二十五話・『結審』
食事を兼ねた休憩を終えて、旅立つ頃にはシドも幾分落ち着いていた。
「なんだ、僕の顔になにかついてるのか?」
彼は、若干鬱陶しげにこちらを見ていた。
アッシュは無言で首を横に振る。
続いて、雪の階層に足を踏み入れようとした。
「…………」
だがそこで、ノインが背後に視線を向けていることに気がつく。
一応アッシュは声をかける。
「……どうかしたか?」
「い、いえ」
向けた視線は、どこか心配そうな色を含んでいた。
あるいは通路に一頭で残してきた馬のことが気がかりなのかもしれない。
しかし、それを追及したところでどうにかしてやれるわけでもない。
だから、アッシュは何も言わず頷いた。
「防寒が万全でない者はアリスに言ってくれ。あいつは大抵のものは持っている」
寒さに震えていては戦闘もままならないだろう。
だから、次の階層に入る前にもう一度確認しておく。
だが誰も名乗り出る者はいなかった。
早々に切り上げることにして、さっさと足を踏み出した。
「…………」
雪の階層に出た。
風が冷たい。
深い雪を抉りながら歩き、少し足場が心配だと思う。
もし必要ならば、雪を消し飛ばすくらいのことをシドに頼むべきか。
しかしどうにか進むことはできて、やがてまた意味ありげな看板に行き当たる。
「……立て札が」
ミスティアが言った。
体に落ちた雪を払いながらの言葉だった。
アッシュは答える。
「ああ」
全員がそれを見ていた。
しんしんと降る雪のはざまで、仄暗い景色の中にみすぼらしい看板が立ててあった。
足を早めて、看板の文字を覗き込む。
黒い色で字が書かれていた。
ほんの短い単語がぽつんと中央に記されていた。
「……これは?」
シドに目を向けて内容を問う。
すると、彼はすぐに答えた。
「『結審の間』……だと」
「そうか、ありがとう」
結審、つまりは罪と罰を決定することだ。
もしやこの、不毛で下らない塔の終わりが来たということなのか。
気を引き締めて、アッシュは他の面々に声をかける。
「慎重に進もう。ここから先は、シドは探知を切らさないでくれ」
「ああ」
無愛想な返事を聞き流して、ゆっくりと進み始める。
周囲を警戒しながら歩みを重ねた。
すると、なにやら粗末な祭壇のようなものの前にたどり着いた。
「…………」
石造りの祭壇は、所々崩れていた。
どうも、干からびた頭蓋骨が一つだけ置かれているらしかったが……。
「……アリス、どうかしたか?」
祭壇に近づこうとした時。
少し、アリスの様子がおかしいことに気がつく。
なにやら耳を塞ぐようにして、明らかに気分が悪そうな表情で立ち尽くしていたのだ。
「…………」
だから言及すると、彼女はふいと視線を逸らした。
無言のまま、何事もなかったかのように取り繕う。
「…………」
だが不可解と不安を感じたから、足を止めて彼女に向き直った。
さらに問いを重ねる。
「なにか気になることが?」
「……別に」
「いいから言え」
有無を言わさぬ口調で催促する。
彼女は、この塔についてアッシュたちには分からない何かを掴んでいる。
薄々感じてはいたが、今の反応で確信が強まった。
理解できるかどうかはともかく、聞かない訳にはいかなかった。
「あなたには、話したくないです」
顔を背けたままアリスは足を早めた。
どこかへ歩き去ろうとする。
しかしそれを見過ごすはずもなく、手を掴んで引き止める。
「……お前は、まだふざけているのか?」
夜の階層でもそうだった。
もっとはっきりと話してくれたなら、こうまで振り回されることはなかった。
昼の階層では特に、全滅してもおかしくはなかった。
「…………」
だから問いかけたのだが、アリスはびくりと顔を上げる。
怯えたような顔をしていた。
気にする余裕はなかったが、どうもそういう声が出ていたらしかった。
見かねたようにノインが割って入ってくる。
「アッシュ様、きっとアリス様にもなにか……」
やんわりとたしなめようとしてきた。
しかし冷たく言葉を返す。
「こいつは嫌がらせをしているだけだ。俺のことが嫌いだからな」
手を握られたアリスは怯えた表情を浮かべていた。
罪悪感が形になる前に彼女の手を離した。
すると、強気な目に戻って問いかけてくる。
「……命令するんですか?」
どうしようもなく虚勢だと分かる。
無論、アッシュにだって彼女の恐怖は理解できる。
首輪の痛みは、本当に嫌なのだから。
「ああ、その通りだ」
しかし必要なら躊躇うつもりはなかった。
なのでアリスにはそう返す。
すると彼女は俯いたまま、何も言わずに後ずさった。
「…………」
あとずさって、ただゆっくりとアッシュから離れようとする。
しかし、その時だった。
「おい、お前……」
とっさに声をかける。
祭壇に近づいたアリスが、突然現れた黒い霧に飲み込まれた。
どこか呆けたような声が聞こえる。
「えっ」
一瞬だった。
アリスが杖を取り落とす。
霧の中に引きずり込まれていく。
どこかに連れ去られようとしているのだと分かった。
きょとんとした表情で、彼女はこちらに手を伸ばしている。
そんな様子が妙にゆっくりと見えた。
「アリス様!」
ノインの声が聞こえる。
止めようと駆け出したようだったが、彼女の位置からは間に合わない。
動くべきなのはアッシュだ。
まず杖を拾い、その上で黒霧に飛び込むべきだ。
……しかしそんな判断を下したのは、反射的に踏み込んでアリスの手を握った後だった。
「っ……!」
なすすべなく霧に引きずり込まれる。
魔法や魔術の類ではないようで、アッシュにも抗うことはできなかった。
急速に暗くなる視界の中、握っていた手もいつしか離れてしまった。
そして、少しするとついに全てが闇に閉ざされた。
目に入る限りの全てが真っ黒に、真っ黒に塗りつぶされていく。
―――
『……大馬鹿野郎が』
……それは、誰かが漏らした最後の声だった。
いつか聞いた死の間際の音だ。
ずっと昔に通り抜けたはずの過去が蘇る。
置き去りにした記憶の中の声が、不意に耳を打った。
それで、気を失っていたアッシュは目を覚ます。
「…………ここは」
とりあえず、膝立ちになってあたりを見回した。
一面の泥の沼が広がっているのが分かる。
視界の限りが汚泥に覆われていた。
また、その泥の表層には数え切れないほどの人の死体が埋もれている。
真っ黒に染まって、苦悶に満ちた様子で天に手を伸ばしている。
しかしその手の先には空がなかった。
ただ薄闇の向こうは、岩の天井で覆われているだけだ。
ここは沼地で、なおかつ果てが見えないほど大きな洞窟だった。
「……ロクでもないな」
何度目になるか分からない悪態を吐いた。
それからアリスを探して歩き始める。
幸い泥は大して深くないようだった。
移動に差し支えはない。
だがなにぶん薄暗く、そのくせ果てしなく広い。
なのでアッシュは正直困り果てていた。
早く見つかって、脱出して、ノインたちと合流できたらいいのだが。
と、そこでまた幻聴が届く。
『お前たちに、何が分かる……! グレンデルは私の全てだった……!』
記憶の中の誰かの声だった。
どうやらここはそういう趣向らしい。
さっさと覚悟を決めて、アッシュは気にせず足を踏み出す。
不快だが、足を取られてしまえば敵の思惑通りでしかないだろう。
「…………」
そこで唐突に、泥の光景が姿を変えた。
見えたのは、土が敷き詰められた広場だった。
石の壁に囲われて、薄赤い光に照らされている。
首輪をつけられた子供の死体がいくつも転がった……。
「クソ……」
視覚に狂いが生まれたことで、思わずふらついて倒れかける。
だが、なんとか手をついた。
死体が溶け込んだ泥の海に手をついて、足を滑らせないように注意しながら立とうとする。
その間も幻覚は見え隠れしていた。
「……クソが」
幻覚だと分かっている。
こんなものに心を惑わされる必要はない。
今度は、血まみれの子供が命乞いをする光景がまぶたの裏をちらつく。
誰かが剣を振り下ろした。
「…………クソ」
思わず怒りに任せて泥を殴った。
汚泥が跳ねる。
すると、跳ねた泥に幻覚の血しぶきが重なった。
「…………」
冷や汗を流す。
心臓が激しく脈打つ。
強く強く歯を食いしばって立ち上がる。
また歩き始めた。
『いやだよ、死にたくない……! こんなの嘘だ……!』
雨が降る中の記憶だ。
それは、怯える誰かの声だった。
守れなかった兵士の呻きだった。
『勇者がいるのに、なんだって、こんなことに……』
視界がぼやける。
痛みしかなかった過去が、生身の感覚を伴って再び迫ってきていた。
打ち付ける雨を感じる。
憎悪に満ちた怒鳴り声が鼓膜を揺らす。
生々しく、人の肉を貫く感触が蘇った。
「!」
這い回る幻の感覚に耐えられず、右の手袋を外した。
かきむしるようにして爪を立てる。
すると、赤く焼けただれた右腕から魔物の黒い血が垂れた。
「……はぁっ……はぁっ……!」
息が乱れる。
そう待たずして、まぶたにも記憶を焼き付けられた。
触覚も聴覚も、嗅覚すらも過去に支配された。
やがて自分がどこで何をしているのかさえ分からなくなる。
それでも、ほとんど無意識に執念だけで足を動かす。
するといつしか、周囲の光景は焼けた街に変わっていた。
「…………」
強く強く唇を噛む。
その痛みで自らを取り戻そうとする。
気が狂いそうだった。
焼けた匂いも、空に照り返す火炎も、散らばる人の死体も、肌に感じる熱さも……何もかもが同じだった。
「違う……」
そんなはずはない。
血を吐くようにして呻く。
言葉では否定しながらも、幻が真に迫っていると感じる。
すると燃え盛る街の先に、アッシュは一つの人影を見つける。
立ち尽くす彼は。
燃える街よりもなによりも、強い火を纏う少年は…………。
「――――――――」
不意に、誰かの泣き声が聞こえた。
その声はかすかに、しかし確かにアッシュに自分を取り戻させた。
「…………ああ」
全てを捨ててきた場所が、炎の街が薄れていく。
泥濘と死体の世界が形を取り戻す。
とはいえまぶたの裏には、まだ記憶が張り付いていた。
幻聴もいまだ消えてはいない。
あらゆる感覚を罪に支配されながらも、それでもアッシュは彼女を見つけた。
「……また、泣いてるのか。お前」
泥の中で座り込んでいたのは、すすり泣くアリスだった。
アッシュの声にも気が付かず、彼女は一人で泣いていた。
「立てるか?」
答えは返らない。
無理矢理に手を取って、アリスを立ち上がらせる。
「いや……助けて、いやだよぅ……」
本当に手がかかると思った。
ため息を吐いて、なるべくはっきりした声で呼びかける。
「何を見てるのかは知らないが……落ち着け。落ち着いて、背中に掴まれ」
彼女は、まだアッシュのことが分からないらしい。
握った手を振りほどこうと暴れてくる。
無駄に感応力が高いせいか、どうもアッシュよりも強く記憶に侵されているらしい。
どうしようもないので強引に首に腕を回させた。
そして、アッシュは彼女を背負って歩き始める。
「……アッシュさん?」
どうも、ようやく気がついたようだった。
涙に濡れた声が問いかけてくる。
「そうだ」
アッシュの目には、まだ忌まわしい過去が見えていた。
だから余裕はなかったが、なんということもないようなフリをして答える。
また泣かれては面倒だったから、安心させる必要があった。
しかし、むきになったような声でアリスが突き放してくる。
「……下ろしてください。あなたなんかに背負われたくありません」
だがあいにく従ってはやれなかった。
アッシュとしても、背負われたくない気持ちは分かるのだが。
「ここは、敵の腹の中のようなものだ。なにがあるか分からないから、背負われていろ」
しかしまだ不服なようだった。
不満げな息が漏らされるのを感じて、アッシュはため息を吐く。
「……お前が杖を落とさなければ、こうもならなかったがな」
召喚獣ならば多少の危機には対処できるだろうし、なにより彼女は精神に防壁を張れる。
それさえあれば、二人とも今よりはずっとマシな状態でいられただろう。
もちろん言っても仕方がないことではあるが、痛いところをついてひとまず黙らせたつもりだった。
「……ふん」
背負われているくせに、アリスは偉そうに鼻を鳴らす。
しかし邪魔をしなければ態度はどうでもいい。
なので、アッシュは黙って進むことにする。
「…………」
歩きながら、外套ごしにアリスの体温を感じた。
そして、ふと一人でなくて良かったと思う。
きっと一人なら、アッシュもアリスも幻に呑まれて狂死していただろう。
他の誰かがいるという感覚は、現実に意識を留めるために必要なものだった。
「……おい」
アリスに語りかけた。
内容は、別に何でも良かった。
「さっきの、言いたくないと言っていたことはなんだ?」
泥の中で歩き続ける。
感覚は今も幻に蝕まれている。
だから気を紛らわせたくて、アッシュはそんなことを問う。
するとアリスは意外にもすんなりと答えた。
彼女も同じで、幻に抗うために話したかったのかもしれない。
「助けてくれと、何かが……魔王が言う声が聞こえたんです。はっきりとした声で」
「それは……」
「多分、もう近いということでしょう」
意味するところは分かった。
だが、どうして言うのを拒んだのか理解できなかった。
するとアッシュの疑問を知っているかのように、先回りして彼女が口を開く。
「言っても意味がないですし……あなたに逆らいたかったので」
「どうして?」
「……あなたが、命令すると私を脅したからですよ」
アッシュは黙り込む。
塔に入る時、確かに命令することを示唆した。
「…………」
これが原因だったのかと思う。
もしかすると彼女が反抗的な態度を貫いたのは、それが原因だったのか。
彼女は、いつ命令されるか分からなくて不安だったのだ。
あえて逆らうことで境目を確かめようとしていたのだろう。
今まで一度たりとも命令はしなかったアッシュが、今回ばかりは本気なのかどうかを確かめていたのだ。
思えば従わせたいなら命令しろと、そんなことを何度か言われた気もする。
「……悪いとは思わない」
嘘だった。
アッシュは確かに罪悪感を覚えていた。
命令すると脅されることが、どれだけ恐ろしいことか知っている。
これを脅しとして持ち出されることに、相手がどれだけの恐怖を感じるのか分かっている。
人の尊厳を踏みにじる行為だった。
そうして脅すのは、命令することと何も変わらないと思う。
何故ならその脅しも、同じく首輪の痛みを突きつけて他人を従わせることだからだ。
もちろん、必要ならば躊躇うべきではない。
だがアッシュは、今回あまりに軽々しく持ち出してはいなかっただろうか。
塔を登ることに執着するあまり、そんなことにも気がつけなかったのか。
ため息を吐いて、必要な分だけの非を認める。
「命令しないと、約束はしない。……だから謝るつもりもないが、少し軽率だったとは思う」
するとアリスは感情が伺えない声で、冷たい声で問いかけてくる。
「……悪いとは、思っていないんですか?」
「当たり前だ」
ここで謝ることは単なる罪の上塗りでしかない。
謝ったところで、アッシュはこれからも彼女を縛る。
命令しないと約束もできない。
であれば、そんな虚しい謝罪は自己満足だ。
罪に手を染めるアッシュが、自分が救われたいから口にするだけの言葉でしかない。
「軽率な振る舞いで士気を下げたのは失敗だったが、わざわざお前に謝ることでもないだろ」
憎むべき冷徹な命令者として振る舞い、その上でいつか殺される。
それがアッシュに可能な唯一の贖罪だった。
だから突き放すと、にわかにアリスが暴れて背を降りようとする。
「背負われていろ」
「……嫌です」
その言葉に足を止める。
ため息を吐いて言い聞かせる。
「俺が憎いんだろうが、生きて帰りたいなら従え」
「違います。……あなたに触るのは、気持ちが悪いんですよ」
どこか泣きそうな声だった。
アッシュは足を止めたまま俯く。
もうどうすればいいのか分からなかった。
「…………」
しかし、どう考えてもアリスの言い分が正しかった。
アッシュは彼女にとっての憎い男で、その上人でさえない化物なのだから。
「そういうことでは……」
「いいから。……戻るまでの辛抱だ」
なにか言おうとした声を遮った。
アッシュはまた歩き始める。
罪の幻影が重なる光景の中、死体と泥の海を歩き続ける。
「…………」
時折、アリスが泣き声を漏らすのが聞こえた。
まだなにか見えているのだろう。
聞こえてくる濡れた声と、触れた体温だけがかろうじてアッシュを現実に留めていた。
「……降りてくれ」
やがて行き止まりにたどり着いたので、背負っていたアリスを下ろす。
行き止まりでは、首のない死体が一つ、岩の壁に背を向けて座り込んでいた。
「手を」
なんとなく、これに触れれば帰れるような気がした。
だからアリスへと手を伸ばす。
あの黒霧と同じように、一人しか移動させない物かも知れなかったから。
「…………」
だが彼女は、中々差し出した手を握らない。
訝しんだところで、アッシュは手袋を外した右手を差し出していたことに気がついた。
「……すまない」
焼けただれた肌は、手に取るには気持ちが悪かっただろうか。
だから謝罪すると、アリスがぽつりと言葉を漏らした。
「……その手」
「ああ」
「左手の侵食とは、ずいぶん違うように見えますが」
確かに、この右手は赤く焼け爛れている。
対して、魔物に侵食された左半身は黒く焦げ付いている。
だから不思議に思ったのだろうが、その答えは実に単純だった。
「元々、俺の腕じゃないんだ。別の人間の死体から奪ったものだ」
「……それって」
聞いて、彼女が目を見開いた。
アッシュは小さく鼻を鳴らす。
「そうだ、死人の腕だ。妙なものを差し出して悪かった」
謝って、代わりに左手を差し出そうとする。
しかしその前に右手が握られる。
ほんの少しだけ意外に思う。
「……すまない」
柔らかな手の感触を感じながら、もう一度謝った。
しかし答えは返らない。
だから、そのまま死体の肩に左手を触れた。
「…………」
すると、予想通り異変が起きた。
眠りに落ちるようにして知覚が閉ざされていく。
真っ暗に真っ暗に、何もかもが塞がれていく。
やがて、そう待たずしてアッシュは再び意識を失った。