。
「死刑制度が廃止されたといっても、国家反逆罪と海賊行為、軍内の重要な背任は例外だ。自白くらいで確定するわけには」
「その法律でいえば、スパイの顔も名前も知りつつ報告しないあなたも背任で極刑だが」
ダニエルがくるりとこちらを向いた。
口の端を上げてクッと笑う。
「それとも、軍事法廷でいっしょに有罪になるか? アレクシス」
アレクシスはしばらくダニエルの顔を見すえていた。
祭壇のまえで「有罪」などと口にされると、ほんとうに最後の審判の御使いに見えてくる。
きみが天国に連れて行ってくれるのか。
冗談めかしてそう返そうかと思ったが、本音すぎて口に出すのはやめた。
どう答えようか。
「いまは泳がせているだけだ」とでも言うか。
それをスパイ容疑の本人に言うのか。バカか。
混乱した思考をくりかえすうち、彼の唇に視線を固定してしまっていたことに気づいた。
唇にやわらかい感触を覚える。
つい口づけてしまったと気づいた。
うす目を開けると、ダニエルは苦笑してじっと口づけに応じていた。
何を意味する苦笑なのか。
いつもならここで舌をからめ、深く長く唇を重ね合う。
さすがにそういう気分にはなれなかったが。