始業式の一日
三年生の始業式の朝がやってきた。私は寝不足の顔のまま朝食をとり、イシュラルたちに服を着せてもらって学院に向かう準備を終えた。
昨日はあれから女性医師がやってきて診察を行い、その結果やはりヴァレーリアは妊娠していることがわかったのである。ようやく事態が飲み込めて大喜びした私だったが、その出産予定日を聞いてショックを受けた。
「四の月の半ばから五の月の初めの間に生まれる……ってことは、もしかしたら私が学院に行っている間に生まれる可能性があるってことですか⁉︎」
「そうね」
「そんな……!」
可愛い弟妹の誕生をこの目で見れないかもしれないってこと⁉︎
「お母様! なんとか五の月まで頑張ってください!」
「そんなこと言われてもどうなるかなんてわからないわよ」
クスクスと笑いながらヴァレーリアが答える。確かにいつ生まれるかなんてわからないものだが、あの大事な瞬間に立ち会えないなんて辛すぎる。
「別に俺たちが同じ部屋で立ち会うわけじゃないからいいだろ」
とクィルガーは呆れた顔で言うが、同じ部屋にいなくても同じ家にいる、側にいるということが重要なのだ。私はヴァレーリアに近づくと、そのお腹を撫でながら囁いた。
「もしもし、お姉様ですよ。いいですか、慌てなくていいのでゆっくりゆっくり大きくなるのです。そしてお姉様が側にいる時に出てくるのですよ」
「もぅ、ディアナったら」
「おまえが言うと本当にそうなりそうだからやめろっ」
私がさらに囁こうとするとクィルガーのぐわしによって止められた。痛い。
そんなわけで自分がいる時に生まれてくれるのか不安になった私は、その日なかなか寝付くことができず、ひどい寝不足の状態で目を覚ますことになった。
本館の玄関まで見送りにやってきたヴァレーリアがそんな私の顔を見て苦笑する。
「ディアナ、しっかりしなさい。そんな顔でジャシュとお別れするの?」
その言葉にハッとした私はペンペンッと両頬を叩くと、世話係に抱っこされてるジャシュに歩み寄る。
「ジャシュ、お姉様は学院に行ってきます。ジャシュもお兄様になるのですから、お母様のことを守るのですよ」
私がそう言ってジャシュの頭をなでなですると、ジャシュはよくわかっていない顔をしたまま私を見つめ、「アウー」と眉を下げた。
「ディアナ様が行ってしまうのを寂しく思っていらっしゃるようです」
「うう……ジャシュぅ、そんな顔されたら出発できないよぉ」
と、私も同じように眉を下げてなかなか離れられない素振りを見せると、クィルガーが後ろからやってきて私の腰をガシッと掴んで持ち上げ、玄関に向かって歩き出した。
「おまえを待ってたら遅刻する」
「おわぁぁぁ、ちょ、待ってくださいお父様! せめてお母様と最後の挨拶を……!」
私がそう言ってジタバタすると、クィルガーは仕方なさそうに私を下ろした。笑いながらやってきたヴァレーリアがそんな私をぎゅっと抱きしめてくれる。
「いってらっしゃいディアナ。気をつけるのよ」
「はい、お母様、いってまいります。体大事にしてくださいね。栄養食も食べないとダメですよ」
「コモラとよく相談するから大丈夫よ。ディアナも、勉強と演劇クラブを頑張るのよ」
「はい! 演劇クラブに関しては任せてください! 冬休みに戻ってきますね」
「ええ、待ってるわ」
ヴァレーリアはそう言って私のおでこに口づけをすると、私の小指にはまっているお揃いの指輪をするりと撫でて微笑んだ。私はヴァレーリアやトカルのみんなに手を振り、学院に向けて出発する。
今回から馬に乗ったイシークとルザも護衛に加わって、クィルガーのお小言を聞きながら城山を登る。クィルガーとは王の間でちょくちょく会うのでそんなに寂しさはない。
学院の正門前まで来て入る順番を待っていると、クィルガーは私の側近の二人に向かって声をかけた。
「わかっていると思うが、側にいる間は必ずディアナを守れ。決して目を離すなよ」
「「はっ」」
「ディアナ、おまえもあまり無茶なことはするんじゃないぞ」
「しませんよ、もぅ」
「去年クドラトの対決を受けたのはどこのどいつだ」
「……」
あれは向こうから仕掛けてきた戦いなのだ、私から仕掛けてはいないので許してほしい。
「私から喧嘩を売ることはないので大丈夫です」
「馬鹿、喧嘩を売られても買うなって言ってるんだ俺は」
「……」
それについては断言できないよ……だって演劇クラブが関わってたらどうなるかわからないんだもん。
私はそれには答えずに曖昧に笑ってクィルガーに手を振った。約束できないことについては笑って誤魔化す、これは貴族の常識だ。
クィルガーと別れ、ロータリーに入って停まった馬車から降りる。ルザとイシークとともに校舎の正面玄関前まで歩いていくと、去年と同じようにファリシュタとハンカルとラクスが待っていてくれたので、みんなで地下の大講堂に向かった。
三人はイシークとルザがいることにびっくりしていたが、私が側近になった経緯を説明すると「ついにディアナに側近がついたか」「まぁ正直その方が安心するな」とラクスとハンカルは納得していた。
ただファリシュタだけは、ルザが私の友達ではなく側近になったことに寂しさを感じているようだった。
「あ、そうそう、もう一つ昨日わかったことがあってさ」
大講堂に向かいながらヴァレーリアが妊娠したことを話していると、後ろからケヴィンが現れたのでついでに今年の演目について話した。ケヴィンは予想通り嫌がっていたが、もちろん私は止めるつもりはない。
それから黄の寮の場所へ行き絨毯の上に座っていると、ふとあることに気づいた。
そういえば去年感じたような変に引いた空気を今年はあまり感じないね。
相変わらず視線は感じるが、去年のような忌避感は減っている気がする。去年の劇の成功のおかげかもしれない。そのかわり明らかに嫌がってる人の気配はわかりやすくなってるけど。
始業式は去年と変わったところは特になかった。サクサクと進み、今年は緑の寮の学生から退出が始まり、それに続いて大講堂を出る。
木漏れ日の美しい中庭を歩いて寮に向かっていると、「あのぅ……」というか細い声が後ろから聞こえ、私はくるりと振り返った。後ろについていたルザとイシークが「どうかしましたか?」と周囲を窺う。
今の声は……。
「ヤティリ?」
私がそう声をかけると、イシークのすぐ後ろにヤティリがぬっと現れた。
「ぬお! いつの間に?」
イシークがギョッとして身構えると、ヤティリもビクッと肩を揺らし「すみませんっ」と言って私にザッと手に持っているものを差し出した。ルザが「失礼します」とそれを受け取って中身を確認する。
「ヤティリ、それは?」
「そそ、その、ディアナからの手紙を受け取ってそこから急いで考えた今年の演目のプロット……」
「え! もう書いてくれたの⁉︎ ていうか、あの手紙無事に届いたんだ!」
「うう、うん、僕はもう家を出てたんだけど、アルタカシークの高位貴族からの手紙だったから追いかけて届けてくれたみたい」
おお、高位貴族の印って本当にすごい威力だね。
私から喜劇にしたいという手紙を受け取ったヤティリはそれだけで妄想が捗ったらしく、移動の間に複数のプロットをまとめたようだ。出来立てほやほやのこのプロットを早く私に見てほしくて、始業式の間中ずっと私の近くでウロチョロしてたんだって。
「ヤティリの動きを全く捉えることができませんでした……やはりヤティリには隠密の才能がありますね」
「一体何者なのだ其方は……」
ルザとイシークが気配がゼロのヤティリに驚いている。
他の生徒がたくさんいる場所でヤティリはあまり私に声をかけてこないのに、今回はよっぽど早くこれを見て欲しかったらしい。
「ありがとうヤティリ! 私も早くヤティリと打ち合わせがしたいと思ってたんだ。これ読んだらすぐに詳細を詰めよう!」
「う、うん」
私が満面の笑みでそう言うと、ヤティリは周りを気にしながら頷いて、そして音もなく姿を消した。
「……ヤティリが敵ではなくてよかったです」
「……本当だな」
ルザとイシークの呟きを聞きながら、私は渡されたヤティリのプロットを見てニンマリと笑った。
それから去年と同じく順番を待って寮に入り、部屋番号と鍵をもらって三階へ上がる。二年のころより一階上へ上がっただけなのに、なぜかとても新鮮な気持ちになった。
言われた数字の部屋に着いてルザが扉を開けると、中にはもちろんザリナがいた。私はアルスラン様との話し合いでザリナが同室になったことを知っているが、向こうはもちろんそんなことは知らない。
「本当にまた同じなの⁉︎」
とザリナは驚きと残念さと嬉しさが混じったような面白い顔をしていた。
「今年もよろしくね、ザリナ」
「みんな一緒で嬉しいね」
「やりやすくて助かります」
「貴女たちちょっとは驚きなさいよ!」
変わらないザリナの口調にクスクスと笑いながら、みんなそれぞれ自分の荷物の整理を始めた。「ディアナ様の荷物は私が」と側近としての仕事を始めようとするルザに「王族でもないんだし、自分のことは自分でしたいからいいよ」とその申し出を断る。
自分の荷物の整理くらいは自分でしなきゃねぇ。
整理整頓が終わってお昼ご飯を食べたあと、ヤティリのプロットを読みたい気持ちを抑えながら「クラブ紹介の打ち合わせに行ってくるね」と部屋を出た。今日はこれから王の間で特別補佐のお仕事だ。
階段の踊り場までやってくると、すでにイシークがそこで待っていた。私の予定はすでに把握済みらしい。
「自分の授業の予定をこなしながら私の護衛をするって大変じゃない? イシーク」
「ルザと話し合って綿密に予定を組みましたので、大丈夫です」
「イシークに護衛を任せられるので、私も他の動きができて助かります」
イシークに対して嫉妬心を見せていたルザも同じ側近になったことで落ち着いたらしく、二人で役割分担を決めてうまくやっているようだ。
校舎に入りいつものように内密部屋にやってくると、ルザの父親のケチャが控えていた。さすがに三人も扉前に控えているのは目立つのではと思ったが「気配を消すことは可能ですので」とケチャに微笑まれた。
ケチャさんとルザはできるだろうけど、イシークはどうなの……。
と首を傾げながら扉を潜り、中にいたソヤリとともに執務館へと向かう。
暗い通路を歩きながらソヤリと話すのは、主にアルスラン様の特別補佐の仕事についてだ。
「すみませんソヤリさん、私としては早くアルスラン様に運動をしてもらいたいんですけど、片付けがなかなか終わらなくて……」
「本の整理は予想以上にかかっていますね」
「私が片付ければ片付けた分だけアルスラン様が本を購入されるからですよ。あれ、なんとか止められないのですか?」
「止めるのは不可能でしょうね。文字を読んでいないと落ち着かない方ですから。王の命令とあらば側近の私は否とは言えません」
「ですよねぇ……はぁ」
「そして残念なお知らせですが」
「なんですか?」
「この前貴女が来た時より、本の数が増えてます」
「はぁ————⁉」
そうして執務館へ到着し、箱へ入れられて王の間にやってきたのだが、ソヤリの言った通り王の間の本はこの前片付けた時以上に増えていた。
これじゃ、片付けた意味がないじゃない!
私は挨拶をして王の間に入ると、王の絨毯の外側に跪いてアルスラン様に文句を言う。
「どういうことですかアルスラン様。これではいつまで経っても片付かないではありませんか」
「前のように増え続けることはないのだからよいのではないか?」
「よくありませんよ! これでは運動ができません」
「できないなら別にそれでよい」
アルスラン様はそう言って手元の書類に視線を戻した。これはあれだ、運動がしたくないからワザとやっているんだ。
……意外とアルスラン様って子どもみたいなことするよね、全くもう!
むぐぐ、と口を尖らせた私は部屋を見回しながら考える。どうにかして運動をするように持っていかなければ、いつまで経ってもこのままだ。
とりあえず次読む予定の本の塊に、アサビ様に送ってもらった健康に関する本を勝手に置いてみようかな。
雑多に置かれているように見えて、王の間の本タワーはそれなりに分類されていた。読み終えて用済みの本、読み終えたがもう一度読む本、読み終えたばかりの本、これから読む本などアルスラン様の中での目安がある。
私も片付けている間にどこにどういう本があるのかわかってきたので、次に読む本タワーのところにこっそり健康の本を置こうと密かに決意した。
「アルスラン様、昼食の時間でございます」
ソヤリにそう言われて、いつも通りに昼食のセッティングをしてアルスラン様とともにご飯を食べる。
「其方は寮で食べてきたのではないのか?」
「コモラの料理は別腹です」
「別腹……とは」
首を少し傾けて怪訝そうな顔をするアルスラン様に昼食を勧めながら、新入生のオリエンテーションで行われるクラブ紹介の打ち合わせを済ませた。側近たちを内密部屋前で待たせているので長居する時間はないのだ。
「学院生活が始まると、こちらいる時間が短くなりますね」
「仕方あるまい。其方は学生なのだから」
「私が来なくてもお食事はちゃんととってくださいね。あと本の購入速度は少し緩めてくださると助かります。片付けにもなかなか来れませんし」
「……」
「アルスラン様」
「……前以上に増えぬようにはする」
……それって、私が片付け始める前の状態ってこと? それってスタート地点に戻るってことじゃない?
「私の努力を無駄にしないでください……」
正直に耳を下げて悲しみを表明すると、アルスラン様はむ、と少し黙ったあと「……善処はする」と呟いた。夏休み中こちらに通ったことでわかるようになったのだが、アルスラン様は一見怖そうに見えるが、実は人が悲しんでいたり困っていたりすると必ず助けてくれる。
私が明らかに悲しんでるなとわかると行動を改めてくれたりするのだ。
一人が好きで人付き合いが苦手だけど、基本的に優しい人なんだよね。
私が着付けをする時間がなくても「これだけは着てください」とお願いした王様のマントは、ちゃんと羽織ってくれるようになったのだ。アルスラン様の性格が少しずつわかるようになってきて私はちょっと嬉しかった。
本人のやる気が出てからと思って強くは言わなかったけど、もしかしたら運動も泣きそうな顔でお願いしたら、あっさりとやってくれるのかもしれないね。
そんなことを思いながら私は王の間をあとにした。
始業式でいつもの面々と再会して学院生活が始まりました。
三年生はどういう一年になるのでしょうか。
次は クラブ紹介の演技披露、です。