プロローグ
ガタゴトと音を立てて揺れる馬車の中から雲ひとつない青空を見上げて、俺は今日何度目かのため息をついた。向かいに座る側近のアードルフがチラリと俺を見たあと、手元の本に視線を戻しながら言う。
「もうすぐアルタカシークの王都に着くのですから、そのような顔はそろそろ控えてください」
「……わかっている」
自分と同い年で小さなころから側近として近くにいるアードルフには、ついつい素の自分を見せてしまう。馬車の周りには護衛の騎士が並走しているので、ふとした瞬間に気の抜けた顔を見られないこともない。
俺はいつもの顔に戻して窓の外の砂漠に視線を移した。
「ここに通うのもこれが最後なのだな……」
初めてこの景色を見た時のことを思い出す。あの時はどこまでも広がる青い空と白い砂漠に、不安と期待が無限に膨らんでいった。
「入学式へ向かう時のことを覚えているかい? アードルフ」
「ええ、もちろん」
「俺は新しい環境で暮らすことの不安と、学院生活への期待と、思えば忙しない心持ちだった」
「それは私も同じでしたよ。まだ学院ができて数年しか経っていませんでしたから」
「そうだったな……」
学院ができた当初、多額の入学金とアルタカシークへの移動費がかさばるという理由で、各国の出方は慎重だった。特に大国のザガルディやリンシャークにとっては「いつ滅んでもおかしくない国」であるアルタカシークで、十分な教育が受けられるわけがないと懐疑的に捉えられていたのだ。
そんな空気が変わったのは、一年目の学院生活を終えた貴族たちが自国に帰ってきてからだ。彼らは揃って「貴族はみなシェフルタシュ学院に通うべきです」と父上に熱弁した。
「教師の質も素晴らしく、自分の身になることばかりでした」
「とても短時間で造られたとは思えないくらい、校舎や寮も圧倒される出来でした」
「高い入学金を払ってでも行く価値はあります」
俺は彼らの話を聞いて、人生で初めて「そこへ行ってみたい」と思った。大国の王子として生まれ、引かれたレールの先に見えるものは変わらなくても、そこへ行くまでに「他国の学院へ通う」という選択肢が生まれたことに正直心が踊った。
父上は渋っていたが、結局リンシャークの王女が学院に通う予定であることを知って「あの国に出し抜かれることだけは許し難い」と俺の入学を許した。
「……他国で長期間暮らせるのも、これが最後だな」
「先ほどからのため息はそれを惜しむ気持ちからですか?」
「まぁね。ここを卒業すれば、あとは公務でしか外には出れない身になるから」
俺は少しおどけてアードルフに微笑む。そんな俺に、
「私にはそれだけが理由とは思えませんが」
とアードルフが言って、読んでいた本を閉じた。
「……さすがに鋭いね、アードルフは」
「何年一緒にいると思っているのですかイバン様」
「物心ついた時からだね」
「……学院での動向を監視されるからですか?」
「……」
アードルフの言葉に夏休みの間の出来事が思い出されて、俺はまたため息をついた。
五年生が終わって国に戻ると、これ以上ないくらい不機嫌な父が待っていた。学院では詳しく教えてもらえなかったが、レンファイとディアナに嫌がらせをした犯人がザガルディに突き返され、その処分を任せるとアルスラン様から言われたらしい。
アルタカシークで問題を起こしたザガルディの貴族の後始末を、王自ら行えというかなり強気な文面だったそうで、大国の王である父にしてみれば自国の貴族に恥をかかされた形になったようだ。
しかもその事件を起こした犯人の動機が俺にあった。父の執務室でそれを聞かされた時は驚きでしばらく固まってしまったほどだ。
「イバン、其方本当に身に覚えはないのか?」
「……ありません。まさかそのように思っている女子生徒がいたとは」
「供述では其方の妾になるのが夢だったとか言っていたようだが」
「存じません。学院では個人的に話をしたこともないと思います」
俺がそう言うと、執務机に犯人の供述書をバサリと置いて父は息を吐く。
「其方の妾の地位に収まりたいと思う者たちはたくさんいる。しかしなれる見込みもないのにそこまで追い詰めることができるとはな……。これ以上妙な行動をする者が出ぬよう、其方の相手を早急に決めて、妾の選定もある程度しておかねばならぬようだ」
「お待ちください父上。私の相手は卒業してから正式に決めるという話だったではありませんか」
「たった数年の違いだ。今決めてもなんの問題もない」
「ですが……」
俺がそう言って目を伏せると、父の眉間に皺が寄った。
「なにを躊躇うことがある。リンシャークの王女もすでに婚約者は決まっている。其方が王位を継ぐのはまだ先であろうが、結婚は早めにしておいたほうがよい」
「……レンファイの相手は自国の州長の息子だというのは確定なのですか?」
「ああ、あちらは勢力の強い州長の子どもを順番に配偶者にする決まりがあるからな。女王は複数の相手を持つことはないから、その男が王配になることで決まりだろう」
「……そうですか……」
「リンシャークが他国の王族から相手を引っ張ってこれぬ今のうちに、こちらは力をつける必要がある。其方の相手はサマリーかジャヌビ、もしくはカリムのいずれの国の王女だ。その予定は変わらぬ」
「……わかっております」
父から視線を外してそう言うと、父の鋭い声が響いた。
「其方、この話になるといつも煮え切らぬ態度になるな」
「いえ、そのようなことは……」
「そういえば供述書に気になることが書いてあった」
「え?」
「犯人は其方とリンシャークの王女がいつも親しげに話をしていて、それに悋気を覚えたのだと。其方、まさか必要以上に向こうの王女と近しい関係なのではないだろうな」
「そのようなことはありません。レンファイと俺は大国の跡継ぎです。その立場を超えた関係はありません」
「だったらよいが……油断はするな。向こうはどのような思惑があって其方と一緒にいるかわからぬ。今回の件ではその王女に借りも作っている」
「レンファイはそれを利用して私になにかを押し付けるような人間ではありません」
「それが油断だというのだ。六年生の間は其方と王女の動向を監視するように其方の側近に命じておく」
「父上……」
「アルタカシーク王に保護されたエルフというのも気になるしな。学院で起こることは逐一報告させるようにしよう」
「まぁ、そう言って命じられたのがアードルフだったから、安心はしたよ」
「イバン様、私はきちんと王に報告はいたしますよ」
「報告書を送る前に内容を見せてはくれるだろう?」
「……はぁ、仕方ないですね……しかし結局イバン様の相手を早急に決めるようなことにならずよかったです。決まっていたら学院中で噂になっていたでしょうし」
「さすがに夏休みの短期間で決めることはできなかったみたいだね」
「なにを他人事のようにおっしゃってるんですか」
「ははは。まぁ、俺に選択権はないから他人事みたいなものだよ」
「イバン様、そのようなことを……」
「アードルフにくらい言ってもいいだろう? どうせ、卒業したらこのような軽口も言えなくなるのだから」
窓の外の白い砂漠を眺めながら俺は肩をすくめた。
夜になって砂漠の宿営地でそれぞれの身分ごとに夕食をとる。準備された部屋に入ると、弟のユラクルがすでに席に座って待っていた。
「待たせたね、ユラクル」
「いえ、私も今来たところです兄上」
銀色のおかっぱをふるふると左右に振って、ユラクルがふわっと笑う。彼の隣に座ると、使用人たちがローテーブルの上に夕食を並べ始めた。俺はそれに手を伸ばしながらユラクルに問いかける。
「ヤパンに座って食べることには慣れたかい?」
「はい。最初は戸惑いましたが、こういうのもいいものですね。他国に来たという実感が湧いてきます」
「そうだね。あれ? ユラクル少し焼けてないか?」
「あ……やっぱりわかりますか? 実は馬車の窓からずっと砂漠の景色を見ていたらこうなってしまって……側近に叱られました」
「ふふ、ユラクルの肌は強くないのだから気をつけないとね。そんなに砂漠の景色が気に入ったのかい?」
「はい! とても広大で砂がキラキラと輝いていて、風紋というそうなのですが砂丘に模様が描かれていて見惚れてしまいました。学院の建物も見事なのでしょう? 今から見るのが楽しみです」
「ユラクルは芸術的で美しいものが好きだから、きっと学院も気にいると思うよ」
それから話題は学院の話へ移っていく。ユラクルには昔から学院の話を聞かせていたからか、彼の目は期待でいっぱいだ。
「兄上は私より先に寮に入るのですよね。私の寮は何色なのでしょうか」
「同じ国の王族は分かれることになってるから、緑か青だろうね。緑にはレンファイがいるから、多分青色ではないかな」
大国の王族同士もできるだけ違う寮に分けられることになっている。
「青色ですか」
「青の寮にはケヴィンがいるから大丈夫だよ」
俺がそう言って部屋の端に控えているケヴィンに目をやると、彼は顔を顰めて言った。
「……イバン様、僕はクラブを掛け持ちされるイバン様を支えるので精一杯です」
「でもなんだかんだ面倒見がいいじゃないか、ケヴィンは」
「ユラクル様にはユラクル様の側近がいるのですから、そちらにお任せします」
ケヴィンはそう言ってユラクルの側に控えている学生の側近を見る。
「そういえば兄上はシムディアクラブと演劇クラブの掛け持ちをされるんですよね。かなり忙しくなるのではないですか?」
「そうだね。この一年で見ておかなければならないこともあるし、ユラクルとゆっくりできる時間は少ないかもしれないね」
「見ておかなければならないこととは……例のエル、フのことですか?」
「ああ、それもあるよ。まぁ、俺はあまりディアナについては心配していないけど」
「兄上の話を聞くと、とても不思議な子のようですね」
「不思議というか、変わった女の子だよ」
「変わった?」
「はは、まぁユラクルも会えばわかる。一級の授業で会うだろうからその時に紹介するよ」
「はい」
夕食を終えて宿の自分の部屋に戻ると、アードルフとケヴィンが話があると言ってやってきた。向かいのヤパンに座るように勧めて他の使用人を下がらせる。
「話というのは?」
「ディアナについてです」
俺の問いにアードルフがそう答える。
「学院に着く前に改めてイバン様のお気持ちを確かめておこうと思いまして。イバン様はディアナのことをどうお考えですか?」
「どう、というのは俺が彼女をどう考えているかということか? 個人的に?」
「はい。ディアナは魔石使いとして認められたエルフという極めて稀有な存在です。その彼女とこれからどのように付き合っていくおつもりなのかきちんと聞いておきたいのです」
アードルフが真面目な顔で俺を見つめる隣で、ケヴィンがうんうんと頷く。
「さっきユラクルに言った通り、俺はディアナのことをあまり警戒していない。大国の王子として彼女の動向には目を向けるが、特別なにかをするわけじゃないよ、今まで通り」
「理由をお伺いしても?」
「彼女が恐ろしいほどに演劇クラブのことしか頭にないからだよ」
俺がそう言うと、ケヴィンが渋い顔をして「確かに……」と呟いている。
「彼女は一般的な貴族が欲しがる権力や影響力を全く欲していない。好成績を取ったのも演劇クラブの設立がかかっていたからだと聞いた。……それによくエルフであることを公表したなとも思うしね」
「確かに、あのまま隠して学院に通い続けることもできたと思いますが」
「……公表しなければならないほど、テルヴァから執拗に狙われているということなんだろう。俺たちよりもね」
ディアナはそのまま正体を隠して生きることより、多くの貴族から忌避の目で見られることを選んだ。その方がテルヴァに狙われにくいと考えてのことだ。
「アルスラン様がどのような思惑でディアナを保護したのかはわからないが、俺が今後学院を卒業してアルタカシークと付き合う時に、ディアナと仲良くしておくことは損ではないと思ったのもある」
「……なるほど、こちらにとっては得はあっても損はないと」
アードルフの言葉にケヴィンが首を捻る。
「得……はありますかね?」
「ははは、ケヴィン、ディアナと話していると元気にならないか?」
「……まぁ、変なことはよく言いますね」
「それが面白いからいいんだよ。最後の学院生活も楽しいものになりそうだなと思えるじゃないか」
「大変な、の間違いではないですか?」
特徴的な吊り目を半開きにしてケヴィンがため息を吐く。
「できれば俺が卒業したあとも、ケヴィンには演劇クラブに残ってディアナのやることを見ていて欲しいと思っているよ」
「ええっ」
「まぁ、ケヴィンは元々演劇に興味があるようですし、それでもいいのではないですか?」
とアードルフにも言われケヴィンが顔を赤くして慌てる。
「べっ別に、僕は演劇が好きなわけでは……っ」
「ケヴィン、否定するのはそれくらいにしておいた方がいいですよ。ディアナにも多分バレていますから」
「そうだね。多分ディアナは『素直じゃないなぁケヴィン先輩は』って目で見てるんじゃないかな」
「アードルフ! イバン様まで!」
「今年は実際に口にするんじゃないでしょうか、ディアナは」
「ふふふ、そうかもしれない。賭けるかい? アードルフ」
「二人とも『する』に賭けるのでしたら勝負になりませんよ」
「確かに」
「……お二人ともいい加減にしてください! もう、違うって言ってるのに……」
と赤い顔でなにやらもごもご言っているケヴィンを見ながら、俺は自然と口角が上がっているのに気づいた。
彼女の話題になるだけでこんなに場が和むんだから、やっぱり変わった子だな、ディアナは。
二人が部屋を去り、寝支度を整えてベッドに入ろうとしたところで、ふと窓の外を見上げた。満天の星空に隠れるように小さな月が浮かんでいる。
君も見ているだろうか……。
五年前に自分が言った言葉を思い出す。
——なにか相談したいことがあったら、空を見て。俺もいつも月を見ているから、そこに話かければいいよ。
「我ながらとてもキザな台詞だね」
愛の告白ではないけれど、あの時の二人には必要な提案だったと思う。同じ立場に生まれ、同じレールを引かれ、そこからは逃れられない二人には、仲間が必要だった。
「仲間というか……戦友の方が近いかな」
それからはお互いに必要な距離を保ちながら存在を認め合ってきた。そんな彼女との関係も、あと一年で終わりがくる。レンファイが王位につけばこのような関係性を保つことは難しくなるからだ。
それが思いの外自分の胸に重くのしかかっていることに、国を出発してから気づいた。アードルフに聞かれたため息の原因はこれだった。
「……いや、しっかりしないとな。このような俺を見たら君はきっと怒るだろう」
私たちは王になるのだからしっかりしなさいと、絶対言われる気がする。
俺は最後に一つだけふぅ、と長い息を吐くと、いつもの王子の顔になってフッと笑った。
大丈夫だ。いつものように目の前のことに集中していけば、きっと胸の重さも消えるだろう。
そうして俺は窓の側から静かに離れた。
二年生の章が始まりました。イバン視点です。
大国の王子から見た国や学院、ディアナのこと。
これからの一年で彼の胸の重さは消えるのでしょうか。
次は 始業式、です。
いつものディアナ視点に戻ります。