UMBRA ROSAE PERSEQUI 薔薇色の影を追って II
地上三十階の古いビル。
アレクシスは軍施設を出て最上階のサイバーカフェにきていた。
ほとんどの人間が脳にブレインマシンを埋めこんでいる時代だが、身元をかくしたやりとりをしたい人間もいるため、こういった店は街のあちらこちらにある。
入口からみて店内の左側は一面大きな窓ガラス。
窓から見えるのは広い公園、その向こう側には大使館街。
遠くまで見渡せてながめはいい。
窓ぎわのいちばん奥の席に歩みよる。
クリスマスの三日まえ、ダニエルがいた席だ。
頻発していたクラッキングの痕跡をたどり、ここの端末だとつきとめて踏みこんだ。
席を立ち逃げて行ったうしろ姿で、すぐにダニエルだと気づいた。
まさかと思いつつも、いっしょに踏みこんだ同僚には裏口へ回れともっともらしい指示をしてダニエルから遠ざけた。
今日もここにいるかと思ったのは、都合がよすぎたか。
席にきてみると、さすが逃げやすい位置を選んでいたのだと分かる。
テロや自然災害が頻発した時期に建てられたこういった古いビルは、臨時の非常口として使える箇所が複数あり、あまりエレベーターなどにはたよらない構造になっている。
ダニエルの座っていた席も緊急時に非常口として使えるドアのすぐそばだ。
アレクシスは席にもつかず、テーブルを見下ろしてため息をついた。
それにしては、と思う。
なぜ分かりやすい司祭服など着ていたのか。
単に着替える時間がなかったのか、それとも意味があったのか。
的外れな疑問だろうか。
カウンターを見やると、店員が怪訝そうな表情でこちらを見ている。
立ったままじっとテーブルを見つめる軍服の人間は、そんなに不審かと眉をよせた。
ダニエルの件があってから、何とも不審がられることが多くなったなと思う。
冷静さを欠いているのか。
ポニーテールのかわいらしい店員が、カウンターを出てこちらに近づいた。
「……お客様」
長身のアレクシスに見下ろされているせいか、おずおずと話しかける。
「ご注文は、PCからになりますが」
店員が椅子の肘かけについた小さなPC起動パネルを横目で見る。
注文のしかたが分からないと思われたのか。
「ああ……ありがとう」
サングラスをかけていたのが威圧的に見えただろうか。アレクシスはゆっくりと外して返答した。
「ここにいた……司祭服の人物なんて覚えてる?」
アレクシスはそう問うた。
「二十二日の夜だが」
ポニーテールの店員は、構えるような表情をした。
軍服で問われているのだ。何か重要な取り調べだとでも思ったか。
「いや……プライベートな質問だ。長年会っていない友人が、ここにいたらしくて」
アレクシスは愛想笑いをした。
友人ではなく、もと恋人だが。
ついダニエルの官能的な夜の姿を思い出す。表情を隠すために外したサングラスをかけた。
「その時間帯、わたしはシフト入ってなかったんで……」
店員が答える。
「そう。悪かった」
アレクシスはそう返してきびすを返した。
身元が割れない方法でネットを使いたい人間の来るところだ。痕跡を残しているわけがない。
何で来たんだとアレクシスは眉をよせた。
エレベーターでこの階に向かっていたときは、ダニエルが伝言でも残していると確信しているかのような、よく分からない興奮状態だった気がする。
やはりいまだ動揺しているのか。
額に指先をあてる。
ダニエルのことからいったん離れて、ほかの子でも誘ってみようか。
ダニエルとはじめて関係した日にドタキャンしてしまった受付の女の子は、まだフリーだろうか。
「あの」
店員が話しかけてくる。
「ここってスパイの人が多いってうわさ、ほんとうですか?」
「え」
アレクシスは小柄な姿を見下ろした。
「ネットでそういう書きこみ見たことあって。大使館街が見渡せるところだからって」
好奇心からの雑談のつもりだったのか、店員は肩をすくめた。
アレクシスは、大きな窓の向こうをながめた。
たしかに広い公園の向こう側に大使館街があるが。
仮に望遠用のコンタクトレンズを使って大使館街を監視したところで、つかめる情報はあるだろうか。
ここから見えるのは、各大使館の高い塀とそこから突きだす二、三階以上の外壁部分くらいだ。
門から出入りする人物が見えれば何らかの情報につながるかもしれないが、都合よくこちらに門が向いている大使館は見あたらない。
サングラスを少し下にずらし、アレクシスは大使館街をながめた。
大使館を監視したいのなら、人工衛星が撮影した画像をブレインマシンで受信するほうが確実なのではと思う。合成開口レーダーで建物内部まで見られる。
国際条約で禁止されているので、相手国にバレたら国際問題になるだろうが。
いずれにしても、ダニエルはこちらの国の情報をとろうとしているのではないのか。外国の大使館を監視しても意味はない。
たまたまか、とアレクシスは思った。
ただ身元の割れにくいサイバーカフェの端末を使いたかっただけで、窓から見えるものは関係ないのか。
「注文はない。ごめん」
アレクシスはそう言い、出入口のほうに歩を進めた。
ここでも教会でもないとすると、あとは自宅だろうか。
ダニエルの自宅には、あまり行ったことがない。彼がほぼ毎晩こちらに泊まっていたからだ。
もはや同棲しているみたいだなと思ったこともあるが、あれはこちらを自宅に近づかせないためだったのか。
そう思うと、自分が一方的に浮かれていたようでみじめにすらなってくる。
「煙かな……」
背後で店員がつぶやく。
何のことかと思ったが、店員の視線を追い大使館街のあたりを見る。
いまどき一般家庭の家事ですら火など使わない。
ふつうの暮らしをしていれば、火は日常的にはほとんど見ないものになっている。
アレクシスはサングラスをずらした。
裸眼になってはじめて分かる程度のほそい煙が大使館街の一角から立ちのぼっている。
火災かと思ったが、それにしては周辺はしずかだ。
仮に火災だとして、通報しても消防士が入るのを同意されるかどうか。
最上階の屋根に高くかかげられた国旗を確認する。
あれはチェルカシアか。
数十年まえに起こった紛争のどさくさで独立した国だ。
こちらの国としては、敵国の一部だった時期があるため国交を結ぶことについては警戒された時期もあったと学んだが。
「……タバコから出る水蒸気では」
アレクシスは何となくそう答えた。
「ここから見えるくらい大勢で吸ってるんですか?」
店員が目を丸くする。
「大勢で庭でって、二十世紀の喫煙家みたい」
店員がコロコロと笑う。
さきほどより打ちとけてきた。明るい子なんだなと思う。
いっそ、この子をここでナンパしようか。
「バーベキューかな……」
根拠はまったくないが、アレクシスはそう答えた。
そうだとしても、いまどき煙が立つ方法でやるとはずいぶんワイルドだなと思ったが。