SUB ROSA 薔薇の下──秘密を共有する Il
マーケットのなかにある行きつけのレストランは、外の喧騒とは打って変わってしずかな雰囲気だ。
せまい店舗だが、ジャズ音楽がゆったりと流れて心地いい。
落ちついたアースカラーの店内。
ダニエルは奥のほうにスタスタと進み、窓ぎわの席へと向かった。
「ダニエル」
アレクシスは小声で呼び止めた。
彼の腕をつかんで、自身のほうに引きよせる。
「窓ぎわなんてだれに見つかるか。奥に」
「よけいにあやしまれるよ、アレクシス」
ダニエルが微笑してこちらを見上げる。
「いやしかし……」
「ヨーク中尉に会ったら、僕のこと紹介していいよ。ダニエル・ルースでもハミルトンでも好きなほうで」
「……それでおまえに身の危険はないのか」
「大丈夫」
ダニエルがこちらの顔をじっと見つめた。ふいに唇の端を上げてニッと笑う。
「守ってくれてありがとう。大好きだよ」
そう言い派手なしぐさでアレクシスの首に抱きついた。
せまい店内の通路にも関わらず、きつく抱きしめる。
ほかの客たちが何ごとかとこちらを見た。
恋人同士の抱擁だと理解すると、ニヤニヤしたり口笛を吹いてきたりする。
「や……やめろ。目立つ」
アレクシスは困惑して顔をゆがめた。
「どこまでが大丈夫かは、僕のほうが知ってるよ。アレクシスは僕の指示に従って」
ダニエルが耳元でささやく。
言われてみれば、スパイ活動に関してはダニエルのほうが本職だ。
こちらは教育機関で概要を習ったにすぎない。
「わ……分かった」
ダニエルの腕と頬に顔をはさまれ、アレクシスはおとなしくそう返事をした。
薔薇とシトラスの香りが鼻孔をくすぐる。
今日は香りをつけているのか。
とたんに夜のことまで期待してしまう。こんなところでと自身を嗜めた。
「……ともかく食事しようか」
「そうだね。とりあえず」
ダニエルが、スッと離れる。
何ごともなかったかのようにレストランの通路をスタスタと歩きはじめた。
女性だけのグループが、ダニエルを目で追う。
マイペースでちょっとしたイタズラが好きなところは、あいかわらずだなと思う。
あと少々奔放なところか。
彼がスパイだと発覚してからはギクシャクした関係がつづいていたが、寝返ることでもとの間柄に戻れた。
これでいいかと感じている自分がいる。
彼が任務を終えるまでのあいだ、もういちど仲のいい恋人同士として過ごせるなら。
どんどん価値基準がずれているのは自覚していた。
迷いはあるのだが。
ダニエルが窓ぎわの席に座り、注文用の装置の起動パネルにふれる。
空中に、湯気のたつ料理の立体画像が映しだされた。ダニエルが指を左右に動かすたびにべつの料理の画像に入れかわる。
けっきょく窓ぎわの席なのかと思いながら、アレクシスはおなじテーブルに着いた。
「精力がつくのはニンニクだっけ」
ダニエルが頬杖をついて言う。
「……このまえ二回も三回もしてたのにまだ精力が要るのか」
「僕じゃない。アレクシスだよ」
機嫌のよさそうな表情でダニエルが言う。
今日は何回求めるつもりだ。アレクシスは眉をよせた。
マーケットには食材を売る店が多いが、大半は飲食店向けのものだ。
一般で自炊をする人は少ない。
雑に山もりにされている果物や野菜類をガラス窓ごしにながめつつ、アレクシスはダニエルとならんで駅へと向かっていた。
肉を売る店もあるが、細胞を培養させて造った人工肉だ。
一世紀まえにとある国が試験的に市販したさいには気味悪がられたそうだが、現在ではむしろほんものの動物を捌くという発想のほうが気味悪がられる。
軍人といえど、いまは死体を見た経験のある者はほとんどいない。
おそらく他国の軍人も似たようなものだろう。
軍の重鎮の葬儀に参列したことはあるが、死体を見たことがあってもせいぜいきれいに整えられた遺体だ。
調味料をそろえた店のまえに差しかかる。
「さっき言ったダドリー大尉だけどさ」
店内の調味料の棚をガラス越しにながめて、ダニエルが口を開く。
「ソイソース好きなんだよね。フィッシュ・アンド・チップス食べるときもそれだって」
さきほどのアンブローズとやらか。
アレクシスは顔をしかめた。
ダニエルの周囲の人間について、ようやく話が聞けたと思ったらなぜその男の話ばかりなのか。
過去に関係していたとか。
調味料の好みを知っているということは、同棲でもしていたのか。
モヤモヤしてきたとアレクシスは感じた。
ダニエルの両肩をつかんで過去の恋愛遍歴と結婚歴の一切合切を吐かせてやりたいところだが、それをやれば確実に嫌われるだろう。
「ああ……そういえば」
マーケット街と大通りの境目の道筋に差しかかる。
駅はこの通りの先だ。
何でもいいから話を変えようとアレクシスは切り出した。
「おまえのマンション、食事ができる店が入ってないところだったな。諜報活動に支障が出るからか?」
「うん? べつに」
ダニエルが目を丸くしてこちらを見る。
「たまたま」
「たまたまなのか」
ほんとうにそうなのだろうか。
それとも、はぐらかされたのか。
「……裏切ることはしないから、事情があって選んだところなら説明してくれたほうが」
スパイに協力してると考えると、とたんに周囲の人の視線が気になる。
アレクシスは、そわそわと軍服のポケットに手を入れた。
それでも落ちつけずに内ポケットから煙草のソフトパックをとり出す。
一本を引き出し、口にくわえた。
こういったところが、自分は諜報向きではないということか。
人をあざむくことも苦手なら、ダニエルのように隠しごとをしつつ平然としているのも苦手だ。
ダニエルがくすくすと笑いだした。
「警戒するポイントがぜんぜん違う。必要のないところを警戒して、肝心なところが抜けてる」
アレクシスは眉根をよせた。
「そこがアレクシスはかわいいんだけど」
「か……」
アレクシスは煙草を指で挟んだまま固まった。
かわいいというタイプではないだろう。どこを見て言っているのか。