TU ES MENDAX ROSA うそつきの薔薇 I
今世紀前半に起こったパンデミックで、オンラインでの勤務は急激に発展したと軍の教育過程で習った。
しかしいまだ定期的な出勤は存在する。
業界の団結力を促すには、ある程度の顔見せは必要というのが最近の専門家の意見の主流だ。
国家の防衛をになっている軍なら、なおのことらしい。
いずれにしろ、ダニエルは教会に毎日出勤していた。こちらが自宅勤務をしたところで、一日中いっしょにすごせるわけではない。
そして、いまはいまで出勤というものがあるのがありがたかった。
あのまま自宅で悶々とダニエルの残像を追っていたら、どうにかなりそうだ。
軍施設の入口に設置してある虹彩認証の小さなパネルに、アレクシスは顔を向けた。
かすかな機械音がして、数万箇所におよぶチェックポイントが表示される。
腰のあたりの位置にある指紋、汗成分、遺伝子解析用のパネルが同時に反応する。
解析が終了するまではほんの二秒ほどだ。なにげに周囲を見回した。
「パガーニ大尉」
真横からあわただしい靴音がする。
建物まえの階段を駆け足でのぼり、ちょうど開いたガラスドアから先に入ろうとしたのは、ジョシュア・ローズブレイド。同僚だ。
「おまえ……」
アレクシスは顔をしかめた。
自身の認証をやらんで他人の認証で入ろうとか。
「二秒がそんなに惜しいか」
アレクシスは早足であとを追った。同僚の細身の背中に向けて咎める。
あわい栗色の短髪に童顔の顔立ち、華奢な体型。
こうして見るとダニエルに特徴が似てるなとつい考えてしまい、いかんと顔をそらす。
「出入口での認証にいちいち二秒ずつかけるとか。緊急事態のさいはどうするんですかね」
ローズブレイドがそう言い肩をすくめる。
「侵入者がノコノコ入りこむという緊急事態にそなえているんだろう」
「今世紀初頭のサイバー黎明期ですら、スパイ活動の四十五パーセントはサイバー上だった。いまや八十パーセント以上」
廊下を歩きながら、ローズブレイドが外套を脱ぐ。
「わざわざ敵陣に入りこむスパイなんて、いまどきいますかね?」
「裏をかくのが諜報では?」
アレクシスは答えた。
自身がついきのうまで裏をかかれまくっていたかも知れないのだ。そこまで考えてしまい、眉をよせる。
「ゆうべ追いつめたスパイも、サイバー工作をたどって行ったらという感じだったでしょ?」
コツコツと歩を進めながらローズブレイドが言う。
アレクシスはとくに答えなかった。
ここのところ続いていた軍の回線へのクラッキング。
端末をつきとめたら、そこから逃げだしたのがダニエルだった。
金髪にカトリックの司祭服、見慣れた細身の体。
遠目だったがまさかと思った。
「ちょうどよかった。ゆうべスパイの顔見てますよね?」
ローズブレイドがふり返る。
アレクシスは、目を見開いて同僚の顔を見つめた。
「パガーニ大尉が追って行ったと応援の中尉が言ってたけど、報告書作成しなきゃならないんで」
ああ……とつぶやいて、アレクシスはふたたび顔をそらした。
「……顔は見ていない。外灯もろくになくて暗かったからな」
「そうですか」
ローズブレイドは外套を腕にかけ廊下をカツカツと進んだ。
これは背任行為だろうか。いやな汗が出る。
とりあえず今だけだ。
何日かのあいだにダニエルを見つけだして、もういちど問いただして。
「血痕を採取してDNA解析に回しておいたんですが、外国人だとするとデータ検索するさいに本国に妨害されるかな」
ローズブレイドがつぶやく。
アレクシスは顔を強ばらせた。
そういえば、ダニエルの国籍はどこなのか。
何の疑いもなく自国の人間だと思っていたが、もしそうだとするとすぐに身元が割れる。
「血痕では……スパイ本人のものかどうか分からないのでは」
アレクシスは、口元を緊張させつつ答えた。
「たとえば、逃げる途中に通行人と接触してケガをさせたとか。必死で逃げるならありえると思うが」
「なるほど」
ローズブレイドが答える。
「同時刻に路上での負傷の報告はなかったか、そちらも確認してみますか」
「ああ……いや」
アレクシスは同僚の言葉をさえぎった。
自分が代わりに調べると言おうかと思ったが、一般の負傷者などでっち上げたら逆にダニエルの罪状を増やしてしまう。
かといって自身の血痕だとここでも言えば、生まれた時点で軍に遺伝子情報がすべてそろっている立場上、一瞬でウソがバレる。
「……軽症だと、わざわざ報告しない人間も多いからな」
「しかし不審な人間にケガをさせられたとなったら、ふつうは保安局に通報しませんか?」
ローズブレイドが答える。
鑑定作業の部署に手を回さなくてはならないだろうか。
廊下を歩きながら、自分は何をやっているんだとアレクシスは眉をよせた。