INVASOR РОЗА 侵入者ローズ I
ロッカー室を出て行くローズブレイドの背中をながめる。
一人になると、アレクシスはダニエルに頼まれたことに考えをめぐらせた。
IDか、とため息をつく。
そんなものをどうやって盗めばいいのか。
こちらは諜報活動など教育課程でも教わっていないし経験もない。
士官課程に入課と同時に准尉という階級があたえられ、そのさいに将校としてのIDが発行される。
単にIDを忘れるな、他人に知られるなと教えられただけで、盗む方法など。
けさ出勤してから、ずっとローズブレイドの動きをちらちらと伺っていた。
その目線のせいで変な誤解をされたわけではないだろうなと思う。
盗む方法をダニエルに聞けばいいのか。
使えない手先だとあきれられるだろうか。
あれからまた以前のようにダニエルはこちらの自宅に泊まり、以前と同じように誘ってくる。
いまだ役には立てていないだろうに。彼にとっての報酬とはいったいどこからなのか。
トレーニング用の服に着替え、ふいにアレクシスは眉根をよせた。
まさか「報酬」ではなく、彼の性欲処理をさせられているだけか。そんなことに思いいたる。
役に立たん犬だから、せめて楽しませろと。
ロッカーの扉に手をついて、アレクシスはうなだれた。
自分の存在は、彼にとっていったい何なのか。
ロッカー室出入口の自動ドアが開く。
だれかが入室した靴音が背後から聞こえる。アレクシスはそそくさと体勢を戻した。
なにごともなかったかのようにロッカーをさぐり、洗いざらしのタオルをとりだす。
「これからトレーニングかい? アレクシス」
聞き覚えのあるテノールの声。
タオルを首にかけつつ、アレクシスは目を見開いた。
ダニエルの声にそっくりだが。
まさかと思いふり向く。
アレクシスとおなじ軍服を身につけたダニエルがいた。
顔をかくすためなのか軍帽をやや顔のほうにかたむけてかぶり、軍服は通常勤務時の常装。
襟についた階級章は、こちらの軍の陸軍少佐のものだ。
「おまえ……」
腕を組んで向かいのロッカーに背をあずけた姿を、アレクシスは呆然と見つめた。
「どうやって……」
軍施設に入るさいは、遺伝子や虹彩などいくつもの生体認証をチェックする。
外部の者に強要されたさいにそなえて、汗の成分や心音、脳波までチェック項目に入っているのだ。
「施設入口のチェックは。どうやって入った」
「裏をかくのが諜報だろう? 陸軍大尉」
ダニエルがこちらに手のひらを向けてヒラヒラと振ってみせる。
数日前に自身が言ったセリフにそっくりな気がするが、ダニエルがいない場所で言ったものだ。
偶然だろう。
「ジョシュア・ローズブレイドと廊下ですれ違ったよ」
ダニエルがわずかに首をかたむけて、すれ違ったと思われる方向を見る。
「近くで見るとやっぱりアレクシス好みだな。彼とはもう寝た?」
ダニエルが上目遣いでこちらを見つめる。
「そんなことはしてない」
「そ。よかった」
ダニエルが長い睫毛を伏せる。
「寝てたら殺すところだった」
サラリとした言い方に、彼の本性が垣間見えた気がする。
アレクシスは背筋にひんやりとしたものを感じた。
「おまえ……浮気くらいで」
「あなたを殺すとは言ってない。あっちだ」
ダニエルは廊下の方向に顎をしゃくった。
「どっちでも同じだ」
アレクシスは咎めた。
「IDは、やはり私のものを使うということではだめか」
そう問うてみる。
いまだ国家と軍を裏切ることに迷いは残っていた。
彼の任務に支障がない範囲で妥協してもらうことはできないのか。
「ベッドでの説明聞いてた? アレクシス。あなたのじゃ無意味だ」
ベッドでとかいちいちつけるなと思う。
「ゆっくりと、できる限りでいいよ」
ダニエルが口調をやわらげる。
アレクシスは目を眇めた。
「……ずいぶんとゆるいスパイ活動だな」
「チェルカシア軍の上層部はゆるいよ。ネットの一般の検索でふつうに出てくる軍事情報をコピペしてレポート提出しても勲章がもらえる」
ダニエルは肩をすくめた。
そういうことを言ったのではないのだが。
上層部批判だろうか。
どこに本音があるんだか。
ロッカー室出入口のドアが開く。
「あら……」
ヨークだ。
室内に足を踏み出しこちらを見る。
「男性用ロッカーだぞ、ヨーク中尉。セクハラだ」
「シャワー室にこられるよりましでしょう?」
気の強い調子でそう言い返すと、ヨークはダニエルのほうを見た。
じっと見つめる。
まずいとアレクシスは思った。
彼女はスパイとしてのダニエルも恋人としてのダニエルも見ている。
ましてここは軍施設内だ。
なぜいるのかと問われたら、言い訳もできない状況ではないか。
「ヨーク中尉、とりあえずいまは廊下に……」
ダニエルの様子を伺いつつ、アレクシスは彼女を廊下のほうに促した。