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トイレ地獄

作者: 杉谷馬場生

 夜中、というか時間が分からないので夜中なのかどうかも判断しかねるのだが、窓の外が暗かったから夜中だったのだろう。いつもとは違う姿勢だったので非常に眠りづらく、何度も目が覚めた。眠った時間をトータルすると果たして寝たと言えるのかどうかさえわからない。

私は今、自宅のアパートのトイレの中に閉じ込められている。一人暮らしの暗黙の了解としての「鍵をかけない」というルールを無意識に破ってしまった。なんという失態をしてしまったのだ。

そしてその際に何万分の一の確率で起こりうるであろう事故に見舞われてしまった。鍵が壊れたのだ。ドアノブの中でバネか何かが千切れたのだろう。何度ノブを回してもドアは一向に開かない。

実家に住んでいた時に一度同じ事があってその時は何とか同居家族がいたお陰ですぐに脱出できたのだ。しかし数年前に一人暮らしを始め、心のどこかで油断していたのだろう。当時の教訓を活かせず、私はトイレの中に閉じ込められてしまった。それは昨日のそろそろ寝ようかという夜の10時を過ぎた頃である。

誰か友人や客がいるのならともかく、そんな時間になぜ私が鍵をかけてしまったのかわからない。寝る前の油断というやつか。しかし「寝る前の油断」なんて言葉聞いたこともない。しかし「寝る前の油断」という言葉で片付けるしか仕様がない。

小用を足してドアが開かないと気づいた時には流石に焦った。何度もガチャガチャとノブを回し、額から焦りの為の汗が出てくる。心が不安に支配される。なんならドアを蹴破ろうとするものの、足に力を入れられる程の広さがない。足で押すように力を入れてみたがドアはびくともしなかった。

そうして体力的に疲れた私はとりあえず便器に座り、少し心を落ち着けようとした。そして周囲を見回した。そして窓に目を向ける。窓から脱出出来るのではと希望が生まれる。人が通るには小さい気がするが、無理矢理通ることは何とかできそうだ。その際に体に擦り傷程度は出来るかもしれない。しかし今はそれどころではないのだ。幸いにも私の部屋はアパートの一階である。大きな怪我をする事はないだろう。私は立ち上がって窓を開けた。

しかし窓の外には絶望が待っていた。窓の外には外からの侵入を阻むための格子がガッチリと嵌っていたのである。ただでさえ狭いトイレの中でただでさえ小さな窓から無理矢理手を出して格子を外すことは不可能だった。思えば外さえ明るければすりガラスの向こうに格子が見えていたはずなのに、こんな夜でさらに緊急事態の中にあってすりガラスの存在をすっかり忘れていた。窓を開け放したまま、私は便座に座り込んだ。もはや出来ることはなし。こうなれば誰かが私の緊急事態に気づいてくれるのを待つのみとなる。

その場合どのような場合があるだろう。例えば実家から私に電話がかかってくる。携帯はリビングに置いたままなので私が一向に電話に出ないことに異常性を感じ、このアパートに赴く。若しくは110番通報する。

そうして一通りの希望を見出してはみたものの実家から電話が偶々かかってくることなんてまずないだろう。実家を出てからは疎遠とは言わないが、余程の用事がない限り連絡は取らないのだ。私からも「なんとなく電話をしたくなって」ということもないし、実家も頻繁に電話をかけるほどの子煩悩ではない。

このパターンはないなと判断してそれでは他にどの様な場合があるだろうと考えるも他に何も思いつかない。こんな夜半に電話をかけてくる友人もいないし、このまま閉じ込められたとして翌日になっても仕事は休みなのである。シフトが恨めしく思えてきた。仕事さえ入っていたら最悪、職場から電話が来て、何かしらのアクションはするかもしれない。しかしそれで「おかしい」と思われず、「あいつは電話にも出ずに無断欠勤だ」との判断もされかねない。考えるとむしろそっちの可能性の方が高い様な気がしてきた。トイレに閉じ来れられた為に仕事までクビになるという最悪のシナリオが脳裏をよぎる。こんな状況では不安なことしか想像できない。それも仕方がない。先行きが全く見えない中、自分ではどうしようもないので体力だけは維持しておきたく、眠ることにした。そしてとうとう朝になって今に至るのである。

夜中中便座に座っていたので尻が痛い。

座った姿勢で眠っていたので体が妙に凝っている。

最悪な状況下でも幸いだったのは季節柄気温が高くなかったことは良かった。そしてトイレなので水もある。タンクに溜まる水はまだ綺麗だと思うので顔を洗い、後で腹を下してもいい覚悟で水を飲んで喉と腹を潤した。どうせ下痢になってもここはトイレなのだ。

一晩トイレで過ごしたことでどこかで肝が据わった感じがする。しかし改めてドアノブをガチャガチャやるのはもう人間の真理としか言いようがない。思った通りドアはびくともしなかった。

それで私は何もすることがない。もはや万策尽きた。それは昨日からそうだったのだが、改めて万策尽きた。

それからまた腹が減り、水を飲む。水がある限り死ぬことはないだろう。動いてないのに腹が減るというのも人間は難儀な生き物だ。そろそろ昼になったのだろう。開け放った窓からは涼しい風が入ってくる。その風が数少ない心の拠り所となった。

そして開け放った窓を見てなぜ窓から助けを呼ばなかったのだと気付く。私は立ち上がり窓から顔を覗かせて大声で助けを呼んだ。

しかし窓の外から見える景色は素晴らしいものではなく、隣のアパートの壁である。玄関こそ道路に面しているが、トイレの窓から周囲に人がいるかどうかわからない。一通り声を出してみたが誰かに伝わったかどうかの手応えはなかった。例えば隣の部屋とかの住人に聞こえてくれたのなら良いのだが。

それからまたしばらく経った。もしかしたら夕方近くになったのかもしれない。もはやトイレに閉じ込められた状況というのにも慣れた。慣れたという言葉はおかしいかもしれないが、危機感とかそういった感情はどこかに行ってしまった。

窓から放った救援の声も何も音沙汰がないところを見ると何も効果がなかったのだろう。時折ドアの向こうから携帯が震える音が遠く聞こえる。短いのでメールだろうか。誰からだろうと思うがどうせこの危機的状況までは想像できないだろう。

その時玄関の方から何かしら音が聞こえた。ガチャガチャと鍵を開けようとしている様だ。誰だ。誰か救援でも呼んでくれたのか。それなら救急隊だろうか。ならばサイレンがあっても良いはずだ。近くに救急車が来ているのが予想できることだろう。しかしサイレンはなかった。では誰だ?まさか実家から両親が心配になってきたのか?それでもインターホンもなしにいきなり鍵を開けるのは変でないのか?誰だ。誰がドアを開けようとしているんだ。どちらにしろこれは好機だ。誰でもいい。とにかく誰かがドアを開けようとしている。

やがてガチャリと音が聞こえた。ドアが開く様子はない。しかし誰かが部屋に入って来たのだろう。床のミシミシという音がかろうじて聞こえる。救援というより侵入という感じだ。もしやこれは泥棒では?思ってもみない侵入者だった。

私は全力でドアを叩いた。

「おい!おい!開けてくれ!」

「わぁ!」

「トイレに昨日から閉じ込められているんだ!開けてくれ!玄関を開けたんだから簡単だろ!開けてくれ!」

「いや、え?あの、え?」

「とにかく開けてくれ!こんなチャンスないんだ!」

「あんた、俺が何者かわかってるの?」

「誰でもいいよ!なんでも持っていっていいから!開けてくれ!」

「え?え?まあ、わかったよ。わかったから」

ドアの向こうの男はドアをガチャガチャと弄り始めた。「バネが壊れてるよ」と聞こえたがものの数秒のうちにトイレのドアはとうとう開かれた。

ドアが開いた途端、私はドアの向こうの素性の知れぬ男に抱きついた。それはようやく脱出できた喜びと感謝の気持ちを込めた抱擁だったが男は「ちょっと!気持ち悪い気持ち悪い」と言って私を離した。

「ありがとう。ホントにありがとう」

「その様子だとホントに閉じ込められていたんだな」

私は急いでほぼ1日ぶりのリビングに行って財布を掴むとその中の金を全て取り出して男に渡そうとした。しかし男は「いやいや」とそれを固辞した。

「あんた、俺の正体わかってんだろ?」

「無断で侵入してきたのだからわからん方がおかしい」

「笑顔で言うなよ。勝手に上がり込んだ部屋の住人から進んで金を受け取るのはなんというか、まあ泥棒の沽券に関わる」

「そうなのか。しかし、何とかあんたに恩返しがしたい」

「そんな気持ちの住人から何か盗めると思うか?」

男はそのまま何も受け取らずに玄関のドアを開けた。「ここに入ったのは失敗というか何というか…」

「また来てくれ!俺がいない時に!」

「出来るかそんなこと!」

男はそのまま去っていった。

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