二十話・淫売婦メリッサ
戦いのために生まれたわけではない。
人間は色んな生き方ができるのだと、昔誰かに言われたことがある。
その言葉は確か、戦うために集められた孤児がどうして勉強なんてするのかと……不満げに口を尖らせた一人に返されたものだ。
人だから学ぶのだと。
いつまでも兵士である訳ではないのだと、いつか剣を捨て歩めるようにと。
そんな風に言われて教わった勉強は、存外に楽しいものだった。
今はもうあまり覚えてはいなくて、こうしている間にもきっと少しずつ抜け落ちている記憶だ。
一つ、また一つと取り落とす度に人でなくなるような疼きだけを残す残骸は、きっともうアッシュには必要のないものだった。
―――
魔王の領域は、どれだけ時が経とうと夕暮れから風景を変えることはなかった。
しかし数え切れないほどに夜を明かしてきた身には、そろそろ夜明けの頃合いであると分かった。
だから、アッシュは見張りをやめて腰を上げる。
そして礼拝堂の赤茶けた屋根から一息に飛び降りた。
高所で、見張りには都合がいいから居座っていたのだ。
「教会を足蹴にするなんて、勇者様はお偉いんですね?」
礼拝堂の入り口の正面に着地した。
すると、すぐに満ちた言葉が投げかけられる。
アッシュは下にいた彼女の気配を悟っていたので、特に驚かず言葉を返した。
「異教の礼拝堂だ。知ったことではない」
「何教だろうが踏んづけるでしょうよ、あなたは」
もう答えず、着地の衝撃に折りたたんでいた足を立てる。
立ち上がってアリスに語りかけた。
「感謝する」
「ええ」
彼女はどうやら村の井戸から水をくんできたようだった。
つまり、本人が言うところの『飯炊き女のような真似』を買って出ると言うことなのだろう。
心変わりの真意はどうあれ、恥をかかせるつもりもなかった。
だからアッシュは礼だけを口にする。
すると、彼女も澄ました顔でそれに答えた。
―――
朝の食卓、調理の役目を奪われたシドは、白けた表情で席についた。
長机では、アリスとノイン、それからアッシュが並んで座っている。
この三人の対面には、ミスティアとシドが着席した。
「…………」
何を思ったか、シドが不可解そうに朝食の皿を見下ろす。
そして口を開いた。
アリスへの問いかけだ。
「どういう心変わりだ?」
「どうだっていいでしょう」
彼女はやはり、澄ました顔で返した。
続けてナイフとフォークを手に取り、自分の皿のハムエッグを食べ始める。
その無駄に上品な所作を横目にしつつ、アッシュは右手でナイフを持ってハムを切り分けていく。
全て切り分けて、その後はフォークで一欠片ずつ食べるつもりだ。
左手が使えないから、アッシュはいつも行儀の悪い食べ方をする。
「…………」
沈黙の中で食事が続く。
献立は、ハムエッグにコッペパン、あとは塩と香草で味付けされた肉のスープだった。
「しかしあなたたち、普通に食べるんですね」
ふと漏らされたアリスの言葉を受けて、対面に座る二人は顔をしかめる。
「あなたが一方的に敵視してるだけじゃないの?」
「癪だけど、食い物を粗末にするのは嫌いだからな」
二人共、むっとしながらもまぁまぁのペースで食事を口に運んでいる。
アリスは呆れたようにため息を吐いたが、それ以上なにか言うこともなく食事に戻った。
「…………」
実際、彼らがアリス個人になにかしたということもないはずだ。
シドの態度にも問題はあるが、アッシュの知る限り最初から彼女は二人の悪口を言い続けていた。
だから、今の関係はほぼアリスの手で作られたものだと言えるだろう。
けれど、ここでそんなことを言っても意味はない。
だからアッシュは、先日見た塔の光景について話すことにする。
しかし、ノインが祈りの途中であることに気づいて口をつぐんだ。
「…………」
塔に入ってから、やけに長くなった祈りが終わるのを待つ。
彼女が目を開いたのを確認して、アッシュはゆっくりと口を開いた。
「すまないが、話がある。食べながらで構わないから聞いてほしい」
その言葉に、アリス以外は意識を向けてくれた。
しかし、彼女だけはやはり素知らぬ顔をしている。
とはいえあれでも馬鹿ではない。
聞いていない振りはただのポーズで、聞くべきところは聞いているのだろう。
そう判断したアッシュは、次にノインの目を見つめた。
彼女はパンに伸ばそうとしていた手を止めて、こちらを見て話を聞こうとしていた。
だからゆっくりと頷くと、止まっていた手がまた動く。
食べながらでいいと伝わったのだろう。
手がパンにたどり着いて、食事が再開される。
「で、話ってなにかな?」
食事を続けるミスティアが、アッシュに向けてそんなことを口にする。
彼女は、小瓶の香辛料をスープに入れているようだった。
アリスがゴミを見るような目でミスティアを見ているものの、特に気にせず会話を続けた。
「ああ。実は昨日、塔の先を見てきた。そのことについて話したい」
その言葉で、テーブルについている面々の空気がわずかに変わる。
きっと興味があるのだろう。
「あの礼拝堂の奥には、例の階段がある。だが異常な様子だった。だからこの先は試練の難度も上がるかもしれない。……まぁ、それだけだ」
言い終えて、アッシュはパンをちぎって少しスープに浸して食べる。
すると、心持ち眼差しを鋭くしたシドが問いを重ねる。
「異常とは?」
アッシュは答えるかどうか少しだけ悩む。
食事をしながらしていい話なのか分からなかった。
他の面々がどう思うのかに確信を持てない。
正直もう、そのあたりの感覚は狂ってしまっている自覚があった。
なので迷いはしたが、問題ないだろうと判断して口を開く。
「死肉にまみれていた」
「どういうことだ」
「想像した通りの悪趣味だ。露悪的だったよ」
そう言うと、彼はうんざりしたように顔を逸らす。
「…………」
ここに至るまで、この塔はただひたすらに嫌がらせのように悪意だけをぶつけてきた。
こちらの心労を誘うという意味では、きっと効果はあったのだろう。
そこで、ふと気になりアリスに視線を向ける。
彼女ならなにか、この変化の意味を分かっていないだろうかと思ってのことだった。
「…………」
アリスはこちらの視線に気がつくと流し目を送ってくる。
が、すぐに視線は逸らされる。
当てつけのような逸らし方だった。
まさかここまで根に持つなど、つくづく面倒な人間だと思った。
―――
洞窟を抜け、進むのは死肉の道の中だ。
黄色がかった朧な光に照らされ、肉が蠢く奇怪な空間を歩く。
石材から溢れる肉が、動きの抑揚に伴ってかすかに音を立てるのが聞こえる。
「…………」
誰も彼も無言だった。
異様な光景を前にして、話す気など失せてしまったのか。
足音以外に音を鳴らすのは、馬くらいのものだった。
「……大丈夫?」
どこか元気のない馬に、手綱を持ったノインが小さく声をかける。
するとそれに応えてか、馬も抑えた声で鳴いたようだった。
そんな様子を横目にアッシュは口を開く。
「見えてきたな」
今度は夜の階層なのか、あるいは単に暗いだけか。
階段の先に暗い風景が覗いていた。
「…………」
誰も答える者はいなかった。
しかし、元より独り言のつもりだったので構わない。
鬼が出るか蛇が出るか。
そんな慣用句を思い浮かべつつ、アッシュは怯むことなく足を進めた。
―――
階段を抜けた先は、夜の世界だった。
星は明るく、月も高く輝いている。
しかし雲と薄霧に覆われていたから、周囲は暗い。
また、薄い霧の影響か少しだけ空気が冷たかった。
「なんでしょうか、これは……」
ノインが呟く。
見る限りだとここは、どうも高台にある草原のようだった。
緩やかな傾斜を降りた先には、遠く街が見えている。
しかし、そこでノインが慌てたような声を上げた。
「だめだよ」
馬が草を食べようとしていた。
足元に生える、夜露に濡れて瑞々しい植物が魅力的に見えたのだろう。
何を案じてか制止するノインを振り切って、馬はかなりの勢いで草を食べようとする。
「おい、行くぞ。馬は草食うもんだろ、気にするな」
不機嫌そうにシドが言った。
だがノインはかぶりを振る。
「でも……」
「でもじゃない。お前だって下で、井戸の水飲んだだろ」
彼女はあの……肉の道の光景の後だから、神経質になっているのかもしれない。
しかし、確かにシドの言う通りだった。
一応アッシュが毒味をしたとはいえ、彼女も水を飲んでいた。
そして実際に飲めたのだ。
草を食べられないという道理はないだろう。
だから、アッシュもノインを諭す。
「馬は放しておけばいい。先に進もう」
言いつつ、心配そうなノインの手から手綱を取る。
そのまま手綱を手放すと、馬が軽く草をついばみ始めた。
ノインは少し不安そうではあるが頷く。
「……わかりました」
その言葉を受けて、誰からともなく歩き始める。
行き先は高台から降りた先の街だ。
沈黙の中で進み続けるが、隊列は心なしか狭まっていた。
各々が警戒しているのであろうことが理解できた。
しかし突然、奇妙な声が聞こえたのでアッシュは足を止める。
「聞こえているか?」
先頭に立っていたから、振り返って全員の顔を見る。
すると、アリスとノイン以外は分かっているようだった。
だから言葉を続ける。
「小さく、赤子の声のようなものが聞こえる。泣いているらしい」
ここは見る限り何もない、音すら死んだ平原だ。
けれどどこからか、遠く赤子の泣き声が聞こえてくる。
「…………」
誰も答えない。
ノインが少し怯んだような顔をしたが、何も言うことはなかった。
だからひとまずは移動を続けることにする。
そうして歩きながら、アッシュはまた悪趣味な仕掛けを目にするのかと考えていた。
いい加減うんざりしていると、やがて平野の先に街の入り口が見えてくる。
「また看板がある」
夜目が利くのか、ミスティアがそんなことを呟いた。
そしてその言葉通り、街の入り口の横には無造作に設置された立て札がある。
「……『灯光』」
彼女は魔術を行使し、大きく開いた門の前に歩いていく。
さらにみすぼらしい立て札に顔を寄せ、書いてある文字を読み上げた。
「……『淫売婦メリッサ』『尋問官デズモンド』『子殺しの罪』」
「ん? ああ……そうか」
読み上げた声に、なにやら得心した様子のシド。
二人はなにか理解できたようだった。
それが気になったので、アッシュは問いかける。
「なにか心当たりでも?」
するとシドが答えた。
「いや、古い伝承だ。この地域で昔大規模な異端者狩りがあったことは知っているか?」
今度は彼の方から質問が返ってきた。
だから、アッシュは少し思案する。
「…………」
異端者狩り。
それはずっと昔、まだアトス教以外の宗教が大陸で勢いを保っていた時代の悲劇だ。
すなわち、教会により異教を信奉する者は邪教徒と断じられ、凄惨極まる拷問の果てに命を奪われたのだ。
「知らない」
だが、あいにくと教会はその事実を消し去ろうとしている。
さらに、異端者狩りについての資料も今ではほとんど残っていない。
そのため異国の悲劇については知りようもなく、知らぬと答える他になかった。
するとシドはため息を吐く。
「……そうか。まぁ、それはいいんだ。ともかく精霊信仰を制圧する関係で、このあたりでは特に酷い狩りがあってな。矛先を向けられた一人がメリッサってわけだ」
仮にも国教として掲げるものの暗部を突きつけられた。
一応、国民ではあるアッシュはなんとも言い難い気持ちになる。
しかし、シドは首を横に振ってさらに続けた。
「とは言え、哀れであるかというとそうでもない」
「どういうことだ?」
「メリッサについては『本物』だったと、そういう見方が主だっている」
曰く彼女は売春婦で、孕んだ赤子を産んではすり潰し、怪しげな呪いの素材に用いていた。
果ては人の子供までもさらい、無惨に殺した本物の邪教の徒であったのだとか。
続けて、今度はミスティアが口を開く。
「で、その悪事を暴いたのが尋問官デズモンドで、処刑されたメリッサは子をさらう悪い精霊になって今もあちこちを……なんて、そういう伝承があるんだよ。……まぁ」
尋問官の求愛を断った町娘が、腹いせに罪をでっち上げられたとかいう話もあるけどね、と。
ぽつりと言葉が付け加えられた。
ある程度の要領を得たアッシュは礼を言う。
「ありがとう。この階層の試練は、これらの伝承が関わるようだな」
遠く聞こえる赤子の声と立て札、さらに語られた逸話の内容。
それらを思えば、恐らく今の話が重要な鍵になるはずだ。
「行こう」
声をかけて歩き出す。
聞こえている赤子の声は、街に入ると大きくなった。
けれど、どこから聞こえるのかは不思議と辿れない。
「ひっ……」
背後で、ノインが小さく声を漏らした。
立ち止まったようだった。
足を止めて様子をうかがう。
「なにかあったのか?」
「い、いえ……赤ちゃんの声が、聞こえたので……」
「ああ……」
彼女はシドやアッシュたちのように、素の身体能力が高いわけではない。
聴力、つまり音を聞ける範囲では一歩譲るのだろう。
だからこれまでは聞こえていなくて、今になって気づいたと言うことだ。
「…………」
と、そこで。
シドがにやにやと笑っていた。
杖の先に明かりを灯し、萎縮したノインの顔を白く照らす。
「…………なにを」
「さっきから顔色悪いが、もしや怖いのか?」
「そ、そんなこと……」
さっきから、つまりミスティアの話を聞いてからだろうか。
場合が場合なので淡白な語り口ではあったが、確かにおどろおどろしい物語ではあった。
子どもをさらう悪い精霊になって今も……というようなオチもついていたからなおさらだ。
「…………」
真に受けて怖がっていたのかもしれない。
すると予測を裏付けるように、照らされた顔はまさに蒼白だった。
シドが笑う。
「お前、夜中に便所とか行けなさそうだな。騎士ってそんな生ちょろいのか?」
するとノインが声を震わせた。
「い、いけましたよ。いけてましたよ……?」
「ははっ。おいミスティア、大声で歌でも歌ってやれ」
「了解です、歌います。……大いなるティルズ山脈〜とても高い、高い〜。登るのひと苦労〜」
赤子の鳴き声を背に、楽しげにはしゃぎだす三人……いや二人か。
それを冷たい目で見て、小さくアリスが呟いた。
「耳が腐る」
どうやら歌声に対しての評らしい。
アッシュは一つため息を吐いて、三人の間に割って入る。
「今いいとこだったのに……」
心底残念そうにするミスティアを無視した。
それからノインの前に立つ。
目を真っ直ぐに見て問いかけた。
「怖いのか?」
「い、いえ……」
またため息を吐いて、アッシュはノインの手を左手で握る。
右は剣を握るため塞ぐわけにはいかないし、鈍い左手だって何かを握るくらいはまだできるのだ。
言葉を続けた。
「怖いなら連れて行く。悪いが落ち着くまで待つ暇はない」
古い記憶、怖い時は誰かに手を握ってもらっていたような気がする。
だから気休めでもいいから手を握った。
けれど、案外効き目はあるようだった。
これ以上なにも言うことなく、しっかりとした足取りでついてくる。
やがてまた、少し進むと話しかけてきた。
「あの……」
「なんだ?」
そう返しつつも、横にいる彼女に視線は向けない。
周囲を警戒しつつ、会話を続ける。
すると少し躊躇った後、その言葉は続けられた。
「ぶ、文章が、書けるようになりました……」
「?」
意味が分からない。
何を意図しての発言なのか、全く分からなかった。
だから足を止めて真意を聞こうとするが、ふと礼拝堂での一幕を思い出す。
確かあの時、偵察に出ようとするアッシュに彼女がなにか言いたげにしていた。
あの時は呑み込んだが、今なら言えると思ったのだろうか。
本当はあの時言おうとして、我慢をしていたから突拍子もない発言に聞こえたのか。
「……それはいいことだ」
短く返しながらも足を進める。
もう左手にはあまり感覚がないので、ノインの手の感触は分からない。
「はい」
だが今交わした会話に、そして手を繋いだ距離に。
ロスタリアの街に出かける前に感じた、言葉にできない違和感をまた胸に募らせた。




