冬の妖精
今回のお題は
「全力で抱きしめるなら、どんな動物?」
です。
ぼくは毎週末、妖精に会いに行く。
家から自転車を飛ばして30分。駐車場とは名ばかりの空き地の隅に、自転車を停める。鼻の先は氷のように冷たいのに、ダウンジャケットの中は微かに汗ばんでいて。ぼくは前を開けて熱気を逃がすと同時に、手袋を着けた両手で顔を包んだ。
日曜日の朝9時半。採石場の跡地は、いつものように静かだ。映画のロケ地で多少有名になったとはいえ、真冬の朝に来る人は少ない。緑が少ない、白っ茶けた冬の景色をぼんやりと眺めてから、ぼくは地下への入り口へと足を向けた。
入場料を払って中に入る。静まり返った地下空間は、足音も、微かな吐息の音さえも、立てるのをためらわせる何かがある。ぽつりぽつりと灯された明かりをたどりながら、ぼくは奥へと足を進める。
大昔の、手で石を欠いた跡が作る縞模様。でこぼこしたその壁にそっと手を触れながら、ぼくは進む。この巨大な空間が、全て石だった時に思いをはせる。学校の体育館よりも大きな石のかたまり。それを全て運び去るためにかけられた、膨大な時間と労力を思うと、ちょっと頭がおかしくなりそうになる。
息が白い。地下は夏涼しく冬暖かい、と聞いたことがあるけれど、ここはずっと寒い。乾燥しているせいだろうか、ぼくには地上よりずっと寒く感じる。
でも、凍りつくような寒さと乾いた空気がなければ、妖精に会うことはできない。繊細な彼らは、この時期にしか、その身体を保てないのだ。
薄暗いその空間を照らすかのように、真っ白な華が咲き乱れている。針のように細く鋭く、しかし繊細でもろい、ふわふわとしたその姿を認めて、自然と表情が緩んだ。
息に混じる微かな熱さえ、発するのがためらわれる。だからぼくは、黙って妖精を見つめた。
妖精は、その白い身体を壁に這わせながら、美しく微笑んだ。
ぼくは飽きることなくその姿を眺め続ける。繊細を極めるその身体に、できることなら触れてみたい。どれほど細く、柔く、そして冷たいのだろう。
けれどもそれは叶わない。人間のような、粗雑で高温の生き物が触れてしまえば、その姿はたちまち消えてしまうから。
それでもぼくは、熱に浮かされた人のように考える。叶うはずもない夢を見る。妖精をこの腕に抱く、汚れた純粋な夢を。
どのくらいそうしていたかわからない。人の話し声に我に返り、ぼくは足早に妖精の住み処から立ち去った。
別に、人に見られるのが嫌なわけではない。ただ、独りでいると、よく声をかけられる。
「中学生? 石が好きなの?」
「自由研究かな、感心だねえ」
話しかけられるのも、褒められるのも、悪い気はしないけれど。的外れな言葉には、どう返せばいいのかわからなくて。
「少年、知ってるかい? これは塩の結晶なんだ。大昔、海中にあったこの岩は、塩分を含んでいる。それがこの乾燥した時期に結晶化するんだな。お、こっちはゼオライトの一種かな……」
頼んでもいないのに、突然解説を始めた男の人には、正直苦笑するしかなかった。その程度の知識はぼくにだってある。そんな表面的なものを見に来ているわけじゃないんだ、ぼくは。
妖精の存在と、ぼくの想いを、わかってくれる人なんて、いないとわかっているから。だからぼくは、妖精と会う時は独りと決めている。
ある週末、いつものように妖精の所へ行くと、珍しく先客がいた。男の人が一人。離れていよう、と思っていると、その人は振り返り、真っ直ぐにぼくを見て言った。
「やあ」
ぼくはびっくりして、その人を見つめた。高校生だろうか、大人だろうか。年上の人の年齢って、よくわからない。
「そう警戒するなよ」
ぼくはよほど険しい顔をしていたみたいだ。その人はおどけて肩をすくめてみせた。
「君も女神に会いに来たんだろう」
その言葉に驚いた。この人は、ぼくと同じものを見ているのだろうか。
「ぼくは妖精って呼んでるけど」
思わずそう口走る。するとその人は、こともなげに言った。
「妖精、神、精霊、なんでもいいさ。そもそも言葉で定義できるような存在じゃないんだから」
妖精を見上げるその人の姿も、どこか現実離れしていた。きれいで、少し怖いと思った。
でも妖精のことを当たり前に話せて、ぼくは少し嬉しくなった。その人の近くまで行って、同じように壁を見上げた。
今日も、妖精たちがその白い姿をきらめかせている。ただ、少し元気がないように見えた。
「なあ、君」
その人は、妖精の方を向いたまま、ぼくに話しかけた。
「触ってみたいと思ったことはない?」
「ある、けど」
心の薄暗い部分に踏み込まれて、ぼくは歯切れ悪く答えた。
その人の右手が、すっ、となめらかな動きで上がり、そのまま壁に近付いていく。ぼくは悲鳴の様な声を上げた。
「だめだよ!」
手は寸前で止まり、ぼくはほうっとため息をついた。
「そんなことしたら、消えちゃうよ」
「春が来れば、どのみち消えてしまうじゃないか」
その人はぼくを哀れむように見て笑った。手は止めたけれど、引っ込めてはいない。ぼくは油断なくその手をにらみつけた。
「やがて消えるのは良くて、触って消えるのは駄目なのか? それは何故? そう思っているのは君だけで、妖精はそれを望んでいるかもしれない」
「そんなの、勝手な想像だよ」
「どうしてそう言いきれる?」
ぼくが言葉につまっている間に、その人はにやりと笑って、
「あっ」
止める間もなく、その手を壁に押し付けた。
妖精の、声にならない悲鳴が聞こえたような気がした。妖精が消え、手の形に岩肌が露出していた。一息おいて、手の跡がじわじわと広がっていく。妖精が、次々と消えていっている。なんてことだ。
壁や天井から、剥がれ落ちた妖精の欠片が降ってきた。ぼくはどうしようもないとわかっているのに、その欠片を集めようとする。欠片は指先が触れるそばから消えてしまい、ぼくの手は虚しく空を切るばかりだ。
もう目の前は真っ白だ。決して触れることは叶わない、けれどぼくは今、妖精に包まれている。
やがて全ての妖精が消え、真っ暗な岩壁に囲まれただだっ広い空間に、ぼくは独り残された。
はっ、と気が付くと、ぼくは妖精の前にたたずんでいた。辺りを見回してもあの男の人はいないし、妖精も消えてはいなかった。いつものように静まり返った地下空間の中に、冷や汗をかいたぼくが独り。
……夢? 幻? ぼくはいつになく淀んだ眼差しで妖精を見上げる。繊細で儚い真白の姿は、いつもと変わらない。
ぼくはあの人がしたように、右手を上げた。中指が妖精に触れた、という感覚もないまま、ただ冷たい岩肌に突き当たる。妖精の体に、小さな染みのようにぼくの指の跡が残る。奈落のようなその穴を見て、ぼくは一瞬の恍惚と、例えようのない哀しみを感じた。
もうじき春が来て、妖精は消える。
そうなればもう、ぼくがここに来ることもないだろう。
みんな大谷石資料館に行こう。
※作者は鉱物マニアです