PARADOXON パラドックス
ダニエルが礼拝堂から姿を消して三日。
ここ三日はきれいに晴れた日が続いている。
屋上のイングリッシュガーデンで煙草をくわえつつ、アレクシスはドームの外の青空を見上げた。
ケガは大丈夫だろうか。
あれから一週間は経っているのだ。傷口が開くということはないだろうが。
教会のほうは有給休暇をとっているとのことだった。
司祭に有給休暇があるのかとアレクシスは少々引いたが、無休で仕事をさせれば雇用法に抵触してしまうのは、聖職者でも同じらしい。
あすになればまた新年の礼拝の準備でいそがしくなるので、この時期の有給休暇は早い者勝ちなのだと若い教職が言っていた。
ということは、あすになればまた教会に姿を現すのだろうか。
本国に帰ってしまっていたのだとしたらどうする。
スパイ活動のかくれ蓑として身を置いていた職場など、あとはどうでもいいのでは。
アレクシスは小さく舌打ちした。
姿を消したと同時に、出国を阻止するほうに手を回すべきだったか。
軍の権限を使うわけにはいかないので足止めをすることはできなかっただろうが、行き先の把握くらいはできたはず。
さっさと空港に行っていれば。
やはり冷静さを欠いている。
アレクシスは煙草を指でおさえた。
「パガーニ大尉」
ショートカットの女性将校がカツカツとパンプスの音をさせ近づく。
キルスティン・ヨーク。
ダニエルを追いつめたさいに、倉庫に応援を率いてきた同僚だ。
「ローズブレイド大尉がさがしてましたが」
「ああ……」
アレクシスは気だるく返事をした。
「さっきからブレインマシンにずっと着信と出てる」
こめかみをつつく。
「先日のスパイの報告書のことで相談したいとか」
スパイの顔は見ていないと言ったのに。アレクシスは顔をしかめた。
ローズブレイドは、現在の階級は同じだが教育過程では二年下だった。
こちらが二年早く実務に就いたということで、いまの部署にきたさい面倒みていた経緯はあるが。
「一人で報告書も書けないのか」
アレクシスは煙草をくゆらせた。
「大尉が好きなんじゃないですか? 彼」
ヨークがそう答える。
アレクシスは無言で眉をよせた。
「同性婚は一世紀まえに認められてますし。軍もとくに制限はしてないですし」
「……屋上まで結婚の斡旋にきたのか」
アレクシスは、内ポケットから携帯用の灰皿をとりだし灰を落とした。
「スパイの件はそもそも私の任務ではなかった。べつの任務でいた場所が、つきとめた端末に近いようだというから」
「わたしもです」
ヨークが答える。
「パガーニ大尉」
ヨークが声をひそめる。
「金髪の教会の司祭と、よくお食事してませんでした?」
アレクシスは、くわえ煙草で目を眇めた。
心臓の音が速まったが、平静を装う。
ダニエルとのことは、べつに隠していたわけではない。二人で昼食の時間を合わせて外食することはたびたびあった。
「してたが」
アレクシスは答えた。
「それがどうかしたか」
ヨークは無言で出入口のほうをながめていた。
「あれはお友達かなにかですか?」
「もう別れた」
アレクシスはそう答えて煙草を指でおさえた。
「パガーニ大尉」
ヨークがもういちど呼ぶ。
女の勘のよさが半端ないのは知っている。女に言わせれば、男が鈍すぎるんだそうだが。
あのとき彼女は、ダニエルの逃げる姿を見ていた可能性がある。
金髪と司祭服という共通点は、否定してもあやしまれるだけだろう。
ダニエルのやつ。
わざわざ分かりやすい司祭服で逃げたのは、私をおとしいれるためではないだろうなとつい考える。
「パガーニ大尉、わたしは軍の施設内にもスパイが潜入してる可能性があると思っています」
アレクシスは平静を装い煙を吐いた。
「頻発してるクラッキングは、おおきく分けて二通り。ただ侵入して軍のソフトを反応させているだけのものと、軍のソフトが反応すると接触を断つもの」
「ほぼ同じに聞こえるが……」
鎌でもかけられているんだろうか。アレクシスは煙草を強く吸った。
「痕跡の解析を終えなければ何とも言えませんが、後者は将校クラスのIDに紐つけでもしているような」
アレクシスは眉をよせた。
脳内で話を整理する。
「だれかがIDを打ちこむと、そのIDで入りこんだ機密情報が自動的にどこかに漏れるようになっている。その過程でソフトが反応することもある」
ような、とヨークはつけ加えた。
あくまで推測か。アレクシスは煙を吐いた。
「もしほんとうにそうなら機密を盗み放題だが」
「この仮定が正解だとして、そういう侵入のしかたが外部の一般の端末から可能だと思いますか?」
ヨークがゆるく腕を組む。
「内部にいると思う根拠はそこか」
「ええ」
「で……」
アレクシスは横を向き煙を吐いた。
「スパイがもし万が一私なら、そんな話を聞かせれば警戒させることになると思うんだが」
「パガーニ大尉は違うと信じています」
ヨークが淡々と答える。
アレクシスは苦笑した。
信じているとあえて告げることで、裏切りを躊躇させるという手はアリだと思う。
「……うまいな」
「他意はありません。では、ほんとうに信じている相手にはなんと言います?」
「 “信じている” と」
アレクシスは携帯用の灰皿に灰を落とした。
ヨークが声を上げて笑う。
「やめましょう。パラドックスの議論みたいになりそう」
もっともだと思う。
こういう真意をさぐり合うような会話は苦手だ。
諜報以外の将校は、どちらかといえば実直で律儀な気質の傾向だ。
そういった性格傾向の遺伝子が選別されて生まれている上に、軍の教育でさらに規律やら結束やらを重視する考えをすりこまれている。
だが諜報の担当はむしろ正反対だ。
将校のなかに何割かまぎれているはずだが、気取られたという話を聞いたことがない。
ヨークのいうパラドックスの議論とやらを、日常的にやるような曲者気質なのだろうと推測する。
ダニエルもそうなのか。
いまにして思えば、よくそんな怖いのを毎晩抱いていたなと思う。
「パガーニ大尉」
ヨークがもういちど呼びかける。
「何だ」
「あの日、割れたガラスでケガをしたと言っていましたが……その後に手当ては?」
アレクシスは一瞬だけ動作を固まらせた。
すぐに我に返り苦笑する。
「かすり傷だ。放っておいた」
「だめですよ。あんな放置されていた界隈のガラスなら、細菌感染しかねません。せめて消毒くらいしないと」
「そうだな」
アレクシスは煙草をくわえつつそう返した。
やはり鎌をかけているんだろうか。
きびすを返して去っていくヨークのうしろ姿をアレクシスは見つめた。