年明けの練習
「うううぅー、ジャシュぅー」
「……ディアナ、行くぞ」
「嫌だぁ、まだ離れたくないですぅ」
「ディアナ、本当にそろそろ行かないと遅刻しちゃうわよ」
冬休みが終わり寮に戻る日の朝、私は玄関ホールでしつこく粘っていた。
「往生際が悪いぞおまえ」
「もぅ……ほら、ディアナ、こちらへいらっしゃい」
ヴァレーリアが抱いていたジャシュをクィルガーに渡して両手を広げたので、私はその胸に飛び込む。
ああ……お母様の胸はやっぱり最高の癒しだ……。
「ジャシュの様子を書いた手紙を毎週送るから、あなたも返事を書いてちょうだい。それをジャシュに読み聞かせるわ」
「本当ですか?」
「ええ、だからいつまでもそんな顔してないで、しっかり勉強してくるのよ。わかった?」
「……わかりました。ジャシュにいい報告ができるように頑張ります」
「ふふ、いい子ね」
ヴァレーリアはそう言って私の額に口づけを落とす。ジャシュが生まれてからヴァレーリアとこういう触れ合いが増えた気がする。ちょっと恥ずかしいけどそれ以上に嬉しいので、私の顔はだらしなく緩んだ。
「まるで幼児だな……ほら、行くぞ」
「いってらっしゃい、ディアナ」
「いってまいりますお母様。ジャシュ、お姉様は頑張ってくるので元気でいるのですよ」
私はよく寝ているジャシュの頬に軽く口づけをしてバイバイと手を振った。
玄関を出ると、真冬の空気がビシバシと頬や耳に当たってきていきなり現実に引き戻される。
「寒い!」
「目が覚めていいじゃねぇか」
「お父様、もう家に帰りたいです」
「早すぎるだろ!」
クィルガーとそんな言い合いをしながら階段を降りて馬車に乗り込む。見送りに来たイシュラルたちに手を振って私は城へと出発した。
「もぅ! この世の終わりのような顔をしているからなにかあったのかと思ったじゃない!」
ジャシュと離れるのが辛くてどんよりした顔でルザとともに寮の相部屋に戻ると、他の二人にめちゃくちゃ心配され、そしてザリナに怒られた。赤ん坊になにかあったのかと思ったらしい。
「だってジャシュが可愛くて可愛くて……離れたくなかったんだもん」
「……そんなに可愛いものだったかしら下の子って……」
「ザリナには妹たちがいるんでしょ? 生まれた時のこと覚えてないの?」
「一番末の妹のことは覚えてるけど、私は女性館で生活していたし、食事の時くらいしか会わなかったから」
なるほど、普通の貴族というのはそういう感じになるのか。
私が毎日、本館に通ってジャシュにまとわりついているという話をすると、ザリナもルザも目を丸くしていた。ファリシュタがクスクスと笑いながら私に賛同してくれる。
「うちは狭かったから妹や弟が生まれた時もずっと一緒の部屋にいたよ。生まれたての赤ん坊って本当に可愛いよね。私もよく抱っこして寝かしつけてたから」
「そうなの! ずっと見てても飽きないくらい可愛いんだよ!」
「うんうん、わかるよディアナ」
「さすがファリシュタ!」
私はファリシュタの手を握ってブンブンと振る。この気持ちを共有できるのは本当に嬉しい。そんな私たちをザリナとルザはポカンと眺めていた。
冬休み明けから早速演劇クラブの練習が始まった。二の月にシムディア大会があり、それまでイバン王子やケヴィンはそちらを優先させるため、これからしばらく全員揃っての練習ができない。
今日は貴重な全員集合の日なのだ。「この一年に祝福を」とみんなと新年の挨拶を交わしてから、いつものように基礎練習を始める。
「すまないね、こちらにあまり来れなくなって」
「大丈夫ですよイバン様。そのつもりでスケジュールを組んでますし、後半部分も大分できてきましたから。先輩たちがいない間に照明や音出しの方をやっていこうと思ってます」
私はそう言ってチラリと裏方三人組を見る。ダニエル、エルノ、ナミクの三人は途中から入ってきたため、まだ私がガッツリと関われていない。ファリシュタやハンカルが指導してくれているけど技術的にはまだまだなので、イバン王子たちがいない間にもう少しレベルアップしてもらおうと思っているのだ。
彼らは役者ではないのに、基礎練習にも参加してくれているとても真面目な三人だ。しっかり教えたらきっともっと上手くなれると思う。
そして部屋の隅で私たちと同じようにストレッチをしている人物に目を向ける。クラブの見学の許可を出したイシークだ。私たちの邪魔をしないように隅で同じメニューをしている彼には、「演劇のどういうところが魅力なのか」を探るよう課題を出している。
「わかりました。年明けにレポートにまとめます!」
と言っていたのでそろそろ渡されるのだろうか。チェックするのは正直面倒臭いが、演劇のことなら読みたいとも思う。ちなみにシムディア大会が近いのでイシークも休みがちになるのかと思ったら、なんとシムディアクラブを辞めてきたと言ってきた。これにはびっくりだ。
「元々、そんなに優秀な選手ではなかったので、悔いはありません」
と清々しいほどの笑顔で言われ、私だけでなくイバン王子も苦笑していた。
この日はイバン王子とレンファイ王女だけ、出来上がった平民用の衣装を着て練習してみることになった。まだ衣装を着ての練習は早いと思うが、イリーナが「実際に観客席の方からどう見えるのか確かめておきたいのです」とお願いしてきたのだ。
特に平民の服は私が思っている以上に気を遣っているらしく、チェックしたいことが多いらしい。二人とも快諾してくれたので別室で着替えてきてもらうことになった。
「わたくしの衣装を着てレンファイ様やイバン様の評価が落ちるようなことがあってはいけませんもの」
「評価が落ちるって……二人が見すぼらしく見えるとダメだから生地は貴族用のものにしたんだよね? それだけではダメってこと?」
「ええ。例え劇であっても大国の王族の方の品位が下がることはあってはならないことなのです。お二人に違和感なく似合い、それでいて平民に見えるものでなければきっと観客の人たちは劇に集中することはできないと思いますわ」
「なるほど……王族の品位を落とすことなく平民っぽさが見えるものじゃないとダメってことか」
イリーナの言い分に私は頷く。私はこちらの貴族の常識というがわからないので、観客がそこまで細かなことで違和感を持つということに気づいていなかった。貴族のジャッジというのは思った以上にシビアなもののようだ。
「ありがとうイリーナ。私お客さんの見方がどうなるかまで想像してなかった。そんなところまで考えるなんて、なかなかできることじゃないよ」
「そ、そうかしら……わたくしは服のことを考えてるだけだったのですけれど」
「ううん。イリーナのおかげで、この劇はより面白くなると思う」
「……わたくし、劇のお役に立っています?」
「もちろんだよ! イリーナがいなかったらこの劇は成り立たないんだから」
私がそう言うと、イリーナは一瞬感極まった顔になって、すぐに「嬉しいですわ」と笑顔を作った。
平民の衣装に着替えたイバン王子とレンファイ王女はなぜだかすごく嬉しそうだった。理由を聞くと「こんなに軽くて動きやすい服を着たのは寝衣以外なかったから」らしい。
貴族の中でも王族となると、生まれた時から着る服はきっちりとしていて重ね着が多いんだそうだ。
「平民はこんなに楽な服を着ているのかい? 羨ましいな」
「イリーナ、この衣装の枚数は平民と同じなの?」
「いえ、それでも平民よりは増やしていますわ。生地も貴族用のものですし。服の形が余裕のあるものなので、軽く感じられるのかもしれません」
イリーナの説明にイバン王子が「なるほど……形でこんなに違うのか」と感心している。私はメンバーのみんなにこの衣装の印象を聞いてみる。生粋の貴族から見て、この衣装はどう映るのか知りたいのだ。
「生地は上等なのはすぐにわかるが、形が貴族っぽくないから不思議な感じはするな」
と、ハンカルが言うと、
「いつもレンファイ様が着られる服とは印象が変わるので違和感はあるが、レンファイ様の美しさを損ねるものではないと思う」
とホンファが腕を組みながら言った。
「でも私はこの腰の部分がもう少し詰まっていても可愛いと思うわぁ」
「それはわたくしも考えたのですけれど、平民はあまり腰を詰めないようなのです。でも詰めた方が衣装としては素敵になるので迷ってしまって……」
シャオリーとイリーナがレンファイ王女の上着を摘みながら意見を言い合う。
「イバン様は帽子も替えてみたらどうかな。男性はそれだけで印象が変わるからね」
「む……確かにチャーチの提案はいいかもしれません、イバン様。刺繍の複雑さは変えずに色を落ち着いたものに変えるだけでお忍びの貴族に見えるかと」
チャーチとケヴィンの提案にイリーナと私はなるほどと納得する。
「ディアナ、男性の帽子というのは通常男性の家族が用意するものなのです。わたくしが作ることはできないのですけれどどうしましょう?」
へぇ、帽子って家族以外が作っちゃいけないのか。
「イバン様、そちらで用意していただくことはできますか?」
「ふむ、この衣装に合う帽子か……俺の手持ちにはないかもしれないな……アードルフ、この服に合うものを持っていないか?」
「私ですか?」
練習室の扉の前に控えていたアードルフが急に呼ばれて慌てて駆けつける。
「私の帽子をイバン様が被られるのですか?」
「劇の間だけなら別にいいだろう? アードルフとは遠い親戚でもあるんだし」
「普通、貴族の間で帽子の貸し借りなどしないものですが……まぁ、別の者に頼むより良さそうですね。わかりました。いくつか見繕って持ってまいります」
「頼んだよ」
衣装の確認が終わったところで、そのまま練習を始める。衣装が変わるだけで、劇の雰囲気がガラッと変わった。イバン王子とレンファイ王女が、ちゃんとお忍びで街を歩く貴族に見えるのだ。
「あら、貴方また会ったわね」
「ああ、本当に奇遇だね。君、名前は?」
「私はマリカよ。貴方は?」
「僕はシャハール。よかったら少し話さないかい? そこに、美味しいタルトを売っている店があるんだ」
「まぁ、私タルトは大好きなの。アンドレア、少しだけ行ってもいいかしら?」
「お嬢様……少しだけですよ」
二人が最初の場面を演じている間、イリーナは観客席側から衣装の動きをチェックしている。「もう少し動きがある布地を増やした方がいいかしら……」と呟きながらメモをとっていた。
平民の姿で演じる場面を通しでみっちりやって、そのまま休憩に入った。王子と王女は平民用の服が本当に気に入ったらしく、休憩もそのままの姿でとっている。
「本当に着心地がいいわこの服。私室で着る用にこういう形のものを作れないかしら」
「王族の方が着る形ではありません、レンファイ様」
ホンファがそう言ってレンファイ王女にお茶を出し、隣の小上がりに上った。
別に決めたわけではないけど、休憩場所はなんとなく身分でわかれていて、いつも王子と王女と私が同じ小上がりにいることが多い。お付きの人たちは同席はせずにいつでも動けるように近くの小上がりに控えているのだ。
アードルフの入れてくれたお茶を飲みながら私たちは冬休みの出来事を話し出す。もちろん、私はジャシュのことばかりである。
「そう、無事に生まれたのね。おめでとうディアナ」
「その顔を見ると、相当可愛がってるみたいだね」
「そうなんです。もう弟が可愛すぎて……あ、だめです、思い出しただけで私……」
普段は意識して思い出さないようにしているが、一度ジャシュの顔が浮かんだら終わりだ。もう会いたくて寂しくてたまらなくなる。
「うう……ジャシュに会いたい」
「本当に弟のことが可愛いんだね、ディアナは。俺はユラクルのことは可愛いとは思うが、泣くほどではなかったな」
「普通はそうなのではないの? 私も妹に対してそこまで思ったことはないわね……」
どうやら二人とも兄弟については普通の貴族と同じ感覚ようだ。王族となればもっと距離は遠いのかもしれないけど。
「そういえばユラクル様はヤンギ・イルの儀式は見られたのですか?」
「ああ、もちろん。学院に来る前から一番楽しみにしていた行事だからね。それはもう大興奮していたよ。彼は芸術的なものや美しいものに目がないから」
「私もここへ来てあの儀式を何回も見たけれど、いまだに感動するのよ。来年から見られないことが残念で仕方ないわ」
「そうだね、それは俺も同じ気持ちだ。あの儀式の日ばかりはうちの館にいる学生たちもみんな静かになるんだよ」
「え? 静かに?」
「厳かな雰囲気になるっていうのかな、神聖な空間にいるようなそんな感じになるんだ。レンファイ、リンシャークの館もそうならないかい?」
イバン王子の問いにレンファイ王女が少し複雑な笑みを浮かべる。
「……そうね、確かにあの時ばかりはみんな静かになるわね」
「……レンファイ、なにかあったのか?」
王女の表情に違和感を感じた王子がそう尋ねる。私も、王女の声が少し沈んだことが気になった。王女はかぶりを振って「なんでもないのよ」と答える。
すぐ隣の小上がりにいるホンファが王女を心配するように見ていた。
リンシャークの館でなんかあったのかな。
イバン王子もなにか言おうとしたが、各国のことについては突っ込んで聞ける立場ではないと思ったのだろう、
「……あまり思い悩むな」
と一言だけ声をかけた。それに口の端を少しあげて王女が微笑む。
平民の姿で声を掛け合う二人は、なんとなくいつもと違って距離が近いように思える。
「時間が経てば解決することだから本当に気にしてないのよ」
「そうか……」
私がぼんやりと二人のやりとりを眺めていると、アードルフがお茶のおかわりを持ってきて言った。
「ディアナ、そういえば今度のシムディア大会で貴方の考案したシムディア・アインが前哨戦として行われることになったのですよ」
「え! そうなんですか?」
「ああ、そうなんだよディアナ。あれからユラクルが中心となってシムディア・アインの方をまとめていてね、シムディアの前哨戦としてやったら盛り上がるんじゃないかって話になって決定したんだ。今年のシムディア大会もよかったら見にきてくれ。いい席を用意するよ」
「本当ですか? イバン様!」
となぜか横からラクスが歓声を上げる。「こらラクス、そちらの話にいきなり入るんじゃない。失礼だぞ」とハンカルが嗜めている。
シムディア・アインだったらあまり危険もないし、楽しそうだよね。観客側から見たらどんな風に見えるのかも確かめたいし。
「ありがとうございますイバン様。私楽しみにしてます」
「あら、じゃあ私も今年はディアナたちと一緒に見ようかしら。イバン、私たちの席もとっておいてくれる?」
「もちろんだよレンファイ。みんなが一緒にいてくれたら俺たちも見つけやすいし、クドラトも喜ぶと思うよ」
「へ? クドラト先輩ですか?」
「どうやらシムディア大会で君にいいところを見せたいらしい。『ディアナを招待しとけ』ってうるさいんだよ」
「え……」
イバン王子の言葉に私の顔が引きつる。
「わ、私あの時ちゃんとお断りしましたよね?」
「そっちは諦めたみたいだけど、ディアナを気に入ってるのは変わってないみたいだね」
うへぇ……マジですか。ちょっと行きたくなくなっちゃったな。
それを聞いてレンファイ王女がクスクスと笑い出した。
「社交パーディでの件は私もあとから聞いて驚いたわ。まさかディアナに求婚するなんてね。でも私、ディアナにはイバンの方がお似合いだと思うから、断ってくれてよかったと思ったのよ」
「ゴフッ」
「なっレンファイ⁉ 君までなにを言って……」
突然放たれた言葉に私は思いっきりむせた。王女は私たちを気にすることなく続ける。
「イバンの第一夫人はどこかの王女でしょうから、第二夫人……いえ第三夫人なら高位貴族でもいける可能性はあるでしょう? 伝説の騎士クィルガーを超えられるかはわからないけど、イバンは一級なんだし力は申し分ないと思うのよ、どうかしら? ディアナ」
「どうかしら、じゃないですよ! なんてこと言うんですかレンファイ様!」
「そうですよ! ディアナがイバン様の第三夫人なんてそんな大変なっ」
と、なぜかケヴィンが猛烈に反応する。大変な、とはどういうことだろう。
「レンファイ様、他国の、しかもザガルディの婚姻に口を出すなんて……」
「私はただお伺いを立てただけよホンファ。提案と言ってもいいかしら」
「レ、レンファイ……なぜ急にそんなことを」
それまで固まっていたイバン王子が困惑しながら尋ねる。
「少し前から考えていたことなのよ。ディアナといると貴方はよく笑っているし、私もディアナが好きだから貴方のそばにいてくれたらいいなと思ったの。まぁディアナの気持ちが第一だけど、可能性はなくはないでしょう?」
「……レンファイ……君は……」
イバン王子が愕然とした表情でレンファイ王女を見つめる。王女の発言に周りの空気が騒然となる中、私は申し訳なさそうに手を挙げた。
「あのー……非常に言いにくいことを申し上げるんですが、私がイバン王子のお嫁さんになるのは不可能だと思います」
私の言葉に王女が首を傾げる。
「不可能というのは?」
「レンファイ様、クドラト先輩の時はお父様のことを出すのが一番効果があると思ったのでああ言いましたけど、実はもっと物理的に結婚できない理由があるんですよ、私には」
「物理的に結婚できない理由?」
「ええと、ちょっと恥ずかしいのでお二人だけに言いますけど」
私は小上がりのローテーブルの中央に顔を寄せる。秘密の話だと察して周りの人はサッと離れてくれた。同じようにして中央に顔を寄せたイバン王子とレンファイ王女に私はコソッと呟いた。
「私はエルフです。多分、私が大人の体に成長するころには、ここにいる皆さんはこの世にいないと思います。だから今誰かのお嫁さんになるのは不可能なんです」
この世界ではお嫁さんになるということは相手の子どもを産むということとイコールだ。つまりこのあと何十年も子どもの体のままでいるであろう私と結婚するのは現時点で不可能なことなのだ。私が今大人の体になっていたならともかく。
私の言葉を聞いた二人は同時に固まって、ゆっくりと私の耳を見た。
「忘れていたわ……」
「俺もだ……」
どうやら二人とも私がエルフで成長がゆっくりであることを失念していたらしい。レンファイ王女は自分の発言の迂闊さについて謝ってきたが、二人が私のことをエルフではなく一人の人間として見てくれていたことが嬉しかったので、私は全然気にしなかった。
ああ、でもびっくりしたよ……本当に。
可愛い弟と離れたがらなかったディアナをなんとか引き剥がして学院へ。
演劇クラブでは年明けの練習が始まりました。
そこでレンファイ王女から落とされた爆弾。
実はディアナよりイバン王子の方がショックを受けています。
次は 繋がりの魔石術の実験、です。