帰路無終点
逢魔時と云うらしい。
空は水彩画のように夜空と夕空が馴染んでいて、どっちともつかない曖昧な空だ。うざったい湿気も、長ったらしいいつもの帰り道も、何もかもが神秘的に思えてしまう。
しかし、その神秘さには形容し難い不気味さも包摂している。古来より逢魔時は幽霊や妖怪が現れやすい時間帯と言われていて、この世とあの世の境界だと言う。
その日は事情があり、逢魔時と呼べる神秘な空の下、不気味な帰路を自転車で辿っていた。
よくあることなのだが、自転車の速度で走り抜けると風で耳がやられて、周囲の言葉が知らない言葉のように上手く聴き取れない事がある。
今日もそうであった。
顔すら別の物に見えることを省けば。
いつからだろうか。数十分前からなのか意識が朦朧と揺らいでいた。
そして、気付くと連想ゲームのように僕の景色は変わっていた。
周りにあるものが何か分からなくなって恐怖した。恐怖するしかなく。怖くて怖くて、自転車を漕ぐ足を早めた。家に着けばこの恐怖から解放されると無根拠の希望を持って、只々自転車を漕いだ。
帰りたいその一心で。
空には大きく真っ白な満月が上り、体感的にはもう家に着いているだろう頃。不意に後ろを振り返った。そこには真っ白な人がいた。
影のように音も気配も無く、意識の外側からあるいは無意識の内側から、今までずっと目を瞑っていたと感じるように──つまり、気付かぬ内に白い人はそこにいた。
何か分からないものを怖がるのは当然だろう、そしてこの状況だとしたら尚の事。
白い人は認識した頃には既に居なくて、感覚と記憶だけが残り、物理的な記録を何も残さず消えた。瞑った目をようやく開けられた気がして、自分に焦点を当てた悪夢めいた妄想からも覚めた気がした。
そんな悪夢から目が覚めると、心臓が張り裂けんばかりに大きく拍動して、ドクッドクッと耳にその残響だけを残して溶けるように収まった。その僅かな余韻が気持ち悪く、見覚えのある廃ビルの前に自転車を止めて、深呼吸をした。
ふと目の前の廃ビルと情景を重ねながら、今日の記憶が夢のように現れてきた。
貴重な休みだと言うのにその日、僕はどこか郷愁の念を抱く不思議な廃ビルに呼び出された。
昔に来た訳でも、似た場所を訪れた訳でもない。然し、その場所では不思議な虚しさを持つ懐かしさが込み上げてきた。けれど、今から行われるその現実に慣れてしまった事を起因とする郷愁を感じているのだとすると、虚しさの正体も解るような気がした。
乗り慣れた自転車を降り。
当然のように廃ビルに入る。
冷え切った暗闇を進む。
暗闇は洞々と続き、真っ白な月明かりの姿さえ忘れる程だった。
「よぉ、やっと来たな三■」
粘ったい声で虻川が僕の名前を呼ぶ。
そして直感する。
また蹴られて、殴られて、遊ばれるのだろう。
そう高を括ってしまう自分が虚しさの正体であった。
「遅ぇよ」
僕は、虚しさに身を任せ、いつものように謝った。
ケラケラと笑いながら、虻川が話す。
「五分前─合は遅すぎるだろ」
(そんな訳ないだろ)
僕は、相変わらずのセンスのない冗談に、心の中でツッコミを入れる。
ケラケラと笑いながら、虻川が話す。
「優等─様は、大─だなぁ」
(あぁ本当大変だよ。お前みたいなのに絡まれるからな)
僕は、段々湧いて出る怒りを、虻川を見下して抑える。
ケラケラと笑いながら、不良が話す。
「うぜ─、なんとか喋れ─」
(「喋れよ」だと、、、話したら蹴る癖に)
僕は、抑えられぬ怒りを込めて睨む。
イライラと睨まれながら、不良が話す。
「お─、─んか言え─」
(くそ、何も言ってねぇのに蹴るのかよ)
僕は、蹴られた腹を押さえて、もう一度睨む。
イライラと睨みながら、男性が話す。
「やべ、──じょうぶかよ」
(痛ぇよ、全く──じょうぶじゃねぇよ)
僕は、頭から殴られ、意識が朦朧としながらも睨む。
オロオロと吶りながら、男性が話す。
「あ─まから、血─」
(手でも捻ったか、滑稽だな)
僕は、朦朧とした意識で、瞼が落ちていくのに耐える。
バタバタと慌てながら、男性たちはいつもより騒ぎ出す。
「や─、ど──よ─」
そう言い残し、肉塊が崩れていった。
やっと帰ることができる。
僕は自転車で逢魔時の帰路を辿る。
空は水彩画のように夜空と夕空が馴染んでいて、うざったい湿気も、長ったらしいいつもの帰り道も、何もかもが神秘的に思えてしまう。
その神秘さには形容し難い不気味さも包摂している。
逢魔時と云うらしい。
いつの間にか周りにある全てが連想ゲームのように変わっていった。
怖くて怖くて、知っているから恐怖した。
家に着けばこの恐怖から解放されると無根拠の希望を持って、只々自転車を漕いだ。
帰りたいその一心で。
空に真っ白な満月が上って、月明かりとともに真っ白ななにかが突然現れた。
そして、悪夢から目が覚めて。
吉夢か悪夢かわからない曖昧な夢がまた始まった。
貴重な休みだと言うのに、僕はどこか郷愁の念を抱く不思議な廃ビルに呼び出された。
乗り慣れた自転車を降り。
虚しさを感じながらまた廃ビルに入る。
冷え切った路を進む。
路は洞々と続き、あの真っ白な月明かりの姿さえ忘てしまうのだ。
「──、やっ───な■■」
粘ったい声で虻川が僕の名前を呼ぶ。
また変わって、怖くて、恐怖するのだろう。
知っていることが虚しさの正体であった。
「遅ぇ─」
僕は、謝った。
ケラケラと笑いながら、不良が話す。
「五分──合は遅すぎす──」
(センスの欠片もない冗談だ)
僕は、その一言に何か想った。
ケラケラと笑いながら、男性が話す。
「────は、───なぁ」
(帰りてぇな)
僕は、見下した。
ケラケラと笑いながら、肉塊が話す。
「う──、な──か───」
(「───」だと、話したら蹴る癖に)
僕は、怒り、睨んだ。
ケラケラと笑いながら、ゴミが話す。
「──、─ん──え─」
(痛って)
僕は、蹴られた。僕は、腹を押さえた。
ケラケラと笑いながら、それが話す。
「─べ、──じょ────」
(痛ぇよ)
僕は、痛みを感じた。
ケラケラと笑いながら、──が話す。
(こんな話、何が面白いんだろう)
僕は、帰りたくなった。
僕は自転車でまた逢魔時の帰路を辿る。
変わってしまった帰り道を、ただ帰りたいその一心で、自転車を走らせた。
真っ白ななにかでまた悪夢が覚めて、
また──たちに呼び出されて、
帰りたくなって、
帰らなくてはいけなくて、
帰れなくて、
廃ビルに呼び出されて、
白いなにかはもう無くて、
帰れなくてなって、
只々自転車を漕いで、
逢魔時の空の下を走って、
頼りがいのある月明かりもない空の下を恐怖して、
帰れなくて、帰りたくて、帰れないから、限りない悪夢で、
──たちももう帰って、
数多の廃ビルを越えて、永い帰路はまだ終わらなくて、
帰れなくて、終わらなくて、帰りたくて、終わりたくて、、、
僕は自転車でまだ逢魔時の帰路を辿る。
真っ白な月は上らず、夕空を留める陽は沈まず。どっちともつかない曖昧な時間。
逢魔時の帰路は登らない月日が登るまで何時までも続いた。