始業式
よく晴れた九の月の初め、まだ夏の気配が残る朝の空気を吸って私は玄関先でくるりと振り返る。
「ではお母様、いってまいります」
「いってらっしゃいディアナ。十分に気をつけるのよ」
「はい」
玄関ホールまで見送りに来てくれたヴァレーリアとそう言葉を交わしながらハグをする。少し大きくなってきたヴァレーリアのお腹を圧迫しないようにそっと背中に手を回した。
ヴァレーリアの温かくて柔らかい胸ともしばらくお別れだ。
「お姉様は学院に行ってきます。私が冬休みに戻ってくるまでゆっくり大きくなるのですよ」
私はそう言ってヴァレーリアのお腹に手を当てた。すると私の手を叩くように、ポコリという音が鳴った。
「あら、なにか反応してるわね」
「いってらっしゃいって言ってるんでしょうか」
嬉しくて思わず耳をお腹に当てると、ポコリ、ポコリという音と、ショワショワショワショワという一定のリズムで血液が流れる音がする。多分これが胎動音というやつだと思う。この中で一つの命が育っている証拠だ。
「ふふふ、この音を聞いていると、自分がエルフの耳でよかったって思えますね」
「元気よさそう?」
「はい。とても元気な心臓の音ですよ」
「おい、そろそろ行くぞ」
私の後ろから一緒に城に行く予定のクィルガーが声をかけてきた。
「ではお母様、冬休みに帰ってきますね」
「ええ、待ってるわ」
私とヴァレーリアはもう一度ハグをして離れた。手を振りながら階段を降りてロータリーに停められた馬車に乗り込む。下まで見送りに来ていたイシュラルや他のトカルたちにも手を振る。イシュラルは私のスカーフに目をやったあと、うんうんと頷いて「いってらっしゃいませ」と跪いて恭順の礼をした。
ジャスルに乗ったクィルガーに守られながら馬車が動き出す。城に向かいながら私はクィルガーにとあるお願いをした。
「もし冬休みに入るまでに産まれそうになったらすぐに知らせてくださいね。私絶対帰りますから」
「おまえが帰ってきてもやれることはないだろ。俺と一緒に本館をウロウロするだけだぞ」
「それでもなにかあった時のために側にいたいんですよ。貴族のお医者さんの処置では足りないこともあるかもしれないじゃないですか」
通常、貴族の出産は魔石術の使える貴族の女医がやってきて出産の様子を見ながら魔石術を使うらしい。けれど女医以外は平民の使用人だけなので、その女医だけでは手が回らなくなった時に、側に魔石術の使える女性がいた方がいいんじゃないかと思ったのだ。
出産は女性館のなかで行われるので、クィルガーはそもそもかなりの緊急事態じゃないと入れない。
「いざとなったら母上を呼べばいいんだが……おまえがそんなに心配性だったとは思わなかったな」
クィルガーはそう言いながら苦笑している。
「……出産は命懸けっていう知識があるのでどうしても心配になるんですよ……」
前世で見たドラマや漫画で出産を扱ったものもたくさんあった。その時の大変そうな場面が頭に浮かんで離れないのだ。
「わかったよ。産まれそうになったらちゃんと知らせるから、おまえはこっちのことは気にせず学院生活に集中しとけ。今年からは演劇クラブも本格的に始動するんだろ?」
「はい」
「そっちでなにも問題が起こらないとは思えないしな」
「大丈夫ですよ、多分。まぁ始めてみないことにはわからないですけど……」
馬車が城の頂上付近に近づいてくる。
「ああ、そうだ。始業式と入寮が終わったら例の部屋に行ってくれ。ソヤリがそこで打ち合わせしたいんだと」
「クラブ紹介についてですね。わかりました、書類を持って説教部屋へ行きます」
「どうやら本来の説教部屋は別のところに移されたみたいだけどな」
「え、そうなんですか?」
「これからもおまえやソヤリがあの部屋を使う頻度が増えるだろうし、その度に人払いするのも大変だからな」
「……確かに」
しかもあの部屋に執務館に繋がる通路を作っちゃったもんね。一般の生徒は入らないようにした方がいい。
「あ、じゃあもしかして去年よりお父様に会う日が増えるんですかね?」
王の間に呼ばれることがあればそこにクィルガーもいる。
「ああ、そうだな」
「えへへ、それは嬉しいですね」
「俺は半分胃が痛いが……」
「なんでですか!」
「おまえが変なこと言いださないか気が気じゃない」
「失礼な。さすがにあそこで大はしゃぎはしませんよ」
王の間でリラックスなんか絶対できない。
「大はしゃぎしなくても変なことは言うだろおまえは……」
「……」
ガラガラと進む馬車の先に学院の正門が見えてきた。今日はアルタカシークの新入生以外の生徒が一斉にやってくるので門の手前まで馬車が溢れていて、誘導係が忙しなく動いていた。
しばらく手前で待機していると、周りで同じように停まっていた馬車の中から生徒がクィルガーを見ていた。「あ」という顔をして次にこちらの馬車に視線を移してまた「あ」という顔になっている。
「お父様、もう離れても大丈夫ですよ」
「いや、大丈夫だ。それよりも他におまえに言っておくことは……」
「……お小言はもういらないですからね」
クィルガーからの注意事項という名のお小言は昨夜に内密部屋でしっかり聞かされていた。私がそれを思い出して嫌な顔をしていると、クィルガーがため息を吐いて言った。
「とにかくなにかあればすぐに知らせろよ。おまえは全生徒から注目されてるんだから、あまり気を抜くな」
「わかってます」
「体を鍛えることも忘れるなよ」
「はぁい」
昨日と同じようなことを言われているうちに馬車が正門前に着いた。
「ではいってまいります、お父様」
「……ああ」
少し心配そうな顔をしたクィルガーに私はにこりと笑って手を振った。クィルガーは少し頷いたあと、正門を守る学院騎士団の騎士たちをギロリと睨んだ。それまで私とクィルガーの様子を見ていた騎士たちがビクリとして姿勢を正す。
それが「俺の娘をしっかり守れよ」という無言の脅しであると気づいて、私は苦笑するしかなかった。
正面玄関前のロータリーに着いて馬車を降りる。周りにはそれぞれの馬車から降りた在校生でいっぱいだった。私に気づいた幾人かの生徒たちがハッとしてあからさまに身を引く。
四ヶ月前の時よりはっきり避けられてるね……。
一度家に戻った子どもたちは親に私の話をしたのだろう。そこで「エルフは禁忌の存在」だと改めて言われたに違いない。実際の私の姿を一年間見ていて、新しいエルフと言われてただ戸惑うだけだった子どもたちは、親にそう言われて「やっぱり自分は近寄らないでおこう」と思ったんじゃないかな。
まぁ、私の印象を変えるのには時間がかかるよね。
アルタカシークの子どもたちでもこうなんだから、他国の子どもたちの態度はもっと厳しくなるかもしれない。
演劇クラブを通していい劇を見せていけば、こういう反応も徐々に薄まるかな。それを期待するしかないね。
そんなことを思いながら正面玄関の方へ歩いていくと、そこに見覚えのある三人の姿が見えた。
「お、来た来た! ディアナ!」
「ラクス!」
私に気づいてラクスが手をあげて私を呼ぶ。それに気づいて残りの二人もこちらを振り返った。
「ディアナ! 久しぶりだね」
「ディアナはやはりゆっくりだったな」
「ファリシュタ! ハンカル!」
見知った顔に会えたのが嬉しくて、私は笑顔で三人に駆け寄る。周りにいる生徒たちが驚いて私たちを見ているが、私は気にせずファリシュタと手を合わせる。
「ラクスとハンカルはなんでここに?」
「俺とラクスは先に入寮していたから二人のことを迎えにいこうと思ってここに来たんだが、着いた時にはすでにここにファリシュタがいたんだ。で、そのままディアナを待ってた」
「ファリシュタ、そんなに早くに来てたの?」
私がそう聞くと、ファリシュタは照れたように笑って言った。
「今日はアルタカシークの在校生が集まるから混むだろうなと思って早めの乗合馬車に乗ったんだよ。そうしたら本当に早く着きすぎちゃって、一人で大講堂に行くのは寂しかったからここでディアナを待ってたんだ」
「そうなんだ」
みんなと喋りながら大講堂へと向かう。するとファリシュタが私のスカーフを見て言った。
「ディアナのスカーフ可愛いね。よく似合ってるよ」
「そう? ありがと。なんかね、うちのトカルが私に似合うスカーフを見つけるんだって言って張り切っちゃって……。結局注文したものに納得いかなくて自分で作ったんだよ」
「トカルの手作りなの? これ。すごいね」
「本当にねぇ」
イシュラルが作ったスカーフは今までの形のものにプラスして、頭頂部あたりに大きなリボンが着いている。ふわっと立ち上がったリボンはぱっと見で猫耳みたいにも見えるので、私としては少し恥ずかしいんだけど、イシュラルをはじめ他のトカルやヴァレーリアに「可愛い‼」「絶対これに決まりです!」と言われてしまい、断りきれなかったのだ。
「このスカーフに決まるまでずっと頭を差し出してたから疲れたよ」
「ふふふ、でも私もディアナを可愛くしたいって気持ちはわかるよ」
「ええー」
私とファリシュタのやりとりにハンカルとラクスが苦笑している。
「そういうのは女性は大変だな」
「俺たちにはわかんねぇ苦労だよな」
「いいよね二人は帽子かぶってるだけでいいんだもん……て、あれ? なんかハンカルもラクスも背が伸びてない?」
「お、よく気づいたなディアナ! 夏休みの間にちょっと伸びたんだ。でもハンカルの方が伸びててさぁ、なんだよーって感じだよ」
ラクスがそう言いながら肩を落とす。
「俺の家系は背が高い人が多いからな。これからもまだ伸びていくと思うぞ」
「げ、嘘だろぉ」
「ラクスもきっとこれから伸びていくよ」
「ファリシュタは今年も優しい!」
そう言いながらラクスが自分の拳を握って感動している。私はそんなラクスに首を傾げて言った。
「でもラクスの背が伸びちゃったらケヴィン先輩が悲しむんじゃない?」
「はっ」
「いや、悲しむっていうよりキレそう?」
「あー、絶対キレるな」
ラクスとそう言い合っていると、後ろからコホン、という咳払いが聞こえた。振り返ると、そこに仏頂面のケヴィンが立っていた。
「誰がキレるって?」
「ケヴィン先輩!」
「うわっ噂をすれば」
思わぬところで本人が出てきて驚いていると、ケヴィンは一歩近づいてじとっとした目つきで私たちを睨んだ。
「全く、相変わらず失礼なやつらだな。僕を舐めてるとしか思えない」
「久しぶりだなケヴィン!」
「だから呼び捨てにするなラクス!」
ラクスがいつも通り火に油を注いでいる。
ちょっと待ってラクス、これ以上はややこしいからケヴィンを怒らせないで。
「わ、私はケヴィン先輩のことをマメで世話好きで女性に優しい人だなって思ってますよ! そういうところ尊敬しています!」
「む……そ、そうか?」
「はい! 演劇クラブには欠かせない存在ですっ」
私がそう力説すると、ケヴィンは少し目元を緩めてそっぽを向いた。
これは照れてるね……よかった、どうやら褒め言葉が効いたみたい。
「ケヴィン先輩がいるということはイバン様もいらっしゃるんですか?」
私の後ろからハンカルが質問すると、ケヴィンは首を振る。
「いや、イバン様が来られるのはまだ後だ。僕は先に大講堂へ行ってイバン様の場所を取るように言われている」
「ああ、なるほど」
それからケヴィンと一緒に大講堂に入る。終業式の時と同じように中は人でいっぱいだ。
いつも通り左側に黄の寮の場所があるのでそちらへ向かう。なんとなく、背の順もあって低い学年から前の方に行くのが暗黙の了解になっていた。
「じゃあまたな」
と言ってケヴィンが高学年の場所へ歩いていく。寮が違うのに王子の席を取らないといけないとは、側近というのも大変だ。
周りの生徒からの視線を受けながら前の方の絨毯の上に座ってしばらくすると、大講堂の扉が閉められて学院騎士団の人たちがその前に立った。
始業式の始まりだ。
正面の観覧席の下部分の扉から先生たちが現れて、いつものように観覧席に座る。オリム先生が観覧席の前に用意された台に上り拡声筒を手にした。
「ではこれから始業式を始めます」
始業式はオリム先生の挨拶から始まり、今年一年の行事の流れと去年から変更になったカリキュラムの話などがあった。
「それから今年から四の月の学年末テストのあとに演劇クラブの公演会が行われることになりました。他のクラブの行事同様にこちらにも注目してあげてくださいね」
オリム先生の言葉に生徒たちがざわつき、視線が一気に私に集まる。
「そうなのか? ディアナ」
「うん、そう。オリム先生と話し合った結果そうなったんだ。二の月、三の月はシムディア大会と魔石装具発表販売会があるし、テスト終わりだったらみんなゆっくり観にきてくれるかなと思って四の月になったんだよ」
話し合ってというか、王様が決定したことをクィルガー伝いに言われただけだけど、演劇の練習には時間がかかるしシムディアクラブと掛け持ちしてるメンバーもいるので、公演が遅い時期にあるのはこちらとしてもありがたい。
「あ、そうそう演劇クラブの顧問もオリム先生に決まったから」
「ええ!」
「オリム先生が?」
私の言葉にラクスとハンカルが目を丸くする。
「去年オリム先生が演劇の練習を観にきてくれたことがあったでしょ? あれで興味を持ってくれたんだって」
「へぇ……すごいな。オリム先生が顧問か」
「まぁオリム先生は優しそうだからいいよな」
「そうだね」
三人ともオリム先生が顧問と聞いてホッとした顔をしている。
オリム先生の話が終わり、その他の注意事項が終わると大講堂の扉が開かれ、各寮ごとに順番に退場が始まる。
去年は黄色が一番早かったが、今年は青色が一番らしい。
「毎年変わっていくんだね」
「さすが平等がルールの場所だよな」
「一度国に帰って戻ってくるとやはりここは特殊な場所だと実感するな」
「そうなの? ハンカル」
「ああ。基本的に貴族は上下関係があって当たり前だからな。ここの生活になれると、自国に帰った時に戸惑うこともある」
へぇ……そういうこともあるんだ。確かにここに通ってるのは周りの環境に影響を受けやすい年代の子どもたちばかりだもんね。
そんなことを話していると、黄の寮の退場の番になった。私たちは立ち上がってゾロゾロと大講堂を出る。
さていよいよ入寮だね。相部屋ってどんなんだろ? どんな人が一緒の部屋になるのかな?
二年生が始まりました。
始業式で久しぶりの再会です。
次は 相部屋と打ち合わせ、です。