7話 《唄編》 意地張っちゃうって終りたいって始めたいって。
きっかけがあるかどうか。
何かを始める時ってそれが大なり小なり人には何かあるものだろう。
私のきっかけはただ、生まれて初めて人を羨んだ記憶が脳に強烈にこびれついていただけ。
ただ、幼少期の私がその瞬間に息を呑むという感覚を体現しただけ。ただそれだけだった。
素直に心が動く瞬間が誰にだってあるものだろう。
私にはただ、その瞬間だった。それだけのことだった。
私のきっかけは彼女で、小さくて何もわからない私を、10以上の数字をまだ数え切れないような私を一瞬で虜にするような人だった。そう、それだけ。
ーーー
<倉敷>
「だから!ちがうって!」
雫ちゃんが吠えた。
「待ってよ!雫ちゃんだってさっきペダル踏んだんじゃん!」
唄先輩も吠え返す。
「あんたがぼさっとしてるからでしょ!私が踏んじゃいけないルールはないわ!」
「私のタイミングがあったの!別にぼさっとしてない!」
おーおーおーおー。
あのきゅんとした名前呼びタイムから早30分も経たないうちにあの二人は88ある鍵盤の上で戦争していた。
何がなんなのか、僕にはわからないがどうやら二人はいま唄先輩のタイミングと雫ちゃんのタイミングがあってないことを火種にして、雫ちゃんが足元にあるペダルを踏んだこと?に対して論争を繰り広げているようだ。
なかなか奥が深い。
喧嘩の内容も実に興味深い
「雫ちゃんはプリモなんだから普通ペダル踏まないでしょ?」
ぷり?よくわからんが唄先輩も今日は強気だ
「別にそんなルールないわ!だいたいペダルをどっちが踏むかなんて話し合ったこともない!」
雫ちゃんだって負けてはないが。
「あふーぅ、いい湯だったぁ」
おぉっ!酒井先生は風呂上がり片手にビールも持ってやってきた。プライベートすぎるだろ!湯けむり立つ女性とかエロいだろ!
だが、しかし。
今は片手ビール女子より連弾百合。
僕は二人を凝視する。
酒井先生が僕と同じソファに座りプシュっとビールの缶をあける。なるほど、酒井先生はビール派なんですね?しかも辛口派。ほうほう?
「まーた喧嘩してんの?」
酒井先生は眼鏡をクイッとあげるとうんざりしたように顔をしかめる
「なんか、ペダルがどーとかぷりぷりがどうとか話してました」
「え、なに?ぷりぷり?」
「えぇ、ぷりき○あのことですかね?」
「え、プリ○ュア?」
その間も雫ちゃんたちはきゃんきゃん吠える。ピアノをほったらかしにしてもう練習どころじゃなくなっている。
「なんであの二人話し合わないのかなー?脳みそないのかなー?」
「いっつもああなんですか?」
「いーーーっつも、お互い顔突き合わせてはこの前のコンクールがどうだったとかを雫が言い始めて唄がそれに応戦。そんなに気になる相手ならもっと普通に会話したらいいのに」
なるほど。気になるって解釈になるのか。
「気になってるんじゃなくて嫌いあってるんじゃないんですか?」
僕は試しに聞いてみた。もちろん僕だってそんなこと思ってはいないが。
「嫌い?まさか、ああいう風に突っかかるのはね、気になるのよお互いにね」
「百合的要素ですね」
「百合?」
酒井先生がそういうんだきっと僕の予想は外れてない。唄先輩は嫌われてない。切磋琢磨する百合もなかなかいいものだ。でもあんだけいがみ合ってたらいいものも作れない気がするけど・・
「でも倉敷君。君いい仕事したよ」
「え?」
僕は酒井先生の言葉に思わずキョトンとした
「君でしょ?名前、呼ばせるように仕向けたの」
「あ、雫ちゃんのですか?」
僕は唄先輩が先ほど雫ちゃんといった場面を思い出していった。
「ええ。あれは最高の仕事だわ。雫が佐々木唄ってフルネームを連呼するのはあの子なりの意思表示ですもの」
「?」
僕は先生の言っている意味がわからずその先の話を聞こうとした時だった
「もっと集中してよ!」
雫ちゃんが一段と大きい声をあげた
「してるって!」
「してない!ずっとしてない。ピアノよりも考えてることがあるんじゃないの?」
なんだか険悪だ。僕は固唾を飲んでそれを見守る。
「何それ?私がピアノを弾いてる時にそんな風に見えるって言いたいの?」
「そうよ。ずっと上の空じゃない。音を聞いてない!」
二人ともへんなスイッチが入ってる。これは止めた方が・・僕はそう思い酒井先生を見るけど酒井先生はビールをちょびちょび飲みながら二人を眺めてる。今、割って入りはしない。そういうことだろうか?
「意味わかんない!聞いてるし!それと一つ言わせてもらいたいんだけど!」
「・・何よ」
唄先輩が怒気を含むような声音で言う
「私のプライベートな友達にまであんなこと言わないで!」
「・・・・」
・・・・・これは・・・
「わかった。二度と関わらないし何も言わない。もう今日は終わり。じゃあ帰る」
「・・・・・」
雫ちゃんはそのままスッと立ち上がり教室を出ていった。
「今日は大噴火だねぇ」
酒井先生がボソッと言う
「いいんですか酒井先生・・」
「いいんじゃない?雨降って地って言うし」
「アダルトだ・・」
「?」
唄先輩はそのままその場で頭をもたげた。
「あうー・・・」
そのまま変な声を上げる唄先輩
「あ、後悔してる」
「ほんとですね・・」
ーーーー
<唄>
なんであんな言い方しかできないんだろう。
私は自分で言った言葉に後悔をしていた。きっと嫌な気持ちにさせた。
せっかく少しは話せるようになれるかなって思ったけど・・でも実際鈴に対してあんなこと言うのはどうかと思うし・・でも・・あぁあああ・・・
「じゃ。僕こっちなんで」
倉敷君は気を使って私に話をすることなくただ帰り道を歩いた。
酒井先生は『唄は子供だね』ってそれだけ言うと明日もちゃんとくるようにと私に念をおした。
「うん。明日もくる?」
「はい!もちろん!」
よかった。倉敷君が来てくれるのは、正直明日二人きりなんてとてもじゃないけどできない。
「じゃあ」
「うん、じゃあね」
そういって私たちは別れた。
そのまま家の前まで頭を抱えながら歩いていくと誰かがいた
「よっ」
「え・・鈴?」
そこには鈴がいた
「唄、携帯見てないの?私何度も連絡入れたんだけど」
「あ、ごめん。全然見てなかった」
「もー・・」
「ごめんっどうしたの?」
「ほら、この前貸した漫画あるじゃん。それ読みたくなったから取りに来たの」
「あ、なるほど!そんなの明日持っていったのに」
「うん。なんかどうしても今日読みたくなってさ」
「・・・?」
そんなに?私は少し違和感に感じたけどとりあえず私は鈴を家に入れた。
「でもよかったー」
「ん?」
鈴が私の部屋に入りながらそう言う
「だって思ったより早くに帰ってきたからさ」
「あぁ、そう。今日はうまくいかなかったからさ早めに切り上げたんだよね」
まぁ。早く終わったのはほとんど私のせいだけど。
「上手くいってないの?」
「いってない・・全く・・」
「意外だね。そんなに弾けなくなっちゃうものなの?」
「んーーどうなんだろう・・」
正直雫ちゃんと連弾を組み始めてから最後まで通して弾いたことがなかった。
まぁ、それはすぐに中断して喧嘩しだすからなんだけど・・・
「ピアノ嫌いになりそうだよ・・」
「うわーそんなに?」
嫌いになりそう・・こんなこと思ったこともなかったなぁ。
ピアノに対してこんなネガティヴな発言をしている私を見たことがなかった鈴は心底驚いた顔をしていた。
「それってあの子とも上手くいってないの?」
鈴が聞く
「あぁ。雫ちゃん?もう絶不調・・」
「なんで雫ちゃん?前は苗字で呼んでなかった?」
なぜか鈴が顔をしかめる。あぁ。そういえば鈴は雫ちゃんが嫌いなんだっけ?
「いやあ・・やっぱパートナーだし。仲良くならなきゃいけないとおもって」
「ふーん、仲良くなる必要あるの?」
「んー。先生はそうしろって言うし・・」
「ふーん」
なんだかすごく不機嫌な顔をされるから私はもうこれ以上その話はしないようにしようと思いさっさと鈴から借りた漫画を集めだす。
「私は唄のスランプは唄自身だけでどうにかできると思うけどなぁ」
「まぁ、最終的には自分次第だろうね」
「でもなんでスランプなの?」
鈴が不思議そうに聞いてきて私は少し悩んだ。
んー。上手く弾けなくなったのは・・多分鈴の事がきっかけだとは思うんだけど・・・
だけど今はそれだけじゃない気もする。
なんか、上手く弾けない・・ん?上手く弾かせてもらえない?・・んん?違うな・・なんだろう・・何がダメなんだろう。
「私もわかってないかも・・」
「何それ」
ただ、そうじゃないっ!ってはっきり否定されたのは雫ちゃんが初めてだったから、それが案外自分が正解だと思っていたことを壊しているのかもしれない。でも。それはいいことなのだろうか?
「よくわかんないけど、負けないでね」
鈴が苦笑しながら言う
負ける・・?これは勝負なのか?
「戦ってるわけじゃないし・・」
私がそう返そうとして自分の言葉と行動が全く噛み合ってないことにまた考えさせられた。
「スランプに負けないでって意味ね?」
「え、うん・・あぁ・・そうか・・」
そうだ。スランプの話だ。雫ちゃんの話じゃない。
「で、また調子良くなったらあの歌聞かせてよ」
「ん?歌?」
「ほら、前歌ってくれた。あの歌なんか好きなんだ」
「・・・うん」
今日一番に可愛く笑った鈴に私はどこか安心したように微笑み返す。
だけど心の隅では思う。口では『うん』と返したけど。あの歌はもう歌うことはない。誰に対しても、彼女に対してもだってあの歌はそう言う歌だから。
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