SUB ROSA 薔薇の下──秘密を共有する I
昼すぎ。
空気は冷えていたが、雪はまだ降っていない。
アレクシスは、ダニエルの勤務する教会入口のドアから礼拝堂を覗いた。
以前ダニエルが姿を消したさいに話した若い教職が、チャーチベンチ横の通路からこちらを見る。
アレクシスはさり気なく顔を引っこめ、外壁に背をあずけた。
目つきが分かりにくいサングラスは、こういうときにほんとうに便利だ。
クリスマスまえから当日にかけて、教会側にはずいぶんと不審な様子を見せてしまった。
フラれた軍人が別れ話に納得できずにストーカー化しているとさぞや想像されていただろう。
あのときよりもダニエルとの関係はずっと不穏なものになってしまったが、心理的には落ちついているのが自分でも可笑しかった。
国家と軍を裏切ったのに、その原因になった恋人が関係を続けてくれて安心しているのだ。
バカかと思う。
軍服の内ポケットをさぐり、煙草のソフトパックをとりだす。
一本くわえて、唾液で火をつけた。
「アレクシス」
礼拝堂の扉が開いてダニエルが顔を出す。
司祭服に合わせた黒い外套をはおり、襟をおさえて扉を閉めた。
「今日はあと帰宅か?」
そう問うと、ダニエルがうなずく。
以前ならいっしょに食事をしてアレクシスの自宅へというのが定番だったが、ヨークがスパイと同一人物ではないかと疑っている節があるのだ。
街なかでの食事はやめるべきなんだろう。
「今日もこちらに……」
泊まるのかと言いかけて、アレクシスは口ごもった。
彼との情交イコール情報漏洩の謝礼ということになるのだろうか。
やはり以前のようなつきあい方はムリか。
「今日も行っていい?」
ダニエルがそう問う。
猫のような大きく魅惑的な目で見上げる様子は、以前と同じだ。
アレクシスは複雑な気分で見下ろした。
「……たのまれたIDは、どちらもさぐれなかったんだが」
一転して拒否されるのを承知でそう告げる。
「いいよ」
ダニエルがそう答える。
いいのかとアレクシスは拍子抜けした。
彼にとっては、たぶらかして手先にしたてた男への報酬はどういう基準なのか。
「じゃ、食事行こうか」
ダニエルがレストランのならぶマーケット街の方向に歩を進める。
「あ……いや」
アレクシスはあわてて背をあずけていた外壁から離れ、ダニエルを引きとめた。
「同僚がおまえの特徴を上に報告した。たびたび私と食事してたのも見てたようだし、人目につく場所はとうぶん行かないほうが」
「キルスティン・ヨーク中尉か」
ダニエルが微笑する。
アレクシスは目を見開いた。
「……もうチェルカシア側に情報が?」
「倉庫に応援で駆けつけたショートカットの美人だろう? とっくに把握してる」
アレクシスは複雑な心持ちになった。
彼に女性を美人だと評する感覚があったのか。
女性も恋愛対象なのかと聞いたことはなかったが、何となく興味がないのだと思っていた。
「顔は見てないんだろう? 何とでもごまかせる」
ダニエルがこちらの両肩に手をかけ口づける。
「情報提供ありがとう、アレクシス。愛してるよ」
アレクシスは、軽く唇を食んで離れていく唇を惚けて見つめた。
「いや……」
口に手をあてる。
「煙草のハッカの匂い……しなかったか?」
「したよ」
ダニエルが答える。
何でもないことのように言われると、こちらが照れる。
一年間、ほとんど同棲に近い感じで過ごしていたのだ。こんな程度のことは、いまさらなんだが。
「まえは煙草なんて吸ってなかったよね?」
ダニエルがならんで歩きつつ尋ねる。
「士官課程のときに少し覚えた。このまえ久しぶりに吸ったら、まあ」
「……僕が会ってなかった時期か」
ダニエルがつぶやく。
文法がおかしくないか。たまたまか。「僕と」ではないのか。
まあいいかと思いながら、アレクシスは水蒸気の煙を吐いた。
「僕の同僚に、“よくハッカ入りなんか吸うな” って言ってた人がいたな」
ダニエルがそう言った。
大通りに出る。
車や人があわただしく行き来し、中世の雰囲気のある教会周辺から一転、現代に引きもどされる。
「ハッカ嫌いなのか、その人」
アレクシスは顔を横に向け煙を吐いた。
「あんまり話しをする機会はないけど、そうなんだろうね」
ダニエルがくすりと笑う。
そいつは男か、と内心で問いただしてアレクシスは目を眇めた。
もしかしたら女性も警戒しなければならないのかも知れないが、とりあえず男が恋愛対象なのは知っている。
「アンブローズ・ダドリー大尉って人だけど」
「へえ……」
アレクシスは、平静をよそおい二本指で煙草をはさんだ。
アンブローズ……男性名だ。
眉をよせる。
「最近、除隊になったけど」
ダニエルがそう続けた。
「チェルカシアの軍隊は、除隊があるのか」
「まあ……」
大通りのほうをながめて、ダニエルが曖昧な口調で答える。
二十二世紀最初の新年を祝う商戦はクリスマスのときほどには騒がしくなく、街の飾りつけもいくらか落ちついた感じになっている。
「志願して軍に入る形か。まあ、それがいまだ主流だが」
アレクシスはそう言ったが、ダニエルは大通りの向こう側を見たままとくに答えなかった。
「ほかの教職たちは……チェルカシアの人間か?」
「あれはここの国の人たちだ。ふつうに教職試験を受けて採用されてるほんものの教職さんだよ」
組んだ手をまえに伸ばし、ダニエルが軽く伸びをする。
「……単独行動か」
内ポケットをさぐる。携帯用灰皿をとりだし、アレクシスは灰を落とした。
「単独行動だよ」
「……信じていいんだな」
アレクシスはそう問うた。
「アレクシスにウソなんかつかないよ」
いままでめいっぱいついてたくせに。
アレクシスは眉をきつくよせた。
「あれヨーク中尉かな」
ダニエルが大通りの向こうをながめてつぶやく。
アレクシスは、とっさに恋人の頭部をつかみ自身の胸元に押しつけた。
ダニエルの顔をかくすために、抱きしめているふりをする。
ダニエルがくすくすと笑った。