TU ES MENDAX ROSA うそつきの薔薇 II
アナログで残しておくべき書類の作成と、銃の訓練。
軍施設に出勤しなければむずかしい仕事を一通り終え、アレクシスは施設の玄関口を出た。
目の前にある時計塔は、午後一時半。
その辺で食事でもと街を見回す。その後はどうしようかと考えた。
帰宅してもいいが、ダニエルの香りの残るあの部屋に帰るのかと思うと鬱になる。
彼のいたカトリック教会もここから歩いてすぐだ。
時間が合うときは、連絡をとり合っていっしょに食事に行くこともあった。
街を歩いてすら残像を追ってしまいそうだと目頭に手をあてる。
昼すぎなので人通りはさほど多くない。
超高層ビルに囲まれながらも、十九世紀のクラシックな建物群を一部に残した街なみ。
通りすぎる二階建てのバスは、一時赤字になり廃止されかかったが観光名物として残された。
街を行きかう人々がすべて怨めしい。
あの女の子もあの男性もあの老人も、美青年スパイにハニトラを仕掛けられての失恋などしたことはないだろうなと思うと妬ましくすらなる。
初恋の相手によく似たしぐさで誘われて、「くっついて寝ればいい」などと甘い声で言われて。
毎晩密着されて眠られる生活を一年間つづけたかと思えば、とつぜん「たいした情報もなくてがっかり」などと。
どうせそんな失恋をしたやつはここにはいないだろう。
自分でも何をしているのかよく分からない八つ当たりを脳内でグチグチと続けた。
脳に埋めこまれたブレインマシンから通知の知らせが入る。
半世紀以上まえの携帯電話やスマートフォン、それに続く多機能通信機器として開発されたものだ。
開発された当初には、脳に埋めこむということに忌避感を覚える人もかなりいたと聞くが、素材的に害のないものが開発されて現在では一般的なものとなっている。
こめかみに手をあてる。
脳波を受けとりブレインマシンが起動すると、視界のやや右よりの空中に「通知一件」との表示が出た。
本人にしか見えない文字が空中に表示されるのは、脳が幻覚を見せる仕組みを応用している。
右よりに出るのは不意の事故を防ぐため。利き目により右よりと左よりに切りかえる機能がある。
通知を開く。
ダニエルが勤務していた教会の礼拝のお知らせだったと分かり、よけいにげんなりとなった。
超高層ビル群を背景にした古い教会は、十九世紀に建てられた大きな時計塔の近くにあった。
歴史的建物地区としてあえて残された古い建物群の一角。
国会議事堂を兼ねていた時計塔が、いまは真向かいの七十階建てのビルに機能を移転し完全に観光向けの建物になってしまったのにたいして、この教会はいまだ日常の場として機能している。
いまどきは、無宗教だと堂々と口にする人間も多い。
アレクシス自身もとくに祈りの習慣はない。
そんな時代に聖職者という職業につく人間というのは、ある意味で尊敬する。
一年前、この近くのコーヒーショップでダニエルに声をかけられた。
クリスマス礼拝のお知らせがプリントされたチラシをさし出し、「いちど来ませんか」とにっこりと笑いかけた。
チラシとは古風だなと思ったが、ホームページからフォローしてくれれば次回からはブレインマシンに礼拝のお知らせを送信すると説明された。
チラシをさし出したしぐさが、おなじ軍の施設で育った初恋の子に似ている気がした。
軍の初等部でいっしょだったのは一時期だけなので、その後はべつの教育過程に進んで違う部署に配属されたのだろうと思っているが、いまだにどこの部署なのか分からない。
こんなふうな金髪のかわいい子だったなとつい面影をかさねてしまい、退勤後にふらりと礼拝を覗きに行ってしまった。
礼拝のあと「どうでした?」とダニエルが話しかけてきた。
信者でもないし答えにくいなと困惑していたところ、唐突にダニエルがキスをしてきた。
つぎに言ったセリフが「今日、家に行ってもいい?」だった。
ずいぶんと積極的な司祭だなと思ったが、初恋の子と再会できた気分を少しだけ味わってみたくなった。
あれは、作戦だったのか。
こちらの初恋からその後の恋愛遍歴、好みの人間から性癖まですべて調べた上でのアプローチだったのか。
教会の玄関先につくと、繁華街の陽気なクリスマスソングが聞こえてきた。
二十一世紀最後のクリスマスということで商戦も盛り上がっている。
古風な茶色のドアをしずかに開けた。
礼拝はすでに始まっているらしく、しずまり返った礼拝堂に司祭の声が響いている。
祭壇のまえに立つ司祭に視線を向け、アレクシスは身を固まらせた。
目を伏せ、清廉な雰囲気で滔々と聖書を読み上げているのは、ダニエルだった。