PACTA SUNT SERVANDA 合意であなたを拘束する
この国で、諜報や防諜を行う機関はいくつかある。
首相直轄の特殊作戦執行部、外務省管轄の情報局と情報局保安部、政府通信本部、内務省管轄の国家犯罪捜査局、そして軍部に属する国防情報参謀部。
関連の機関となるとそれぞれにいくつかあるが、主な機関はこんなところか。
なかには軍部で育った人間が配属されている機関もある。
夜間勤務の日。
オフィス内の同僚がほとんどいなくなった時間帯を見計らって、アレクシスはダニエルの膨大なDNAデータをPCの検索エンジンにコピペした。
“該当するデータなし” の表示が出たら、その上から自身のIDを書きこむ。
それをひたすら繰り返してみた。
これで何かが出るだろうか。
どこの機関が逮捕または接触してくるかで、このデータを機密にしたい省庁が分かる。
それさえ分かれば、機密にされている理由は見当がつけられるはずだ。
他国のスパイのデータを機密あつかいにする理由は何か。
ダニエルが答えないのなら、これしかあるまい。
カシャ、カシャと古典的な内蔵音を立てて、アレクシスはひたすら空中のキーボードを操作した。
基本的にはIDを書きこみ、また書きこみの繰り返しなので数十回もくりかえすと飽きてくる。
頬杖をついた。
惰性で指先を動かす。
何となくむかしからあるホラー話を思い出すなと思う。
古城で特定の行為を決められた回数行うとゴーストが出るとか出ないとか、そういうたぐいの。
書きこみ、また書きこみ。
徐々に冷静になってきた。
いまの自分の姿を想像して、うっすらとバカらしくなる。
おなじ検索をしつこくやっているくらいで、果たして実働部隊をよこす機関はあるのか。
不意にそう思ってしまい手を止めた。
仮眠をとっていた同僚がオフィスにもどる。
入れかわりで仮眠をとるか。そう考えた。
共有のディスプレイにある出勤名簿の表示を「勤務中」から「仮眠中」に書き変える。
席を立った。
オフィスを出て、LEDのあかりで煌々と照らされた廊下を横切り、トイレに入る。
用を足してトイレから出ようとすると、とつぜんトイレ内のあかりが消えた。
周囲を見回す。
停電だろうかと眉をよせる。いまどき聞いたことはない。
窓から見える施設内の照明灯は無事だ。
トイレ内だけなのか。
ふいに、背中に硬いものがあたる感触を覚えた。
同時にかすかな靴音と人の気配。
だれかがうしろにいると気づいた。
背中にあたっているものは銃か。両手を挙げる。
「機関名は?」
アレクシスが問うよりさきに、背後の人物がそう質問した。
それはこちらのセリフだとアレクシスは内心で返した。
もし狙いどおりスパイの疑惑を持たれたのなら、この質問はごもっともだが。
若い男性の声だ。
声の聞こえる位置から察するに、背丈は自身よりやや低めなのだろうか。
わざと身体をかがめている可能性もあるが。
「そちらこそどこの機関だ。ここは陸軍の施設内だが」
「聞かれたことだけに答えろ」
背後の人物が、抑揚をおさえた声で言う。
「……機関は国防省AFC。所属は陸軍」
軍部の通称ではなく、公文書に記されるほうの名称でアレクシスは答えた。
「アレクシス・パガーニ大尉」
背後の人物がそう口にする。
もう氏名と階級を知られていたのか。
手を挙げたまま、アレクシスはイヤな汗をかいた。
軍の施設内だ。さきほど「仮眠」と書いてきた共有の出勤名簿を見ても、氏名などかんたんに分かる。
「……何のわけで私は銃なんか突きつけられているんだ。きみは強盗か何かか」
アレクシスは惚けてそう問うてみた。
背後の人物は黙っていた。
じっと後頭部を見すえられている気がする。
「きみこそどこの機関だ?」
「パガーニ大尉」
背後の人物は、抑揚のない声でもういちどそう呼びかけた。
わざと特徴のつかみづらい話し方をしているようだ。
素性を知られないようにか。
なぜかくす必要があるのか。
そもそもこの背後の人物は、どうやって軍の施設内に入ったのか。
いくらおなじ国内機関でも、ちがう機関の人間が施設玄関のDNAチェックを通ることはできない。
事前に一回のみの登録をすることになる。
外部から来訪者があるさいはブレインマシンに連絡事項として入ってくるものなのだが、連絡はあっただろうか。
ふと一つの答えに行きあたり、アレクシスは動揺して手をゆらした。
うしろに突きつけられた硬いものが、グッと押しつけられる。
もともと、おなじ施設内にいた。
その考えにたどりつき、目を見開く。
背後にいるのはおなじ陸軍の人間か。
しかも素性を隠したがるということは。
「……機関は国防省AFC。きみも陸軍の人間か」
アレクシスはそう問うた。
背後の人物は、何も答えない。銃口と思われるものをさらに押しつけて身体をよせる。
「あなたがスパイとつながっていることは、すでに把握している」
心臓に冷水を流しこまれたかのような、きつい悪寒と緊張感を覚えた。
血の気が引くのを感じる。
「いまのところは情報漏洩にもならないレベルなので見逃すが」
目眩がしそうなほどの動揺をこらえつつ、アレクシスは懸命に頭を働かせた。
ダニエルに流した「情報」がすべて知られている。
それとも鎌をかけられているのか。
「何のことだ」
アレクシスは、いちおうそう惚けてみせた。
背後の人物が声をひそめる。
「恋人が心配なら、余計なことはしないほうがいい」
アレクシスは頬を強ばらせた。
「十数えるまでふり向くな」
背後の人物がそう告げて背中から離れる。
かすかな靴音を立てて出入口へと遠ざかった。
明かりがつく。
どうする、とアレクシスは白いタイルの床を見つめた。
銃は。
ロッカーのなかか。
逆らって顔を見るのはかんたんだが、ダニエルにとばっちりが及ぶだろうか。
出入口のドアが開閉される音がする。
アレクシスは手を下ろしてゆっくりとふり向いた。
陸軍の諜報担当だ。おそらく。
国防情報参謀部に属するも、ふだんは一般の将校にまぎれて軍内部にいる。
こちらの諜報員は、すべてつかんでいる。
アレクシスはもういちど血の気が引くのを感じた。




