プロローグ
「はぁ、四階まで上るのって案外きついな、ケヴィン」
「ふぅ……確かに」
ザワザワと騒がしい寮の階段を上りながら、僕は友人の言葉に相槌を打つ。アルタカシークの王都にあるザガルディの館に到着して数日、決められた順番通りに各国からの入寮が進み、ようやくザガルディの番になった。
今日でアルタカシーク以外の学生の入寮が完了するとあって、寮の中はすでにたくさんの学生で溢れていた。
四階に着いて受付で言われた部屋の扉を開けると、相部屋の中に見知った顔の学生がいて少しだけホッとする。
「はは、やっぱり今年も一緒か」
「いやぁ今年も同じ部屋とは。楽で助かる」
出迎えてくれたのは去年も同じ部屋だった違う国の友人だった。どうやらなんの問題もなかった部屋のメンバーはあまり変わることはないらしい。
全校生徒を合わせるとすごい数だからな……それを調整する執務官のことを考えれば当然か。
「ん? なんだ、ケヴィン。元気がないように見えるが?」
「そうか?」
「ああ、実はそうなんだよ。国を出る時からずっとこんな顔してるんだ。俺はもう見飽きたぞ」
「どうしたんだ? ああ、今年はイバン様がおられないから張り合いがないのか」
「……」
「はは、ケヴィンらしいな」
僕がなにも言わずにいると、友人たちは勝手にそう決めつけて苦笑している。
「そうだ、今からベランダに行ってみないか? 四階からの眺めはすごいらしいぞ」
「お、いいな。ケヴィンもそれ見て気分転換したらどうだ。俺たちも行こう」
「え、いや、荷物の整理は……」
「そんなのあとでいいだろ。ほら、行こう行こう」
ノリがいい友人たちに背中を押されてまた部屋から出された僕は、困惑しながら廊下を歩いていく。
本当にそんな気分じゃないんだが……ここで自分だけ行かないなんて言ったら駄々をこねる子どもみたいだからな、仕方ない。
階段の踊り場に出て、そこから六年生の部屋がある方の踊り場に向かう。その先にはベランダに出る大きな掃き出し窓があって、何人かの生徒が出入りしているのが見えた。
「おお、すごいな!」
ベランダに出た同郷の友人が感嘆の声をあげる。
確かに素晴らしい眺めだ。上を見ればアルタカシークの広大な青い空がすぐそこにあり、左右を見ると黄と緑の寮の岩肌と四階部分が見えた。寮の前にある中庭の木が下にあるので、かなり視界が開けたように感じる。
正面の先の方には図書館や学院の校舎があり、学院を囲っている城壁まで見えた。さらに奥にうっすら見えるのは王宮なのだろうか。
「美しいな……」
「そうだろ? 俺たちも昨日見て感動したんだ。本当に素晴らしい眺めだよな」
昨日入寮した友人たちはすでに一度見に来ていたらしい。周りを見ると、男女問わずいろんな国々の生徒たちがそこからの眺めを楽しんでいた。
本当にこのようなものを魔石術で作ったアルタカシーク王はすごい人だな……。
この学院に毎年来る度に、その授業を受ける度に、この国の王の力の凄さを思い知らされる。わずか十歳でこの国を救ったという話は当時はみんな懐疑的に受け止めていたらしいが、ここに通い始めた学生たちはそれが本当であることをその身で実感し、同時に畏怖するのだ。アルタカシーク王は一体どれほどの力と知識を持っているのか、と。
そんなことを考えていると、以前イバン様に言われた言葉を思い出した。
「もしかしたら、アルスラン様はそう思わせることも計算してこの学院を作ったのかもしれないね」
イバン様も学院に通うようになって同じことを感じておられたが、それについて危機感は抱いていないと仰っていた。「アルスラン様がどのような考えを持っておられるのかはわからないけれど、世界中の魔石使いを集めて平等に知識を与えようとしているんだ。その強力な力を独占したいと思っている方だったらそんなことはしないだろう?」と。
そう言って微笑むイバン様の姿を思い出して、僕は思わずため息をついた。
寮に来たらきたで、イバン様との思い出が蘇るから余計辛いな……。
そんな僕を見て、友人たちは「ケヴィンはもう少しここにいたらいいぞ」と言って部屋へ戻ってしまった。どうやらかなり気を使わせているらしい。
かといって一人にされても困るんだが。
僕はもう一度ため息をついてベランダの手すりに両手を置く。左の緑の寮に視線を動かして、その遥か先にあるザガルディのことを思う。
イバン様は今どこにおられるのだろうか。
僕はイバン様の卒業とともに側近から外れることになった。本来ならばその後も側近を続け、自分が学院を卒業したらそのままイバン様の下で働くことになっていたのだ。けれどそれは叶わぬこととなった。イバン様がリンシャークへ行くことを決めたからだ。
レンファイ様との婚約を認めてもらうため、イバン様は水面下で動くことになった。その時に僕が側近でいるとその内密な情報を僕が知ることになる。
「もし今回のことが思わぬ形で明るみになったら、父上は必ず俺の指示で動いた側近に制裁を加えるだろう。そうならないように動くつもりだが、万が一そうなった時は最小限の被害に収めたい。俺のせいでケヴィンの未来が断たれるのは嫌なんだ」
イバン様は僕のことを思ってそう言ってくださったが、同じ側近のアードルフは「私の運命はイバン様とともにあるので」と自分もリンシャークに付いていくと決めていたのだ。自分にその選択肢が示されなかったことに僕は動揺し、悔しくて泣いてしまった。同じ部屋にはレンファイ様も、ホンファ先輩もシャオリーもいたというのに、今思うと恥ずかしい。
国に戻るとイバン様の側近を外れたことに親がショックを受けていたが、イバン様が「卒業したのでこれからのことを考えて、一度側近を整理したい」と各側近の親に通達したことがわかってなんとか落ち着いた。それからはイバン様の情報を得ることが難しくなり、夏休みの間は兄と家の手伝いをして過ごした。
だからイバン様がどこでなにをしているのか、今の僕には全然わからない。
「こんなことになるなんてな……」
自分は一生イバン様に仕えるつもりだった。あんなに心から尊敬し、支えたいと思った人はいなかった。だからこそ、僕の心の中には今ポッカリと大きな穴が開いている。
この穴を埋められるものなんて、きっとどこにもない。
「はぁ……この先僕はどうすればいいんだ」
僕の心模様とは裏腹に、アルタカシークの空はどこまでも青く澄み渡っていた。
次の日、友人たちと連れ立って校舎へと向かう。今日はアルタカシークの在学生が到着してそのまま始業式が行われる。去年までイバン様の場所取りをするために先に大講堂へ行っていたため、こうして友人たちと一緒に向かうのは初めてだった。
側近の仕事がないということにまた気分が沈んでいたが、聞き覚えのある声が前から聞こえて思わずそちらに目をやる。
見知った顔に囲まれながら歩くその小さな体とスカーフの横から伸びている長い耳、常に周りから注目されている存在なのにそれを全く気にしない素振りで歩く女性は、この学院で一人しかいない。
「えっそうなの?」
「そう、昨日急にわかったんだよ。もぅ、びっくりしてさぁ」
「へぇ、おめでとうディアナ」
「えへへ、ありがとラクス。でも昨日はそれで興奮しちゃって全然眠れなかったんだよね」
「だからそんな寝不足の顔してるのか」
相変わらず呑気な喋り方をしているそのエルフに後ろから声をかけた。
「なにかおめでたいことでもあったのか?」
「うわ!」
「ケヴィン先輩」
「去年と同じ出方しないでくださいよ。心臓に悪いじゃないですか」
ラクスとハンカルとディアナが同時に驚いてこちらを振り向く。ファリシュタはただ一人「お久しぶりです、ケヴィン先輩」と丁寧に挨拶をしていた。ディアナのすぐ後ろにいたイシークとルザが無言で僕をチラリと見る。
ん? イシークの見た目がかなり変わっているがなにかあったのか?
イシークの変わりように驚きながら、ディアナに視線を戻す。
「其方の心臓は鋼でできているから大丈夫だろう、ディアナ」
「私の心臓はそんなに強くないですよっ」
僕の言葉にディアナはすぐ抗議するが、それには周りの全員が「え?」って顔をする。
「なんでみんなそんな顔するんですか!」
「それはみんなが同じことを思っているからじゃないか?」
と言うと、ディアナは口を尖らせて「ひどい」とぶちぶち文句を言う。そんなディアナを見ながら、ふとあることに気づいた。
ん? ディアナはこんなに小さかったか?
そう思いながら首を捻っていると、ラクスが僕の隣に並びながらその目を大きく開いた。
「あ! なんか変だなと思ったらケヴィンの背が伸びてる!」
「む?」
「本当だ、ラクスより大きいじゃないですか先輩!」
そう言われて初めて気がついたが、僕の背は去年同じくらいだったラクスよりかなり伸びていた。成長の早いハンカルと同じくらいになっている。
二個下なのになんでこいつはこんなにでかいのだ……。
思わずジトっとした目つきでハンカルを見てしまうが、自分の背が伸びたことは素直に嬉しかった。同学年の友人たちと比べると低かったので気づかなかったようだ。
遅れてきた成長期がやっとやってきたのだろうか、そうだとしたら嬉しいな。
と、心の中で喜んでいると、ディアナがむむ、と眉間に皺を作る。
「先輩が大きくなっちゃうとなんか変な感じですね……調子狂っちゃうなぁ」
「は?」
「中身は変わってませんよね? 先輩には今年、重要な役割が待ってるのでそのままでいてくれないと困るんですけど」
「……なにを言ってるのだ? 其方は」
相変わらず突拍子のないことを言うディアナに、僕は眉を寄せる。こういうことを言い出すときは、たいてい碌なことがない。
大講堂に向かいながら、僕はディアナに質問する。
「なにか変なことを考えてるだろう? 其方は一体僕になにをさせようとしているんだ?」
「ふっふっふん、詳しい内容はこれからですが、今年はケヴィン先輩が大活躍する劇にしようと思ってるんです」
「大活躍、だと?」
ニンマリと笑うディアナに、嫌な予感が膨らんでいく。
「今年の演目は喜劇です!」
「喜劇?」
「一言で言うと、笑いのある劇です」
「そんなのあるのか? ディアナ」
「あるんだよラクス。ほら、みんなも見たでしょ? 去年練習室でケヴィン先輩と私が寸劇みたいなのしたの」
「あ! あれか。ははは、あれを劇の中でやるのか?」
「あれをやるワケじゃないけど、あんなふうに見てる人を笑わせる劇のことだよ」
「は⁉」
ディアナの言葉に僕は目を剥く。
去年やった寸劇とはあれか⁉︎ あんな恥ずかしいことをするつもりなのか⁉︎
「僕は絶対嫌だぞ⁉」
「大丈夫ですよ先輩。先輩にはそっちの才能があります。これは絶対ウケます。私には笑っているお客さんの顔がもう見えてるんです」
「ウケたいと思ってないんだが⁉」
「笑っているお客さんの顔を見れば、先輩もきっと気持ち良くなりますよ」
「ならない、絶対にならない」
「私、今から楽しみです!」
「人の話を聞け!」
「あはははは! 相変わらずいいコンビだなぁケヴィンとディアナは。俺、もう今年のクラブ活動が楽しみで仕方なくなってきたぞ」
そう言うラクスにハッとして周りを見ると、ハンカルやファリシュタ、そして一緒にいた同部屋の友人たちまで肩を震わせて笑っている。
「別に笑わせようと思ってやってるんじゃない!」
「そう、狙ってやってないっていうのも最高なんですよね。ケヴィン先輩には本当に笑いの神様が付いているんですよ。こんな逸材を放っておくことなんてできません。安心してください先輩、私は先輩が輝く舞台を必ず作ります、クラブ長として」
なぜかキリッとした顔でそう言い切ると、ディアナは「早くヤティリと打ち合わせしなきゃ……」と言って大講堂の扉を潜り、黄の寮の学生が集まる場所へ行ってしまった。
「な……な……」
とその背中を見つめて呆然としていると、後ろから僕の肩を叩きながら友人が言った。
「心配してたけど、演劇クラブがあれば大丈夫そうだな、ケヴィンは」
「お前が活躍するんだったら、今年の公演は観に行かないとな」
「楽しみにしてるぞケヴィン」
「いい! 楽しみにしなくていいし、来なくていい!」
僕は友人たちの言葉に顔を赤らめて声を荒げる。
「お、元気出てきたじゃないか、やっぱりケヴィンはそうやってるほうがいいぞ」
「ああ、沈んでる顔なんて似合わないからな」
「……!」
友人たちはそう言うと僕を置いて青の寮の場所へ歩いていく。
僕はその場に突っ立ったまま、ポリポリと頬を掻いた。確かにこんなに声を出したのは久しぶりだったし、いつの間にか心の憂鬱が綺麗に消えていた。それに気づいて少し恥ずかしくなる。
その時、イバン様が去年言っていた言葉が蘇った。
「ケヴィン、ディアナと話していると元気にならないか?」
「それが面白いからいいんだよ」
……確かにイバン様は去年とても楽しそうに学院生活を過ごされていたな。
イバン様は僕に今後も演劇クラブに残ってディアナのやることを見ていてほしいと仰った。だったら僕は、その望みに応えたい。
もう側近ではないけれど、イバン様の仰った通りに演劇クラブの活動を頑張ってみるか……。
少しだけ前向きになれた僕は、友人のあとを追って青の寮の五年生が並んでいる方へと向かった。
三年生の章プロローグはケヴィン視点でした。
イバンがいなくなり、傷心のケヴィン。
そして彼の運命はこの年で大きく変わることになります。
次は 始業式の一日、です。