夏休みの始まり
「な……な……」
なんじゃこりゃぁぁぁぁぁ!
学院から戻ったその日、自室で着替えた私はすぐにジャシュのいる本館の談話室に向かったのだが、そこで飛び込んできた光景に目を疑った。なんとそこには、絨毯の上でうつ伏せになりながら元気にゴネゴネ動いているジャシュがいたのだ。
おくるみに包まれてゆりかごに寝かされている姿を想像していた私は、驚きのあまり口を開けて固まった。
「ふふ、なんて顔してるの、ディアナ」
「だだだだって! え? 嘘でしょ。う、うつ伏せ? もうこんなに動けるんですか⁉ 成長早すぎません?」
「成長具合は普通だって医者は言ってたわよ」
「そうなんですか……ひゃぁ……めちゃくちゃ動いてる」
私は絨毯の上で元気よく動いているジャシュにそろそろと近づき、ペタリとしゃがんでその顔を覗き込んだ。手足をバタバタと動かしていたジャシュは私の顔を見上げ、ぽかんとして海老反りのポーズのまま固まった。
「ジャシュ、ただいま。お姉様ですよ」
私のこと覚えてるかな?
と、ドキドキしながら声をかけると、ジャシュはしばらく私の顔を見たあと、デヘっと笑った。
うわぁぁぁぁぁぁぁ! 可愛いぃぃぃぃぃぃぃ‼
その顔にズキュンとやられた私は思わずジャシュの脇に手を突っ込んで持ち上げる。
「ジャシュ! 大きくなったねぇ。すごい、首もしっかりしてる!」
「アー」
いきなり視界が変わったのが面白かったのかジャシュは手足をバタバタさせて喜んだ。
「そのまま縦に抱っこしても大丈夫よ」
ヴァレーリアにそう言われてジャシュをそのまま抱っこすると、心得たようにジャシュは両足を広げて私の胴体にガシッとくっついた。
ふおぉぉぉぉぉ⁉ なにこれ!
「お母様っジャシュの足が……!」
「ああ、面白いわよねそれ。本能的に落ちないように力を入れてるんでしょうけど、思った以上に力が強くて私もびっくりしたわ」
「ジャシュ様は力の強いお子のようです」
ヴァレーリアのトカルのティンカが微笑みながら教えてくれる。ジャシュは成長具合は普通だが、筋肉の発達が早いらしい。さすがクィルガーとヴァレーリアの子である。
私はそのまま絨毯の上で三角座りをして腿の部分にジャシュを乗せ、えへへとだらしなく笑ったまま喋りかけた。ジャシュは大きな目で私の顔を見ながら「アーウー」と言って笑っている。
「あ、ジャシュの目ってお父様そっくりですね」
生まれた時はうっすらとしか目が開かなかったのでよくわからなかったのだが、ジャシュの目はクィルガーと同じ赤色をしていた。
「それに髪の色も……」
「髪は私とクィルガーの半々なのよ」
「え?」
ジャシュの前髪と頭頂部はクィルガーと同じ金に近い銀髪なのだが、よく見ると後頭部から襟足にかけて黒髪になっている。ちなみに頭に帽子やターバンをつけるのは一歳になってからだ。
「本当だ。後ろ側だけお母様と同じなんですね。……長男は母親似になるって聞いたことがあるんですけど」
「ふふ、どう見てもクィルガー似のようね」
「ジャシュも覚醒が使えるんでしょうか」
「そうね、カタルーゴの血が入っていれば覚醒は使えるらしいから、ジャシュも使えると思うわよ」
「そうなんですか」
私はそれからジャシュのお世話係にあやし方を教えてもらいながらジャシュとたくさん遊んだ。私が作ったでんでん太鼓も気に入ってくれているようで、クルクルと回る木の実を目で追って笑っている。
えへへ、でんでん太鼓作ってよかった。他にもジャシュが喜びそうな音の出るおもちゃ考えてみようかな。
クィルガーが帰ってきて夕食をとったあと、私たち三人は内密部屋に入った。私のことを話す前にまずはイシークについて説明してもらう。
「で、なぜイシーク先輩をうちで預かることになったのですか?」
「去年一年であいつは別人のように変わっただろ? 貴族の礼儀を覚えたし、おまえの課題のおかげで勉強の方も人並みにできるようになった」
「まぁ、そうですね。あの変わり様は正直すごいと思います」
「イシークがあそこまで変われたのはなぜだと思う?」
「それは……イシーク先輩が素直でなんでも吸収できる性格だったからじゃないですか?」
「それもあるが、それだけじゃない。あいつが本気で変わろうとして必死に努力できたのは、おまえに仕えたいという思いが強かったからだ」
「え……」
「その子、よっぽどディアナのことを尊敬しているのね」
ヴァレーリアの言葉にクィルガーが頷く。
「ああ、そうじゃなきゃあそこまではできないだろうな」
「……尊敬、ですか?」
そう言われても自分の中ではピンとこない。
「私、イシーク先輩に対してなにか行動したこともありませんけど、なぜそんな風に思ったのでしょうか?」
「それは本人に聞かなければわからないが、少なくともあの新シムディア対決の時のディアナを見て惚れ込んだのは確かだろうな。よっぽどおまえの戦い方が心に響いたんだろ」
私はその時のことを思い出そうとするが、クドラトとの対決に集中していたのではっきりとは思い出せない。なにがイシークの心に刺さったのだろうか。
「心の底から誰かに仕えたいと思う気持ちは俺にはわかる。そしてそれがカタルーゴ人にとっては難しいことであることも。だから変われるなら変わってみろとあいつに言ったんだ。その覚悟の強さを行動で示してみせろってな。そして、俺が思っていた以上にあいつは成長した」
クィルガーは私を見つめながら話し続ける。
「イシークの本気はちゃんと俺には伝わってきた。だから次は父上に預けようと決めたんだ。あいつは頭も悪いが体の使い方も全くなっていない。そこを一から鍛え直さないとディアナの護衛は不可能だ。カタルーゴ人の鍛え方は父上が一番よくわかっているから適任だと思ったしな」
「まさか、お父様が受けた訓練をイシーク先輩にもさせる気ですか?」
おじい様の鍛え方といえば例の砂漠に置き去り方式である。
「……イシーク先輩、大丈夫でしょうか」
「子どもの俺が死ななかったんだから大丈夫だろ」
クィルガーは肩をすくめてそう言うが、イシークは砂漠で過ごすこと自体初めてなのだ。それに相手は伝説の騎士クィルガーの父親で、元王宮騎士団長のおじい様である。眼力だったらクィルガーより怖い。
先輩……干からびた大根みたいにならなかったらいいけど。
「父上に夏休み中預けてその訓練に耐えることができたら合格だ」
「合格すればイシーク先輩は私の臣下になるんですか?」
「いや、それはおまえが決めればいい」
「へ?」
「父上の訓練に耐えて合格することと、おまえに仕えるということはまた別問題だ。おまえの側にいるための最低条件をクリアしたというだけにすぎない。だから最終的にイシークを臣下にするかどうかはおまえが決めればいい。主従関係は他人が決めることじゃないからな」
それはそうだけど……私が決めるのか……。
自分が臣下を持つという感覚がよくわからなくて私はうーん、と首を捻る。イシークのことはこの一年で見直したし、柴犬みたいで面白いなと思うけど、臣下にしてもいいかと言われるとよくわからない。それは私がそういった世界で生きてこなかったからだろうとも思う。
臣下とか家来って時代劇の中の話だもんねぇ。
「まぁ父上の訓練に耐えられるかはまだわからないんだ。それが終わってから考えればいいさ」
「お父様はいいんですか? その、男性が私の臣下になるということについては……」
「あいつが邪な気持ちを持っていたらすでに叩き潰してる」
クィルガーはニコリと笑って即答した。怖い。それを見たヴァレーリアが横で吹き出している。
「ふふ……私もサモルとコモラに子分にしてくれと頼まれた時は困惑したけど、自分には必要だなと思ったから彼らの申し出を受けたのよ。ディアナも自分がいいと思うなら受け入れたらいいわ」
ヴァレーリアのその言葉にフッと肩の力が抜ける。
そうだよね。ルザも前に言ってたけど私が側にいてもいいと思えば受け入れればいいのだ。そう思わなかったら諦めてもらおう。
「わかりました」
「イシークについての話はこれで終わりだが、そっちはなんなんだ? 学院を出る前になんかあったのか?」
クィルガーがお茶を一口飲んでからそう聞いてきた。
私は校舎の正面玄関前で出会った女生徒の話をして、彼女が渡してきた紙切れをクィルガーに手渡した。
「なに……あの地下にいた娘が学院の生徒……貴族だったのか? あの娘はあの革屋の知り合いの娘だとか言ってたよな」
「言ってましたよね。だから私もびっくりしたんですよ。地下のあの子とそのメモを渡してきた子がまさか同一人物だなんて思いませんでしたし」
「……なにか事情がありそうだな」
「その書いてる日付の日はあの革屋にいるそうですけど、どうしましょうか?」
「おまえはその娘に会いたいのか?」
「会いたいに決まってますよ! なんかちょっと変わった感じの子でしたけど、あれだけ太鼓が叩けるんですよ? どんな子か知りたいしめちゃくちゃ勧誘したいです!」
私が興奮してそう言うと、クィルガーが途端に呆れた顔になる。
「そういえば革屋の帰りの時も友達になりたいとか言ってたな。だが別にその娘は演劇クラブに入りたいとは言ってなかったんだろ?」
「う……そうですけど……でも私に声をかけてきたということは、全く興味がないわけじゃないと思うんです」
クィルガーは渡したメモ用紙をもう一度見て顎に手をやる。
「名前はツァイナか……黄の寮なんだよな? ソヤリに情報を聞いてみるから少し待っててくれ」
「あれ、名前なんか書いてました?」
「ここにあるだろ」
私が身を乗り出すと、クィルガーが目の前にメモ用紙を掲げてくれる。その一番下の隅に小さな文字が書いてあった。
「ちっちゃ」
「この字面を見るにあまり外交的な性格ではなさそうだな。しかしなんでおまえに声をかけたんだろうな、おまえのこと嫌ってたのに」
「嫌われてないですよ! 多分。前はその、声の掛け方がまずかっただけで……」
「とにかくその娘の素性を調べてみて、危険のない人物だとわかったらこちらから革屋に一度使いを出そう。その娘が勝手に言っているだけで店の主人はこのことを知らないかもしれないからな」
「そうですね、わかりました」
後日、ツァイナの情報をクィルガーが持って帰ってきた。再び内密部屋でその報告を聞く。
「ツァイナはうちのアリム家と懇意にしている中位貴族の家の娘だった。だから会うこと自体は問題ないが……」
そこでクィルガーがなぜか言い淀む。
「なんですか?」
「いや、まぁその……あの娘にはいろいろと込み入った事情があるようだが、まずおまえがその娘と会う方が先だな」
「え! 会っていいんですか?」
「会いたいんだろ?」
「会いたいです! そして音楽の話をしたいです!」
私が目をキラキラさせてそう言うと、クィルガーはフッと顔を緩めた。
「ややこしいことになりそうだから止めたいけど、ディアナのそんな顔を見たら止められないな、って顔してるわねクィルガー」
「ヴァレーリア……」
隣でニヤニヤと笑うヴァレーリアをひと睨みしてクィルガーは咳払いをする。
「ところでその子は中位貴族の子らしいけど、彼女からの呼び出しにディアナが答えるという形はあまり良くないんじゃない?」
ヴァレーリアの言葉に私はハッとする。そういえば中位貴族が高位貴族を一方的に呼び出すのはかなり非常識な行為だ。
「普通の貴族同士のやり方としては最悪だな。だがこれは正式な招待ではないし、あそこは今ディアナのでんでん太鼓を作っているから、工房の見学に行きたいと伝えておけば行くこと自体は問題ない」
「なるほど、それもそうね」
「ありがとうございます! やった!」
またあの子の太鼓が聞ける! 音楽の話ができる!
「また二人だけで行くの?」
「そうだな、どっちにしろ平民の格好をしてこっそり行くしかないし、向こうも古い音出しを扱っていることをあまり知られたくはないだろうから、俺たちだけの方がいいだろ」
「また私はお留守番なわけね」
「今度一緒に武器屋に行くって約束しただろ? それまで我慢してくれ」
クィルガーはそう言って隣のヴァレーリアの頬をするりと撫でた。相変わらずラブラブである。
「あの武器屋さんに行くんですか? 私も行きたいんですけど」
「なにか注文したいものがあるのか?」
「いえ、去年一年使ってみてちょっと改良したいところが出てきたので相談したいんです」
「改良か……じゃあ革屋とは別の日にみんなで行くか」
クィルガーの言葉に私とヴァレーリアはパッと顔を輝かせる。
「お母様と出かけられるんですか? 嬉しいです!」
「やっとディアナと街へ出れるのね」
「あ、でもジャシュは?」
「つきっきりで私がいなくても大丈夫になったし、トカルたちに任せるわよ。ああ、でも抱っこして連れて行くっていうのもいいわね」
え⁉ ジャシュを商業区域に連れて行くの⁉
「ダダダダダメですよ! 商業区域は衛生的にアレなので!」
「馬鹿、ディアナだけでも神経使うんだ。赤ん坊のジャシュまでいたら俺の神経がもたん」
私とクィルガーが反対するとヴァレーリア「そんなに難しいかしら?」と首を傾げている。平民区域の近くで育ち、冒険者として過ごしてきたヴァレーリアにとってはそんなに構える場所ではないらしい。
神経が図太すぎるよお母様……。
「革屋へ行く日はジャシュのお披露目会が終わってからになるが」
「わかりました。そこはお父様にお任せします」
あの子のあの太鼓の演奏がまた聞けるのかな……今度は警戒されないようにしなきゃ。
夏休み早々楽しみなことができて、私は心の中で鼻歌を歌った。
夏休みが始まりました。
四ヶ月離れている間にジャシュは成長中。
イシークはカラバッリに預けられ、太鼓の女の子はツァイナという名の中位貴族でした。
今年の夏休みは念願のヴァレーリアとのお出かけもできそうです。
次は ジャシュのお披露目会、です。