王の間の日常
「アルスラン様、本日の執務はお召替えをしてからお願いします」
「……本当にするのか」
アルスラン様は私とソヤリをチラリと見てそう呟いたあと、スッと表情を無くす。
そんな面倒臭い顔しなくても……。
今日はアルスラン様の朝食が終わる時間に合わせて、私はコモラと一緒に王宮に上がってきた。朝から呼ばれたのは執務が始まる前に着付けをするためだ。クィルガーは私を厨房からこっちへ運んだあとすぐに騎士団の方へ行ってしまった。
ソヤリから着替えをすると告げられて、アルスラン様は無の表情のままノロノロと立ち、執務机の前から王の間の出入り口の方へ歩いてくる。
「アルスラン様は立っていればいいのですからそんな面倒臭がらなくても……」
「この時間はいつも読書をされているので、その時間が削られるのがお嫌なのでしょう」
本のためだった。もぅ、そうやって他をおろそかにするから不健康になるんだよ。
ソヤリにも近くから確認してほしいので、着替え場所はこの前片付けて空間が空いた出入り口のすぐのところで行うことになった。私は王の間に入ってソヤリから渡された丸い絨毯を広げ、椅子と机を置き、着替え場所を作る。
それから今日の服がかかったラックを中へ入れた。「これは王の間用に用意したものですからそのままそちらへ置いておいてください」と言われたので、王の間に入ったすぐの壁際に寄せて設置する。その横からはすぐに巨大な本棚がででーんとそびえ立ってるので、着替えが置けるスペースは少しだけだ。
「アルスラン様、今お召しの上着をディアナに渡してください」
「……わかった」
絨毯の上に立ったアルスラン様が今着ている上着をするりと脱ぐ。着替え自体が面倒臭いと思っているだけで、脱ぐことに戸惑いはないようだ。
……こういうところは、やっぱり王子様だったんだなぁって感じだよね。人前で着替えることに恥ずかしさとか感じないみたい。
高位貴族の私でさえ着替えはトカルが全部やってくれる。今では大分慣れたが、最初は着替えさせてもらうのに躊躇した。
それに比べて生まれた時から王子だったアルスラン様にはそれはもうたくさんの使用人がいただろうし、一日に何回も着替えるということもしていたに違いない。つまり、着替えさせられることに関してはプロなのだ。
私はアルスラン様から受け取った上着にハンガーのようなものを通してラックにかける。次に着ている上着は帯で縛ってあるので、アルスラン様はそれを自ら解き、その帯に付属している腰袋ごと私に渡した。
「アルスラン様、これって特級の魔石が入ってる袋なのでは……」
「そうだな」
そんな大事なものを簡単に私に渡していいのかな。ちょっと警戒心無さすぎない?
「其方のことは警戒するだけ無駄だからな」
「……私そんなに気の抜けた顔してますかね」
「自覚がないのは幸せなことだ」
「むぅ、どういう意味ですか」
私は口を尖らせながら帯から腰袋を外して机にそっと置き、帯は畳んで用意していた籠に入れる。この籠に入れた着用済みの服は洗浄の魔石術をかけられたあと、王様専用のクローゼットに保管されるらしい。
柄物の上着を受け取ってラックにかけ、そのあとアルスラン様は一番下に来ていた立襟の白いワンピースのボタンを外していく。その下はいわゆる下着になるので、なんとなく私はそのワンピースを受け取りつつ視線を外した。
いや、どうせすぐに見るんだけど、じっと見つめるのもおかしいでしょ。
最後の上着をラックにかけたら、今日着る予定の服をハンガーから外して袖を通しやすいように広げながらアルスラン様の後ろ側に回った。
あれ、白い肌着だ……。
アルスラン様が私が持っている服に袖を通している間にチラリと見えた下着は、くるぶしまである真っ白な肌着のワンピースだった。ソヤリからもらった資料には白い肌着の上にもう一枚柄物のワンピースを着ると書いてあったのに、それがない。
それに気づいたソヤリが小声で呟く。
「……アルスラン様、色薄衣の方は……」
「着る必要を感じなかったので着ていない」
その答えにソヤリがはぁ……とため息をつく。確かに色薄衣というのは白い肌着のままでは恥ずかしいという王族の人たちのための飾り薄布なので、機能性は全くない。夏はむしろ暑くなる。ただの飾りなので着てなくても問題ないのだが、アルスラン様は勝手に着るのをやめていたようだ。
私の手が届きにくい襟とその下のボタンを本人に留めてもらって、私は胸元から順番に隠しボタンを留めていく。アルスラン様はその間に自分の両腕を首の後ろに持っていって、バサリと髪の毛を服の中から出した。艶のある長い黒髪がサラサラと服を滑る。
「そういえば前に読んだ資料に載ってた昔の王様の肖像画には、髪を結った王様の姿もあったんですけど、アルスラン様も昔は結っていたのですか?」
「そういえば結っていたな」
「横の髪を細かな三つ編みにされていましたね。長さが肩口くらいでしたので、あまり派手なまとめ髪にはされてませんでした」
「一つにまとめると頭が重くなるからな」
「そういう理由なんですか……」
私は次に着る飾りの多い上着を持ってそれに袖を通してもらいながら、目の前にある綺麗な黒髪を眺めて言った。
「……私が触れることができれば、髪を整えることもできるんですけどねぇ」
「私も整えてほしいと思っていますが、そればかりは無理ですね」
髪の毛やその上に被っている王の布と呼ばれる装飾具に触れることができるのは家族か男の使用人だけらしい。でもこんなに綺麗な髪をしているのに伸ばしっぱなしというのももったいないな、と思いながら横へ回り込むと、アルスラン様の左のこめかみあたりにかかっている横髪に、数本の金色の髪が混じっていることに気づいた。
「アルスラン様、ここに金髪が……」
「ああ、この辺りに一房金髪が生えているのだ。いつもは王の布の中へ入れているが、少し出ていたのだな」
アルスラン様はそう言ってその辺りの髪の毛を掴んで耳の後ろにかける。どうやら左のサイドに金色のメッシュのような髪が生えているらしい。
うーん、その金髪と黒髪を合わせながら細かい三つ編みにしたらもっと格好良くなるのに……ますます惜しい。
複雑な作りをした飾り上着のフックやボタンを留めて、その上からこれまた派手でしっかしりた帯を締めて腰袋を付ける。そのあと室内用の軽いマントを羽織ってもらって胸元にあるマント留めをつけたら完成だ。
「どうでしょう? ソヤリさん」
「いいですね、とてもよくお似合いです」
私も少し離れて着付けの出来を見る。
今日は青を基調としたコーディネートで、光沢のある水色の立襟に、ロイヤルブルーに銀と赤の差し色が入った飾り上着に、金の豪華な縁取りがしてある白のマントだ。夏っぽい涼しげな爽やかコーデである。
「うんうん、爽やかさが増してて格好いいですアルスラン様!」
「ええ、王の威厳が出ていて素晴らしいです」
「……はぁ、マントが重いな」
せっかく私たちが揃って褒めているのに当の本人は顔を顰めてマントを摘んでいる。
「これで一日過ごすのか」
「いつもより背筋を伸ばして執務ができるのではないですか」
「そんなことをしていたら肩が凝る……」
ソヤリの言葉にため息をついてアルスラン様は「ご苦労であった」と言って静かに執務机の前に戻っていった。アルスラン様が歩くたびにひらりとマントが格好良く揺れるので、それを見ただけでも着替えてよかったと私は思う。
「服が変わるだけでこんなに違うんですねぇ。すごい王様っぽいですよ」
「今までの服の着方があり得ないと言った意味がわかりましたか?」
「はい、今の方が百倍格好いいです」
アルスラン様の脱いだものを籠にまとめて王の間の外に出しながら、私とソヤリはコソコソと言い合った。
着付けが終わったあとは本棚の片付けを始める。今日は夕方までここにいるのでアルスラン様の個室の外壁にかかっている飾り布の交換や、書類の整理なども少し手伝う予定だ。
しばらくして騎士棟から帰ってきたクィルガーがアルスラン様の姿を見て「やはりアルスラン様はああいうお姿がしっくりくるな」と目を細めていた。本人以外には好評でなによりである。
そして王の間の日常が始まった。
「アルスラン様、そろそろ国境の入国審査のお時間です」
「わかった」
執務時間が少し過ぎたあと、ソヤリがそう告げるとアルスラン様はペンを置いて立ち上がり、上を見上げた。
? なにをするのかな?
と思っていたら、なんとアルスラン様の体が黄色の光に包まれてふわりと浮き、そのまま音もなく上へと昇り始めたではないか。
え? ええ⁉ なにこれ‼
私がポカンと呆気に取られている間にアルスラン様の姿は塔の先端の方へ消えていった。
「な……な、なな、なんですか? 今の」
「そういえばディアナが見るのは初めてですね。あれも黄の魔石術の一つだそうです。特級にしか使えないものらしいので、学生には教えていません」
「黄の魔石術で飛べるんですか……」
「移動の魔石術の応用だそうですよ」
私の移動の魔石術は釣りを参考にしている。もしかして始点を塔の先端に設定して自分の体を引っ張れば、私にもできるのかもしれない。
……いや、失敗したら怖いから、絶対やめとこ。
「入国審査は上でやるんですね」
「すべての国境の方向が見えますからね。場所を目視できた方が楽なんだそうです」
そういえば入国審査ってどうやってやってるんだろう……なんかの魔石術を使うんだろうけど、きっとアルスラン様にしかできないレベルのすごいやり方なんだろうな。
その後も片付けを続け、上から戻ってきたアルスラン様の執務も続く。お昼の時間になって一緒にコモラのご飯を食べながら、私は木の緞帳の制作の話をした。
「ふむ、横に開く大きな木の扉か……それならベリシュの工房に頼むとよい」
ベリシュというのが王族御用達の木工房の親方の名前らしい。学院ができた時に初めてお抱えになったことから古株ではないようだが、その腕は確かなようだ。北東街にある工房なので北西街のうちには馴染みがない。
「どういう手順で頼めばいいですか?」
「オリム経由で発注すれば問題ない。学院の施設の増設に関してはオリムに任せてある」
「わかりました」
「予算は足りるのか?」
「去年魔石装具クラブと作った照明灯がいい値段で売れたので、その売り上げを使います。あ、もちろん副クラブ長に相談してからですが」
「あの照明を買ったのはうちの騎士団だがな……」
「……なんだか城の中だけでお金が回ってますね。あと私の私財も結構溜まってきたので、足りなかったらそこから出すつもりです」
やり手のサモルのおかげでどの商品も売り上げが伸びているので、ちょっとくらい高いものでもポケットマネーで買えば演劇クラブの予算を圧迫することはない。
「その金には手をつけない方がよい」
「……え?」
「其方は特殊な身の上だ。自分の身を守る財産は十二分に持っていた方がいいだろう。演劇クラブで使う金は演劇クラブ内で増やせばよい」
「私財は使わない方がいいということですか?」
「そうだ。アルタカシークは安定してまだ十年余りだ。そしてこの状態がずっと続くかもどうかもわからぬ。特に其方は寿命が長いのだから、その辺りもよく考えて使っていった方がよい」
「……わかりました」
確かに私が生きる時間は長い。この先なにがあるのかわからないのだから、私財はちゃんと別に貯めておいた方がいいだろう。
午後からは飾り布を交換したり、書類の仕分けを手伝ったりする。
アルスラン様の私室を飾るこの布はすべて先代の王妃様が作った魔除けの刺繍が入ったものなんだそうだ。虚弱で毒湧き病を患っていた息子のアルスラン様が無事に育つようにと、ひと針ひと針手縫いしたものらしい。
すごい……こんな大きさの飾り布を何枚も。王妃様はそれだけアルスラン様のことが心配で、その健康を心から願ってこれを作ったんだろうな……。
飾り布は時折アルスラン様が洗浄の魔石術をかけていたらしく汚れてはいないが、ここ十年余りずっと掛けっぱなしだったのでところどころほつれてきている。今回はそれを修理に出して、臨時の新しい飾り布に替えるんだそうだ。
「ふぅ、こんなものかな」
新しい飾り布に私室の壁が彩られてなんとなく心地がいい。私は外した飾り布を大事に折り畳んで、まとめて黄の魔石術で出入り口の外に出した。
「どうですか? ソヤリさん」
「気分が変わってとてもいいですね。ありがとうございますディアナ」
アルスラン様の衣装が変わり、部屋の飾り布も変わり、本も少しずつ整理されていく様子を見てソヤリはかなりホッとしたらしい。私でもわかるくらい機嫌が良かった。
その日の夕方になるころには、王の間の時間にすっかり慣れてしまっている自分がいた。さすがにこれだけ長時間ここにいて、ずっと働いているとあまり緊張もしなくなる。
なんかこう、王の間の日常に自分も浸かっているような、そんな感覚なんだよね。
気を抜いたら掃除をしながら鼻歌を歌いそうになるので、そこはさすがに自重した。
その日の執務が終わり、コモラの夕食を食べたあとに再びアルスラン様のお召替えの時間だ。今度は寝衣の服を肌着の上に一枚羽織るだけなので、着ているものを脱げばすぐに終わる。
「其方は本当によく食べるな」
「あれはコモラの料理が美味しすぎるので仕方ないんです」
「仕方なく食べる量ではないと思うが……」
「アルスラン様もお食べになる量が増えてきましたよね」
アルスラン様の服を脱がしていきながらさっきの夕食の話をする。初めのころに比べたらアルスラン様の食べる量が確実に増えているのだ。顔色も大分良くなってきていて嬉しくなる。
あとは王の間の床の本を全部片付けて、運動をしないとね。
「アルスラン様、五大老のアサビ様から運動や健康に関する本が届いたので、今度の読書の時間にぜひ読んでくださいね。王の間が片付いたらそれを実践しますから」
「……なんだそれは。聞いていないが?」
「ソヤリさんには運動の時間をとることについては了承をもらってます」
私が寝衣の服を広げながらそう言うと、アルスラン様はジトッとソヤリを睨む。
「読書もできて、新しい知見を得られるのですから、有意義な時間になると思いますよ」
「……気が向けばな」
「あ、アルスラン様、そういえばまだお伝えしていない情報なのですが、運動と学習にはとても興味深い繋がりがあるんです。それを知りたくはありませんか?」
「む? それはあちらの情報か」
「そうです。まだお伝えしていない運動に関しての情報です」
私が寝衣のボタンを留めながらチラリと見上げると、アルスラン様はピクリと眉を動かした。
「アサビ様からの本を読んで、私の話を聞けばきっとアルスラン様も運動をしたくなりますよ。ふふ、はい、お着替え完了です」
私は寝衣の裾を整えると立ち上がってニコリとアルスラン様に微笑む。
「ではまた参りますね」
「……ああ、ご苦労であった」
アルスラン様は表情を動かさずにそう言ったが、少し声が高くなっていた。さっきの私の発言に興味を持ったようだ。
そのままアルスラン様の前から下がりソヤリにアルスラン様の服が入った籠をを手渡すと、「貴女は本当に予想外に頼もしいですね」と苦笑された。隣のクィルガーを見ると完全に呆れている。
「着付けの最中にあんなことを言い出すとは……おまえ、アルスラン様の補佐なんて恐れ多いとか言ってなかったか?」
「……そういえば言ってましたね。一日中ここにいたので慣れてしまったようです」
「慣れるのが早すぎるだろ!」
クィルガーはそう言うと顔に手を当てて天を仰いだ。
王の間の日常でした。
早くも慣れてしまったディアナ。
着付けをして格好いい王様が出来上がりました。
次は 護衛試験での騒ぎ、です。